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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727

■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版
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坂本龍馬1221

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さて、ここから本文です。
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坂本龍馬が暗殺されたのは、旧暦慶応3年11月15日(1867年12月10日)のことです。
場所は京都・河原町の近江屋で、午後8時頃、龍馬と中岡慎太郎の二人のいる部屋に、十津川郷士を名乗る男二名が押し入り、まず額を割られたうえ、数か所を斬られて即死したとされています。
享年31歳、数え年33歳の冬のことでした。


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この暗殺について、明治3(1870)年になってから、元見廻組の今井信郎が、取り調べの最中に、佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)で坂本龍馬を殺害したと供述し、これがいまでは定説とされています。
ところが他にも、新撰組の伊東甲子太郎(かしたろう)が新撰組のものと証言していたり、中岡慎太郎が犯人が「こなくそ」と言ったから犯人は四国の土佐藩士だったという説があったり、薩摩藩の西郷隆盛にとって、当時龍馬が邪魔だったからという説があったり、実際のところ、よくわからない、というのが実情です。
ただひとつはっきりといえるのは、龍馬は北辰一刀流免許皆伝の腕前であり、しかも当時としては大柄で、いまでいったらそれこそプロレスラーのような巨漢ともいえる堂々たる体躯であり、しかもある程度名の売れた存在であったこっと、さらに龍馬は拳銃を所持していたことです。
もし犯人が、見廻組や新撰組であるならば、これだけの大物で、しかも腕がたち、拳銃まで所持している攘夷の脱藩浪人を斬ったということは、自分たちの隊の名を売るにあたっての格好の宣伝材料です。
それだけの宣伝材料でありながら、斬った当時に、その発表をしていないということは、あまりにも不自然に思えます。
また、供述があったとしても、その供述の信憑性は極めて疑わしいと言わざるを得ません。
どういうことかというと、今井信郎にしても、供述した時期は、まさに戊辰戦争の最中であり、腕の立つ者は、貴重な存在でもあったわけですから、犯人不明の龍馬暗殺、しかも北辰一刀流免許皆伝で銃さえ携帯している龍馬を斬ったと発言すれば、おのれの値打ちを高めることができる。
そういうことから、供述をしたということは、これまた十分に考えられるわけです。
それともうひとつ、たいせつなファクターがあります。
それは、京の建物は天井が低い、ということです。
龍馬は額を割られたことが致命傷となっているわけですが、そのとき、斬りつけた相手の刀を、自分の刀で、鞘のまま、受けています。
龍馬は大男で、腕力も強い。
その龍馬が、片手であったにせよ、自分の刀で相手の打ち込みを受けたわけです。
相手の刀は、その龍馬の受け太刀をものともせずに、そのまま龍馬の額を割りました。
これは実は、ものすごいことです。
事件発生場所が屋外なら、刀を大上段に振りかぶって打ち下ろせば、龍馬の額を割ることもできたでしょう。
けれど、事件発生場所は、近江屋の二階です。
天井は低い。
つまり、それがどういうシチューションかというと、斬り込んだ相手は、中段から、座っている龍馬めがけて刀を打ち込んでいるわけです。
剣術というのは、相手の動きを読んで、その読んだ動きに併せて敵の剣を避け、相手を斬るというものです。
そのために剣術をする者は、徹底的に相手の動きを読む訓練を積みます。
いまの剣道と違うのです。
いまの剣道は、戦後GHQによって剣術が禁止されたときに、フェンシングの要素をずいぶんと取り入れていまのカタチになりました。
