
伊沢修二と台湾のことを書いてみようと思います。
教育とは何かを考える手がかりになると思うからです。
「仰げば尊し」は、一定の年齢以上の方なら、みなさん卒業式の思い出と重なる曲です。
もともとスコットランド民謡の「Song for the Close of School」が原曲ですが、これを伊沢修二が文部省音楽取調掛だったときに移植し、明治17(1884)年に文部省唱歌としたのが、そもそもの始まりです。
また以前、このブログで「ヤマハさんとカワイさん」のお話をご紹介しましたが、ヤマハの創業者の山葉寅楠(やまはとらくす)が、河合さんと一緒に、日本の子供たちのためにと必死になって作った日本製のオルガンを、ちゃんと使えるものにし、また全国に普及させる手がかりをつくってくれたのも、当時、東京の音楽取調所(現東京芸術大学)で西洋音楽の指導所長だった伊沢修二いればこそでした。
そしてこの伊沢修二が、実は台湾の教育制度の確立した最初の人でもあるのです。
伊沢修二の生まれは、長野県伊那市です。
ここは昔の高遠藩で、もともとは諏訪氏の一族だった高藤家が治めていたところなのですが、武田信玄の傘下にはいり、江戸時代には、ここには会津藩の初代藩主だった保科正之(ほしなまさゆき)や、家康の重臣だった鳥居元忠(とりいもとただ)直系の鳥居家、同じく家康の重臣だった水野守信(みずのもりのぶ)の子孫の内藤家が藩主となっていたところです。
実はこのことが、伊沢修二とたいへんに重要な関わりをもっていて、高藤藩が代々幕府直参の大名が治めた土地だっただけに、たいへんに教育、それも実学としての教育に熱心だった藩でもあったのです。
と申しますのは、幕府の高官を勤める家というのは、たいへんなお金がかかります。
これは日本の武家社会の特徴でもあるのですが、いまではすっかり、権力のある人=潤沢な経費を使える人と思われているようですけれど、江戸の武家社会というのは全然違っていて、幕府の高官を務めるということは、下級役人なら「俸禄があがる」という意味になりますけれども、高官の場合は、逆に「持ち出しが増える」という社会だったのです。
ですから大身の大旗本で藩主の地位得るということは、名誉なことではあるけれども、経済的には持ち出しが増えてたいへんなことになる。
なぜなら、その藩に封ぜられたということは、その藩をもっともっと富ませなければならないということでもあるからです。
高藤藩は、長野の山の中の藩であり、石高も決して多くありません。
そこを豊かにして、お殿様が幕府高官として活躍できるようにし、同時に藩民の生活を豊かにする。
そのために、高藤藩では、藩をあげて実学の教育に力を入れ、その教育の成果として、桑園や蚕の生産の向上、生糸生産、紡績産業の育成、薬草生産など、産業奨励にものすごく力を入れていたわけです。
そしてその原点が、教育の充実におかれていました。
もっとも、そだけ産業育成に力を入れながらも、代々の高藤藩主は、幕府の要職を歴任した関係で出費が嵩み、藩の財政状態そのものは、江戸時代を通じて幕末まで火の車です。
本題から逸れますが、たとえば讃岐うどんはとても有名で、これについて戦後の教科書などは讃岐が幕府直轄領であったために、年貢の負担が重くて生活に困ったお百姓さんが、田んぼのあぜ道に小麦を植えたのがはじまり、などと意味不明の解説をしていますが、実は全然違います。
明治から大正、昭和初期にかけて、国会議員というのは「井戸塀政治家」などと言われました。
「井戸塀政治家」というのは、政治家になると経費が嵩み、親から受け継いだ莫大な財産も、政治家を引退する頃には井戸と塀しか残らないくらい、持ち出しばかりで財を失うから、そのように呼ばれたものです。
実はこれは江戸時代からの伝統で、要するに幕府直轄領などで、幕府の要職を歴任するような大藩の場合は、幕府の要職を勤めるために経費が嵩み、どの藩も、みんな財政が逼迫したのです。
しかし、だからといって藩のお百姓さんたちから苛酷な税の取立をして藩内の反感を買えば、逆に民政に不祥事ありとして藩がお取り潰しに遭いかねません。
ですから、徳川の旗本の各藩では、藩内の殖産興業に力を入れました。
それが讃岐の小麦(うどん)だし、高藤の薬草や高藤焼と呼ばれる焼き物、あるいは木綿や絹糸の生産だったわけです。
こうしてできた物産品は、江戸に運ばれ、大きな市場を形成し、藩民の生活を豊かにしていたのです。
特に高藤藩では、産業育成には教育が欠かせないと、藩内の教育に熱心に取り組みました。
そういう藩風に生まれ育った伊沢修二は、ですから新政府の教育に、たいへん熱心かつ精力的に取り組んでいたわけです。
