
「偕行」の12月号に、偕行社賛助会員で元防衛研究所図書館長の大場昭さんが「ヘレン・ミアーズと日本」と題する論文を寄稿されているのですが、これが実におもしろい。
ヘレン・ミアーズ(Helen Mears、1900-1989)女史というのは、戦前に来日した知日米国人で、この人が昭和10年当時の日本を本で紹介しているわけです。
大場さんの論文も秀逸なのですが、ヘレン・ミアーズ女史が紹介した昭和10年の日本の様子が、これまたたいへん興味深い。
そこで、みなさまにそのヘレン女史のレポートをご紹介したいと思います。
ヘレン女史は、この年、大日本紡績の東京工場を視察しました。
その工場には、1600人の女子工員がいました。
工場内には、工場と寮の他に講堂と医務室があり、医師、歯科医が常駐し、なんとプールもあったそうです。
この工場でヘレン女史は、ツキさんという女子工員から、工場での様子をヒアリングしています。
ツキさんは16歳で、寮の15畳の部屋に10人で住んでいます。
勤務は月曜から土曜日までで、早番と遅番があり、それは1週間交替でした。
早番のときは、起床が午前4時。
掃除、洗顔をして作業衣に着替え、講堂に行って体操教師の下で体操をし、食堂でご飯、味噌汁、魚、大根の漬け物の朝食を採り、午前5時から作業開始です。
午前10時30分に昼食、11時に作業が再開され、14時に終了します。
14時から15時30分までは自由時間で、洗顔し、洗髪し、夏ならプールに入り、冬なら火鉢で温まる。
15時30分に課業が始まり、国語、算数、作文、地理、歴史、修身などを学び、ときには茶の湯や生け花も教わります。
夕食は16時30分からで、ご飯と野菜の天ぷらと大根おろしで、それに醤油をかけて食べます。
食事の内容は、官署の検査を受けていて、カロリーは十分なものとなっています。
そして18時から課業が再開され、裁縫、歴史、修身などを学ぶ。
ツキさんがいちばん好きなのが裁縫で、自分の着物や、小さい妹の着物などを作っていたそうです。
当時の日本女性にとって裁縫は必須で、それができなければお嫁に行けない(笑)
工場で裁縫を学ばなければ、嫁入り前に裁縫学校に通わなければならない、のだそうです。
そして午後9時には床に就く。
遅番のときは、起床は8時なのだそうです。
課業などは午前中に行われ、作業の開始は14時から。
就寝は午前1時になります。
年に1〜2回、課業が休みになって、講堂で映画が上映され、祭日には有名人が「日本精神」について講演することもあったそうです。
また、ときには同じ勤務時間の一同で、半日のピクニックに出かける。
工場内には売店があり、必要なものはすべて工場内で間に合うので、工場の外に出る必要はない。
ツキさんの日給は、はじめ35銭だったけれど、そのときは45銭に昇級していたそうです。
そしてお正月には5円の賞与が出る。
ツキさんには、月1円のお小遣いが渡され、残りは会社から家族に直接送金されていたそうです。
これはいまの相場にしたら、月給が月12万円くらいで、そのうちざっと1万5000円くらいがお小遣いとして渡され、実家には10万5,000円くらいが送金され、年末ボーナスが40万円くらい出ていたというくらいの感じかと思います。
しかもプール付きで、寮費も、食費も学費も、全額会社負担です。
これを自腹で負担すると考えたら、16歳でものすごい高給取りともいえます。
ツキさんは、農村出身の女性ですが、もし親もとにいれば、朝早くから夜遅くまで、年中無休で働きどおしで、しかも重労働、食事に野菜の天ぷらなどを食べることなどあり得ず、自分が自由に使えるお金など1銭もありません。
それが普通のことでした。
彼女はこの工場で4年間働き、会社から送金されたお金は、結婚資金として親がちゃんと貯めておいてくれ、彼女はお見合いで「身元のしっかりした男性」と結婚し、工場勤めのときに学んだ裁縫や料理や教育のおかげで良妻賢母となって幸せな家庭を築き、夫を愛し、子を産み育て、親の面倒をみながら次の世代への架け橋を担って行く。
それがあたりまえの、人としての営みでした。
朝日新聞社が昭和43(1968)年に出した山本茂実の「あゝ野麦峠」は、「女工哀史」として、あたかも悲惨でめちゃくちゃな不当労働が課せられて、奴隷のように使役される女子工員たちの姿が描かれているけれど、実際に米国人の女性ジャーナリストが客観的に取材した女工たちの実情が、上にあるものです。