ですから、相手に竹刀をバシバシ打ち込むし、相手の打ち込みを竹刀で受け太刀も普通にします。
けれど、日本刀というのは、カミソリのように鋭利な刃物です。
相手の剣を剣で受ければ、刃こぼれするし、刀は曲がるし、折れるし、使いものにならなくなる。
ですから、とにかく相手の剣を受けないのが基本だし、ですから受け太刀というのは、基本、しません。
受け太刀しなくても良いように、相手の動きを読むわけです。
ところが龍馬暗殺の現場では、おそらく、襖の外で小者を斬り殺したあと、龍馬のいる室内に乱入した暗殺者は、襖を開けざま、間髪をいれずに龍馬に打ちかかったことでしょう。
ですから、龍馬は自分の剣を抜く間もなく、鞘のママ、相手の剣を受けざるを得なかったわけです。
そして部屋は天井が低い。
暗殺者の打ち込みは、上段からの打ち込みではなく、間違いなく中段からの面打ちであったことでしょう。
これでは、打ち込みの力は半減します。
ということは、普通なら、龍馬が刀を横にしてこの打ち込みを受ければ、それで龍馬が傷つくことはありません。
にもかかわらず、暗殺者の剣は、その受け太刀の上から龍馬の額を割っているわけです。
中段からの面打ちで、受け太刀の上から相手の額を割る。
これは相当な腕前の剣客でなければ、まずできない相談です。
しかも、龍馬と中岡慎太郎二名のいる部屋に侵入した暗殺者は二名だったと伝えられています。
近江屋にきたのは、数名ですが、部屋に暗殺にはいったのは、二名だけなのです。
つまり、二名に対して、二名で暗殺をしたわけです。
新撰組は、常に相手ひとりに対して3人で斬り込むというのが常の戦法でした。
見廻組も、似たようなものです。
つまり、常時敵の3倍の頭数で襲撃をしていたわけです。
ところが、龍馬暗殺では、二人で二人を襲い、両名とも暗殺をしているわけです。
つまり、暗殺者は、北辰一刀流免許皆伝で、拳銃さえも携帯している相手に対して、天井の低い室内で十分に殺害できるだけの腕前を持った猛者であった、ということですし、こういうやり方は、新撰組や見廻組ではありえない襲撃方法であったといえます。
つまり、龍馬暗殺を、単に供述があるからといって、それに決めつけるということ事態に、実は無理があるのです。
戦後の日本の学者は、常に証拠を求めるというやり方を歴史検証の基本に置いています。
これは、犯罪捜査をするのと同じ方法といえます。
けれど、自供があるから犯罪者であると決めつけることは、現代刑事訴訟法では、許容しません。
自白は、信憑性に乏しいからです。
同様に、書証があるからといって、その書証だけで犯人を決めつけることも、現代法学では禁止です。
犯罪捜査には、客観性が第一とされているからです。
同様に、供述があるから見廻組だ、新撰組だと考えることも、疑問です。
龍馬暗殺のような事件には、必ずその事件が起こるべくして起きたという蓋然性があるはずだし、客観的な現場検証の裏付けが必要になるからです。
そういう意味で、私は実は犯人について、紀州藩説をとっています。
どういうことかというと、龍馬は暗殺される8ヶ月前の慶応3年4月に伊予国大洲藩から「いろは丸」を海援隊で借り受けました。
ところがこの船が、借りてすぐの航海のときに、岡山県笠岡市沖で、紀州藩の大型船舶である「明光丸」と衝突し、宇治島付近で沈没してしまっています。
これは無理もないことです。
龍馬の「いろは丸」は45馬力、160トンの小船です。
これに対し、紀州藩の「明光丸」は、150馬力887トンの大型蒸気船です。
船の大きさの違いを考えたら、大型トラックと原チャリの事故のようなものです。
衝突の非は、明らかに紀州藩の明光丸にあります。
ところが相手は徳川御三家の紀州藩です。
方や龍馬は、一介の浪人者にすぎない。
竜馬は、紀州藩に賠償請求に出向くにあたり、「紀州藩と一戦交える覚悟ゆえ、万が一の時は妻をよろしく」と手紙に書いています。それくらいこの交渉は難事だったのです。
龍馬は、この交渉のために紀州藩に出向くのですが、紀州藩は相手にしません。
そもそも家格が違うのです。
たかが郷士の浪人者風情に膝を屈するわけにはいかない。
それにこの手の緻密な交渉事に、竜馬のような大風呂敷タイプは、不向きです。
結局、龍馬の交渉は暗誦に乗り上げ、代わって土佐藩の看板を背負った岩崎弥太郎が交渉役を交代します。
弥太郎は、この難しい交渉を、もちまえの剛腕で、またたく間に紀州藩に非を認めさせてしまいました。