そしてその伊沢修二は、日清戦争が終わった明治28(1895)年の下関条約が締結された直後に、台湾へ渡って、台湾総督府民政局の学務部長心得に就任しています。
この経緯がとても素敵です。
下関条約が締結されたのは、明治28(1895)年4月17日です。
このとき、台湾の初代総督として、薩摩出身の樺山資紀(かばやますけのり)が内定したのですが、このときに伊沢修二は、樺山資紀に会いに行っているのです。
そして、「新領土台湾では教育こそ最優先にすべき」と意見具申しています。
伊沢修二は、この20年前に、米国に留学した経験を持っています。
そして冒頭にも書きましたように、東京音楽学校の初代校長などを歴任している、いわば日本を代表し、日本国家によって育成された明治日本の教育界の大御所だったわけです。
その伊沢に、樺山資紀は、「では、あなたが台湾に行ってそれをしてください」とやったわわけです。
これが何を意味しているかというと、ひとつには、、日本は、日本を代表する教育者を台湾に送り込んだということだし、ふたつめには、それだけ日本は台湾に誠実だったということだし、みっつめには、これを引き受けた伊沢も、まさに良心のかたまりだった、ということであろうと思います。
ところがこの頃の台湾は、マラリア、赤痢、コレラなどの風土病が蔓延する、いわば危険地帯です。
しかも日本に割譲される10年前から清朝が台湾に台湾省を置いて、China史上初(実はほんとうに初)の台湾
統治に乗り出していたのですが、現地の人々の反発が強く(あたりまえです)、三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の強い反乱が繰り返されていたのです。
要するに、治安のままならない、しかも病気の蔓延する危険地帯のわけですが、そこに、樺山資紀をはじめ、伊沢修二など、まさにわが国を代表する優秀な人材が、自ら進んで「行こう」と決意しているわけです。
民族や人種が持っている傾向性というのは、千年や二千年でそうそう変わるものではありません。
もちろん個体差というのはあって、良い人もいれば、よからぬ人もいる。
けれど、民族として集団になったとき、その民族の傾向性というは、明確に出ます。
この伊沢修二の訪台に先立つこと21年前に、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)というのがありました。
宮古島の漁民54名が遭難して台湾に漂着したときに、台湾の原住民に襲われて全員殺されたという事件があり、これに対して日本は清国に賠償を求めたところ、清国は台湾は自国の領土ではない(化外の民)だとの回答だったために、日本が、台湾に出兵したものです。
実はこれが明治日本における初めての海外出兵です。
このとき台湾に向かったのは、総大将西郷従道、谷干城・赤松則良などが指揮する3600名の精鋭です。
戊辰戦争の経験を持つ近代装備軍です。
対する台湾側は、ナイフと弓だけの台湾パイワン族です。
ところがこの戦いで、なんとパイワン族は、30名の死者を出しながらも、銃や大砲などの火器による近代装備に身を固め、戊辰戦争での戦いの経験も持つ日本軍を見事に押し返しているのです。
パイワン族の人たちが、どれほど勇敢だったかわかります。
風土病が蔓延する厳しい土地で、思いやりをもって互いに助け合って暮らしながら、身を護るために戦うべきときには断固として戦う。
そうした台湾の人々の気質は、まさに、日本人に勝るとも劣らない。
だからこそ伊沢修二は、台湾の人たちについて、「台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である」と、実際に台湾に足を踏み入れ、台湾の人たちと起居を共にして、そのように結論づけました。
そてい台湾の人々が、さらに高い教育を受け、文明化していけば、またたく間に立派な民族に育つと信じたのです。
日本が日清戦争に勝利し、下関条約で台湾の割譲を受けたのが明治28(1895)年4月17日です。
伊沢修二が台湾総督府の学務部長心得として台北に赴任したのが、同じ年の5月18日です。
そして6月26日には、伊沢は台北の芝山巌に学堂を設置し、そこに地元の長老たちとの懇談によって6名の台湾人の若者を、新たな台湾人教師として育成するために、提供してもらっています。
伊沢は長老たちに説きました。
「自分たちがここに来たのは、戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもありません。日本国の良民とするための教育を行うためだ。」
