
戦艦大和は、美しい船です。
全長263メートル。
全幅38.9メートル。
15万馬力のタービンエンジンを搭載し、口径46センチの巨大な大砲を備えていました。
単に、強力な装備が施された世界最強の大戦艦というだけでなく、荒々しい中にも優美さと気品のある船です。
だから、日本そのものを意味する「大和」と命名されていました。
軍人であれ、民間人であれ、戦前であれ戦後であれ、日本人で戦争が好きな人などいません。
ただ国を護りたい。私たちの大切なものを護りたい。ただそれだけの想いが日本人の思いです。
戦後70年近く経ったいまでも、日本人なら誰もが「戦艦大和」と聞けば、その優美で力強い姿を瞼(まぶた)に思い浮かべることができます。
それは、日本人として不思議と備わった気品や美的感覚、そして大切なものを護りたいという本能によるものかもしれません。
その象徴が「戦艦大和」でした。
その大和は、昭和20(1945)年4月7日14時23分坊ノ岬(ぼうのみさき)の沖約90海里の沖合に沈みました。
沈没時の大和の乗員は、3,332名でした。
そのうち、3,056名の方が、生きて祖国の土を踏むことができませんでした。
普通、あえて普通と書きますが、戦艦の戦いというものは、あまり死亡者は出ないものです。
もちろん、戦闘中に敵弾が当たったり、艦内の爆発や、船とともに命運を共にする人など、ある程度の戦死者は出ます。
けれど船が反撃力を失えば、戦いに生き残った乗員は、海上に避難します。避難用の小船もちゃんと搭載しています。
海に逃れた乗員たちは、救助を待ちます。ですから普通は、あまり死ぬことはありません。
加えて、戦時中であれ平時であれ、世界の先進国の海軍軍人さんたちというのは、たいていは仲良しです。
それは海の男たちというある種の共感意識によるものかもしれません。
けれど、大和の乗組員たちは、乗員の9割の命が失われました。
なぜでしょう。
そこで何が起こったのでしょうか。
そのとき大和は、沖縄に向けて航行中でした。
沖縄は南北に細長い島です。
当時の沖縄では、上陸した米軍と、沖縄を守ろうとする守備隊が激しい戦いを繰り広げていました。
その戦いは、沖縄の中央部から始まり、日本側守備隊は戦線を南へ南へと戦場を移していました。
それは、沖縄での戦いが始まる前に日本本土や台湾などに疎開できなかった沖縄県民の多くが、沖縄本島の北側に集まり、疎開していたからです。
その沖縄県民のために大和は、補給物資を満載して、沖縄に向けて最後の航海に出ました。
びっしりと海上を埋め尽くした米艦隊が囲む沖縄への出撃です。
大和は、帰れる見込みのない、片道切符の航海でしたが、その大和の艦内には、沖縄県民に届けるための食料や衣服、あるいは10万人分の女性用生理帯などが、びっしりと積まれていました。
この時代、すでに海上の戦いは、戦艦同士の砲撃戦から、航空機による空爆戦へと完全にシフトしていました。
海で最強の猛者とされるバトルシップ(戦艦)も、空からの飛行機による攻撃の前には、ただのネタにしかならない。
そのことは、すでに軍の関係者なら誰もが知る常識となっていた時代です。
けれど「大和」は、航空機の支援もなく、出撃しています。
なぜそんなことをしたのでしょうか。
最近、日本古来の武道である剣道や柔道、空手、合気道などについて、「わが国が発祥の地である」などと、おかしなことを言い出している他国があります。
なるほど、試合などでは、彼らが勝つこともあります。
けれど、試合に勝つということは、本来、武道を学ぶ目的ではありません。
武道が求めるのは、試合に勝つことではなく、おのれに克(か)ち、世の中で勝つことです。
戦争も同じです。
大砲や銃を撃ち合って敵を殲滅する、あるいは敵の抵抗力を奪う(英語ではこれをクリアというそうです)ことが、戦争に勝つということではありません。
このことについて、ドイツ、プロイセンの軍事学者のクラウゼウィッツ(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz)は、その著書で、「戦争とは国家が政治目的を達成するための究極の手段である」と述べていて、これが現代の世界の戦争論の常識となっています。
これは、すこし考えてみれば、明らかなことです。