このあたりは、さすがに後年、三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎です。
そもそも学力が高いし、土佐藩の看板がバックにあるし、そのうえ弥太郎は、当時の武士にしてはめずらしいほど、算盤勘定が巧みです。
そして岩崎弥太郎は、紀州藩と具体的賠償金の交渉にはいっています。
同じ頃、長崎に帰った竜馬は、もちまえの大風呂敷を発揮して、後藤象二郎に会って、政権を朝廷に返す案である「船中八策」を披露しています。
こういう政治的というか、大風呂敷は竜馬の得意な世界です。
この「船中八策」は、
1 幕府が政権を朝廷に返納することで、将軍家は一大名となっても新政府内での発言力を温存できる。
2 さらに薩長の討幕の理由もなくなる。国内の治安を復活させることができる。
3 欧米の軍事力(海軍力)に対抗するには、何より国内での戦費の流出を防ぎ、諸藩が一致して新政府を打ち立て、列強国に対抗することができようになる、
という、まさに一石が二鳥にも三鳥にもなる妙案だったのです。
ですから後藤象二郎は、すぐにこの案を土佐藩の前藩主である山内容堂に進言しましたし、容堂は10月3日には、この案を将軍に奏上し、15日には大政奉還が実現しています。
まさに、龍馬の大ボラが、こういうところでは、活きています。
ところが、いろは丸衝突事件では、なるほど万国公法においては、龍馬の言う通り、紀州船舶に非があったとしても、いまで言ったら、ロシアの戦艦が、ロシアの小さな漁船に衝突したようなものです。
万国公法では、紀州藩船が悪いかもしれないが、時はまだ江戸時代です。
まして徳川御三家が、一介の浪人者に頭を下げさせられたとあっては、どうにも納まりがつかない。
加えて岩崎弥太郎が、その豪腕で紀州藩にのませた賠償金は、なんと7万両という大金です。
これはいまで言ったら、50億円くらいの巨額な賠償金です。
あえて「たかが」といいますが、たかが漁船に蒸気エンジンを取付けたくらいの小船で、50億円という途方もない賠償金です。
そしていよいよ、12月に、その賠償金が支払われる。
その知らせが、土佐藩邸にもたらされた、ちょうどその日、龍馬は近江屋で暗殺されたわけです。
江戸の三大名門道場である北辰一刀流免許皆伝の腕前の持ち主である龍馬を、中段からの面打で一刀のもとに斬り捨てるだけの腕前持ち主というのは、当時の世の中にあってさえ、決して多くありません。
おそらくは、全国でも、ほんの数名であろうと思います。
それだけの剣の達人で、しかも堂々と実戦が出来、受け太刀した龍馬の刀ごと、まっ二つに額を割ることができるだけの腕前の剣術の名人を雇い、養える藩は、ではどの藩なのでしょうか。
また、龍馬の暗殺遺体は、額の傷が致命傷になっているのですが、これが相当な使い手じゃないと無理なことに加えて、どういうわけか、まるで素人の斬り合いのような細かな切り傷が無数にあったといいます。
それだけの腕前の剣士が、一刀のもとに龍馬に致命傷を負わせた上で、わざわざ軽微な刀傷を全身に付けていっているのです。
このあたりも、どうにもあやしい。
紀州藩説に証拠はありません。
証拠といえば、当時の情況証拠だけです。
けれど、証拠(証言)があるから天誅組というのも、逆に情況を考えれば無理があります。
真実はわかりません。
けれど、書証だけしか認めないという現代歴史学会の姿勢もいただけません。
なぜなら、昔の日本では、「〜と公式には書いておこう」とすることが、あたりまえだったからです。
さて、以上の論考は、平成22年9月3日にねずブロで書いた記事で明らかにしたことなのですが、それまでは、龍馬暗殺見廻組説、新撰組説が有力、というか、その他の議論はまるで受け付けられないものだったものが、最近になって、紀州藩説がだいぶメジャーになってきたと聞きました。
先日はどなたか、歴史学者の方が、週刊誌かなにかで、この紀州藩説を紹介してくださっていたのだとか。
もしかしたら、ねずブロが世の中に一石を投じたのかもしれません。
もっとも、ねずブロで「結い」の話を書いたら、ぜんぜん意味をはき違えたような人たちが「結い◯党」を作りました。
どうせそう名乗るなら、ちゃんと意味を勉強していただきたいものです。
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