そしてこの6名と起居をともにし、彼らに必要な教育論と、日本語教育を施しました。
この若者達が、どれだけ優秀だったかというのは、その6名が、わずか4ヶ月で日本語をマスターし、さらに教育論や教育実務についてまでも、優秀な成績で学堂の卒業に至ったという事実です。
もちろん、そもそも彼ら6名に漢文の素養があり、明治の頃の日本語の文章が、ほとんど漢字ばかりだったということも幸いしたろうとは思います。
けれども一般に、むつかしいとされる日本語をたった4ヶ月でマスターしたということは、彼ら6名が優秀だったということに加えて、それだけ熱心に伊沢の授業を受けたという結果でもあったろうと思います。
その彼らの卒業が11月末のことです。
ところが、翌年のお正月、伊沢が日本に帰国していたときに、その6名は約百名のゲリラの襲撃を受けて、全員斬殺されてしまうのです。
このゲリラ、日本の台湾統治を不服とする清国人の工作によって、君たちは日本人によって皆殺しにされるのだなどと、嘘を言ってあおられた台湾人によるものであったといわれていますが、その事実を知った伊沢の悲しみ、そしてそんな優秀な子供を失ってしまった親御さんたちの悲しみを思うと、胸がつぶれる思いです。
伊沢は、2月11日、日本で台湾に赴任する教師を募る講演をしています。
そのときの言葉です。
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お亡くなりになった6名について、悲しみに絶えません。
しかし、これから台湾で教育の任にあたろうという人たちには、この亡くなられた6名と同じ覚悟を持ってもらわなければなりません。
教育者は、ただの官吏ではないからです。
教育は、生徒たちの心の中に入らなければできません。
役所の中にあって人を呼びつけるようにするようでは、決して教育などできないのです。
身に寸鉄を帯びず、人々の中に入り込むのでなければ、教育などできません。
なぜならそこまでして、はじめて人は、相手の心の底にはいれるからです。
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実は、伊沢が台湾での教師を新聞で募集したとき、応募者は800名もあったのです。
ところが、この芝山巌事件の衝撃で、大量の辞退者が出、結局45名が、伊沢とともに、たとえどのような危険が待ち受けていようと、台湾の教育に命をかけようと覚悟を決め、このとき台湾にわたっています。
この45名は、同じ年の6月には台湾に渡り、約2ヶ月かけて台湾の日常語を覚えると、台湾に14カ所設置された日本語伝習所の教諭となって散っていきました。
この日本語伝習所は、20歳以上の若者と、7歳以上の子供たちを対象としました。
前者は、日本語のできる官吏を育成するため、後者は未来の台湾を担う人材を育てるためです。
そして、前者には一日25銭、後者には一日10銭の日当が支給されました。
いまでいったら、前者が日当2万5000円、後者が1万円くらいです。
しかも全部食事付きです。
当時の日本は、決して豊かな国ではありません。
台湾統治をするにしても、そんなに予算に余裕があるわけでもない。
日本語伝習所の教師たちにしても、8畳間に5人で寝起きするような貧しい生活です。
けれど、台湾と日本の一体化のため、限られた予算を最優先で人材育成のために、日本は使いました。
台湾統治の始めの頃には、Chinaの工作や、一部のはき違えた日本人などによる様々な悲劇がありました。
けれど、向学心に燃えた台湾の若者達、そして身の危険も省みず生徒たちと起居をともにして、新たな未来を築こうと努力した教師たち、そして日本の国をあげての台湾への取組みのなかで、台湾の人々は、ほんとうに日本人でよかったという実感を得るまでになっていきました。
武力で無理強いして征圧し、国を奪い、自国民の奴隷にするということが、世界の常識であった時代に、日本は、むしろ徳をもって高い民度を養い、みんなが一体化していこうという和と絆と結(ゆ)いの精神をもって、海外と接し続けました。
台湾で、日本時代を知る多くの方々、いまはもうご高齢となっていますけれど、みなさん、日本をいまだにとても愛してくださっています。
それだけでなく、むしろ積極的に「自分は日本人だ」ということに、たいへんな誇りをもっておいでの方もたくさんおいでになります。
伊沢修二が最初に学堂を開いた芝山巌には、いま芝山巌神社が建てられています。
そしてそこには、台湾教育に殉じ、命を失った日本人と台湾人、330名が祀られています。
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