戦争は「個人対個人の決闘の拡大版」という見方もあるけれど、その「決闘」にしても、たとえば彼女を奪い合うためとか、名誉を守るためとか、なんらかの目的を達成するために行われるものです。
まして多くの人が関与する国家対国家の戦争ともなれば、そこには必ず何らかの明確な政治目的があります。
ならば、戦争に勝利するということは、その目的を達成したか否かにすべてがかかっているといえます。
その意味で、戦艦大和の出撃の目的は、日本にしてみれば沖縄県民への支援物資を届けるため、米軍からしてみれば、強力戦艦である大和を沖縄に近づけないことは、沖縄での戦闘を有利に進めるためのものであったということができます。
そして、そうであれば、大和はその目的を達成できなかったし、米軍は目的を達成したのですから、坊ノ岬海戦では、明らかに米軍の勝利となります。
ただ、そこに不思議なことがあるのです。
日本は、どうして大和の出撃に際して、航空機による支援を行わなかったのでしょうか、ということです。
大東亜戦争の後半の時代になりますと、すでに時代は艦隊決戦の時代から、航空機の前に、戦艦はまるで「紙」だというのが、戦いの常識となっていました。
そして実は、そのことを一番知るのが、日本でした。
なぜ日本かというと、戦闘態勢で動いている戦艦は、航空機では絶対に沈めることができないと言われていた大東亜戦争開戦当時の時代に、世界で最初に、当時世界最強戦艦であった船を、日本がわずなか飛行機で沈めているからです。
つまり飛行機の前では、たとえ世界最強戦艦といえ、ただの「紙」にしかならないということを、どの国よりも一番知っていた日本が、日本最強の戦艦を、飛行機の支援なしで、船だけで、沖縄に向けて出撃させているのです。
万一、米軍に察知されずに沖縄にたどり着くことができれば、もちろん食料その他の支援物資を沖縄県民に届けることができます。
しかし、この時代、それが可能となる確立は、ほとんど皆無に近い。
つまり、大和は、出撃後、すぐに敵に発見され、空を覆い尽くさんばかりの敵航空機によって、空爆され、魚雷を投下され、あっという間に沈められてしまう可能性の方が、高いのです。
ならば、あたりまえのことですが、大和には飛行機の護衛をつけるべきだし、それくらいのことは当時の海軍だって作戦指揮を執る誰もがわかっていたことだし、またそれだけのことができる飛行機は、当時の日本には、まだちゃんとあったのです。(なぜなら大和出撃後も特攻攻撃は継続しています)。
こうなると、ますます不思議です。
飛行機による支援の必要性もわかっていながら、そして手持ちの飛行機もありながら、大和は単身で出撃しているわけです。
大和出撃の目的は、ほんとうに「ただ、支援物資を届ける」というだけの意図だったのでしょうか。
戦艦の出撃というものは、ねず一等兵が、銃剣振りかざして敵陣に単身で突きかかって撃たれて死ぬ、というだけのものと意味が違います。
戦艦は、それが出撃するということだけでも、政治的なメッセージです。
まして戦艦大和という、世界最大最強のバトルシップが、片道切符で突撃するということは、そこに込められたメッセージ性は、天地ほどの開きがあります。
しかも実はこのときの艦長は、航空機による戦艦攻撃のプロでもあったのです。
よく「戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義で、ために巨大戦艦である大和を作り、結局、米航空隊によって大和は沈められた」などという人がいます。
かくいう私自身、学生時代、学校の先生から、そう教わりました。
そしてこのお話には、だから「要するに大本営がアホだったのだ」というオチが必ずついたものです。
けれど本当にそうなのでしょうか。
そんなに簡単なことなのでしょうか。
そもそも当時の士官学校卒の人たちの優秀さといったら、現代社会では比類できる人がいない。
まさに、おそろしく、計り知れない能力を持った人たちです。
いまでも、陸軍士官学校や海軍兵学校卒業の方々とお会いできる機会があります。
みなさん、とてももの静かで、明るい方々ばかりです。
けれど、たとえば空手の大山倍達も言っていますが、本当に怖い人というのは、虚勢などはっていない。
もの静かで自然体でいて、それでいて怖い存在です。