この落差は、いったい何だと思ってしまいます。
「あゝ野麦峠」は、これが出た頃に本で読んで、そのあまりに可哀想な女性工員たちの姿に涙して、親に「昔は酷かったんだね」と話しました。
当時、評判だった本でしたので、私が読んだのは、親が買って来て読み終わった本を回してもらって読んだのですが、親のいうには「もし、この本にあるような使い方をしたら、社員はみんな辞めてしまう。日本の会社は、男も女も社員に奴隷はいないよ。ひとりひとりが立派な社会人として巣立てるようにするのが会社の努めなのだから」と諭された思い出があります。
私がまだ小学校にあがる前、実家の裏手に親戚がやっている反物工場がありました。
そこでは反物を染めていて、女性の工員さんたちがたくさん働いていました。
その頃の私は、まだ小学校にあがる前で、ほんの子供でしたので、ちょろちょろと工場に遊びに行ったりしたのですが、女性の工員さんたちがそれを面白がって、仕事中だったのだろうけれど、ずいぶん可愛がってもらったのを遠い記憶として、うすぼんやりと覚えています。
冷たい川にはいって、長い反物を伸ばして洗ったりするのですけれど、なにやらみんなで歌を唄いながら、実に楽しそうにやっていて、子供心にその働いている雰囲気が、とってもうらやましいものにさえ思えました。
自分も大人になったら、ああいうことしたいな、って本気で思えたのです。
昔の子供は、立派な大人になることが夢でした。
立派な大人になって、お国のために役立てる人になる。
本気でそのように思えました。
たばこの専売公社なんか、かっこよかったです。
パートのおばちゃんたちが、流れて来る白いたばこを、右手でぐわっとわしづかみするんです。
そして左手にある銀紙の中に、それをポンと入れる。
その一瞬の動作で、20本の紙巻きたばこが、きれいにぴったりそろって銀紙の包みにはいるのです。
子供がそこから一本抜いて、それをちゃんともとに戻そうとしても、はいらない。
職人芸というのか、熟練の技というのか、すごかったです。
油にまみれ、顔や手を真っ黒にして工場で働く人たち、染め物工場で、冷たい川に入る人たち、みんなが明るく、伸び伸びしていて、楽しげで、すごい笑顔で、そこから出来上がって来るものは、子供心にも、素晴らしいものばかりです。そりゃあ、子供はあこがれます。
それが、日本における普通の職場だったのです。
いまは、いったいどうでしょう。
昔の日本では、男女とも、12歳で小学校を卒業したら、そのまま働きに出る子が多かったのですが、それを雇う側は、ただ子供たちを働かせるのではなく、子供たちに教育を与え、手に職を与え、飯まで食わせてくれていました。
そうした教育費や食費などは、全部、会社負担です。
そりゃあ、遊郭のように、女の子に小唄や三味線、お琴に鼓に笛や琵琶、和歌や長唄、日舞までという芸事までは、なかなか教えることはできないけれど(これはめちゃくちゃ費用がかかります)、普通に書道や算術、算盤、地理、歴史、修身などは、会社でも未成年を預かったら、ちゃんと教えるということが、あたりまえに行われていました。
昨今、社員旅行や、会社の宴会すら嫌がる社員が増えて来たといいますけれど、昔は、こうして同じ社員同士が、まるで家族や同級生のように接していたのに対し、昨今の会社勤めは、ただ単に仕事をするだけの場になっているわけですから、そりゃあ同じ社員同士が他人の関係になったとしても、さもありなんと思います。
また、給料にしても、決して高くはないけれど、ただ額面だけの問題ではなく、寮費や食費、教育費などのことを合わせ考えれば、もしかしたらいまどきの上場企業のサラリーマンよりも、昔の女工さんたちの方が、はるかにマシな待遇を得ていたといえるかもしれません。
こうした「人」を家族として大切にする日本的経営が壊れたのが戦後のことです。
なぜ崩れたのか。
これまた簡単なことです。
家族として慈しみ、大切に育てられていた工員(社員)たちの中に、労使の対決などといういびつな思想が入り込み、労使の間にあった紐帯を切り裂いてしまったのです。
考えてみれば、あたりまえのことです。
社員を家族と思い、いつくしみ、大切にし、会社も社員もひとつの大きな運命共同体であり、社員は公民(皇民)であるのだから、陛下と親御さんからの大切な預かりものだと思えばこそ、会社は社員を大切に扱い、教育や医療も施し、寮費や食費なども会社負担にしてきたのです。
それは、経営を考えたら、たいへんな出費です。莫大な経費です。
ところがそうやって労使が一体となって「お国のために」と頑張って来たものが、労働者の権利が云々と仕事を放棄し、ストライキを繰り返し、仕事や会社の与えてくれる教育や衣食住に感謝するどころか、それ自体を対立のための道具にさえする。
そんなことが戦後の高度成長の間、ずっと続いたのです。
対立することにしか目的がないなら、会社も、最早、教育も衣食住も、もはや与える意味もない。
与えれば、もっとよこせとデモをするのです。
会社としては、もはや斬り捨てるしかない。
本来なら、貧しかった戦前よりも、日本全体が豊かになった戦後の方が、もっと職場環境だってよくなったはずだし、企業内教育や企業の福利厚生も、もっとはるかに素晴らしいものに発展したはずなのです。
我儘を言って、対立をあおって、そういう日本的相互信頼社会をぶち壊したのは、まさに戦後左翼です。
また、日本国自体が外圧に屈し続けたという側面もあります。
談合入札や法的規制による参入障壁によって、企業の利益が常にちゃんと確保できる体制にあったものが、外圧に屈してそれを不法行為にし、規制を緩和して参入障壁を下げ、談合を排除してただの価格競争によって、安かろう悪かろうを国是としてしまった。
製品が安かろう悪かろうで良ければ、人件費の安いチャイナ産やコリア産の粗悪品が売れます。
そういうものは、すぐに壊れるから、また買わなきゃならない。
モノを大切に使うという日本古来の美風まで壊れてしまっています。
商業もまた然りです。
大規模小売店舗法(旧大店法)が廃止され、全国に郊外型大型店ができた結果、駅前の古い商店街は、全国津々浦々、みんなシャッター通りとなってしまいました。
すこし考えれば、誰でもわかることです。
どの家でも、一ヶ月に支出できる食費や衣料費は、一定です。
近隣世帯のその総和が、月の食費市場、衣料品市場の規模です。
もともと年間30億円の市場で、駅前の商店街が営業していたものが、近くに年商20億円の大規模店ができたら、その商店街の売上は30億から10億に下がってしまうわけで、倒産店続出、しかも大型店は、仕入れの仕切値が安いですから、近隣の工場も儲からない。
挙げ句、大型店が儲けたお金は、その大型店の本社がある他の大都市に納税されてしまうから、地方の中小都市は、税収が減り、運営がむつかしくなる。
戦後の日本は、何をやっていたんだろうかと思います。
しっかりとした教育や給料を与えていた産業を崩壊させ、日本人の教育の機会を学校だけにし、その学校教育では、日教組が道徳や歴史を否定する。
そしてその国内産業崩壊、教育崩壊によって、どこの誰が利得を得たのかといえば、中共であり、韓国です。
そして中共や韓国の経済を活性化させるために、日本政府はご丁寧に為替相場までいじりたおして、円高、ウォン、元安に持って行きました。
その結果、日本国内では、大学を出ても就職先がない。
やっと就職した会社も、従業員の給料を払うのが精一杯で、プラスアルファの教育投資まで、なかなかお金が回らない。
結果、仕事も会社もつまらなくて、社員がボロボロと辞めて行く。
そして、そういう社会ストレスをまき散らした当の本人が、「政府が悪い!政府と対決だ!」などといって、国政を壟断する。
日本はいま、政治を大きくリセットすべきときにきていようかとさえ思ってしまいます。
ただ、現実には、全部叩き壊して、一からやり直すというのは、民主主義の世にあっては、不可能に近いことです。
ひとつひとつを、きちんと軌道修正していく。
そのために、必要な法案を、順々に通して行く。
冒頭のツキさんが勤めた会社のようなものが、ついこの間までの日本では、あたりまえにあったのです。
その日本を取り戻すために、わたしたちひとりひとりが、いま、できるほんのちょっとのことをする。
日本はいままさに、変わろうとしています。

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