剣術でも、本当の達人は「無形の位(むぎょうのくらい)」といって、構えさえないといわれています。
すこし脱線しますが、私は若い頃柔道をやっていましたけれど、柔道では、試合で負けまいとするなら、腰を引いて、相手から技をかけられないようにするのが、ある意味、有利です。
けれど、私の先生は、絶対に腰を後ろにひくことを許してくれませんでした。
試合でも練習でも、常に上体をまっすぐに立てるように言われました。
体がまっすぐなら、相手選手と体の距離が近いですから、投げられやすいです。
ですから、先輩などと練習すると、立っているヒマがないほど、ポンポン投げられました。
試合でも、いつも負けてばかりいました。
それでも、絶対に腰をひくなと教わりました。
何年か経ったとき、気がついたら、私は後輩を、立っているヒマがないほど、ポンポンと投げていました。
遊んでばかりいたので、決して強い選手にはなれませんでしたが、ある日街でヤクザ者に絡まれたとき、気がついたら相手がアスファルトの上に倒れていました。
いま思えば若気の至りですが、当時、結構高齢だったその先生は、そもそも試合に勝つことなどまるで問題視していませんでした。
先生が腰をひくなと言っていた意味が、そのときわかりました。
まして、日本国がその威信をかけて育成した軍事の超人集団が、当時の日本の将校たちです。
名人の碁や将棋に、素人のわたしたちが束になっても敵わないのと同じです。
彼らは、先の先を読んで行動します。
では、大和の出撃には、どのような意図があったのでしょう。
ただ生理用ナプキンを届けるためだけではなかったことだけはたしかです。
このことを考えるにあたり、先にまず、航空機の前に戦艦がただの「紙」になっていたという時代の変化について考えてみたいと思います。
先ほど、「世界で最初に航空機で戦艦を沈めたのは、日本です」と書きました。
真珠湾のことを言っているのではありません。
それは、大東亜戦争開戦の2日後の昭和16(1941)年12月10日に行われた「マレー沖海戦」のときのことです。
この戦闘で、日本軍は航空兵力をもって、英国海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈しました。
飛行機が戦艦を沈めた先例としては、他にタラント空襲、真珠湾空襲などがあります。
けれど、それらはいずれも「停泊中の艦船を飛行機で沈めた」ものです。
いってみれば、スイッチを切った状態の戦艦を航空機で叩いたわけで、スイッチが入った状態、つまり作戦行動中の戦艦を航空機で沈めたのは、実は、マレー沖海戦が世界初のできごとでした。
現代までの世界の戦史において、航空部隊が作戦行動中の戦艦を沈めた事例は、このマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって沈められた戦艦大和(昭和20年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって沈められた武蔵(昭和19年10月24日)の3例しかありません。
戦艦(バトル・シップ)というものは、それだけ強力かつ圧倒的な存在なのです。
マレー沖海戦は、日本がシンガポール上陸作戦を実施する上で、必要な海上での補給路を確保するために、どうしても勝たなければならない戦いでした。
勝って制海権を確保しなければ、マレー半島に進出した日本陸軍への補給ができないのです。
それは何万という陸軍兵を孤立させてしまうことを意味します。
だから、なにがなんでも勝たなければならない。
一方、守る英国軍にしてみれば、日本を意図的に追いつめて開戦に踏み切らせているわけですから、すでに何ヶ月も前から日本がやってくることを見越しています。
マレーの海域でも100%確実に勝利できるだけの体制をひいて待ち受けています。
開戦の6日前の12月2日には、英国の誇る最新鋭の巨大不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻からなる「G艦隊」がシンガポールのセレター軍港に入港しています。
「G艦隊」は、その時点で、七つの海を征する大英帝国の誇る世界最強艦隊です。
なかでも旗艦であるプリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備した巨大戦艦です。
搭載する対空砲はポムポム砲といって、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい対空砲です。
この対空砲は、英国が2年前のヨーロッパ戦線で、ドイツ・イタリアの航空機に空襲された際の経験から装備されたものです。
いかなる航空機であれ、すべて撃ち落とすことができる能力を誇り、そのための訓練も十分に積まれていました。
そしてこの巨大不沈戦艦は、当時の国王ジョージ6世の兄王である、エドワード8世の即位前の王太子ウェールズ公の名前を冠しています。
いかな国といえども、簡単に沈む船に皇太子殿下の御名を付すことはしません。
逆にいえば当時の英国が、どれだけこの戦艦を、信頼し、不沈艦としての自信をもっていたかが、この船名からもわかります。
英国艦隊のもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月はウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じで、やはりボムボム砲を搭載し、それまで何度も航空機による爆撃を完全に撃破してきている経験豊富な戦艦です。
そして英国東洋艦隊司令長官は、実戦経験の豊富な英国の誇る最強の士官、トーマス・フィリップス海軍大将でした。
こうして対空戦にも、絶対の自信を持った世界最強の英国艦隊が、日本艦隊を迎撃するために、12月8日17時過ぎに、シンガポールを出港したのです。
一方、日本側の艦隊の陣容はというと、武力も防備も乏しい輸送船団に、護衛艦として金剛と榛名の二艦がついていただけです。
金剛も榛名も、多少の近代化のための改装は受けていましたが、なにせ艦齢は27年、兵装も装甲の厚さも、巡洋艦程度の力しかありません。
要するに陸(おか)でたとえてみれば、爆走する大型ダンプカーの軍団の前に、リヤカー群を引率した、たった二台の原チャリが立ち向かうようなものだったのです。
普通に考えたら、英国艦隊は、日本側艦隊を、ただ踏みつぶせばよいというだけという戦力差です。
けれど、日本軍は侮れない。
なぜなら、日本軍は、常に乏しい装備、乏しい戦力で戦いながら、どの戦闘でも勝利してきているのです。
だからこそ英艦隊は、完全に踏みつぶせるだけの、必勝の布陣を敷いて日本艦隊を待ち受けたのです。
一方日本は、事前の情報によって英艦隊が世界最強戦艦ウエールズまで投入していることを掌握しています。
それでも勝たなきゃならない。
勝たなければ、マレーの山下奉文隊は、全滅の危機に瀕します。
「英国艦隊出撃」
この報をもとに、日本はサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機85機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機)を出撃させました。
後の坊ノ岬海戦(大和)、レイテ沖海戦(武蔵)のときのような何百という航空機部隊ではありません。
数の上でもごく少数です。
しかも航空期部隊は、それぞれ、数機ごとに散開しますから、全機が敵艦隊に殺到できるわけではありません。
プリンス・オブ・ウエールズを含む英国最強艦隊を発見したのは、前田孝成大佐率いる元山海軍航空隊所属の第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)の6機、あわせてもたったの15機でした。
猛烈な英国艦隊の対空砲火の中、日本の航空隊は、果敢に英艦隊に挑みました。
ボムボム砲が炸裂する中、その戦いがいかに激しいものだったかは、想像に難くありません。
ところが、そのたった15機の攻撃からはじまったマレー沖海戦で、まず戦艦レパルスが沈み、次いで戦艦ウエールズも沈み、世界の海を支配する海洋大国、大英帝国英国が誇る世界最強艦隊が、またたくまに壊滅してしまったのです。
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス

この報告を聞いた英国首相チャーチルは、「あの艦が!」と絶句しました。
後にチャーチルは「第二次世界大戦回顧録」で次のように述べています。
「第二次世界大戦における戦い全体のなかで、その報告以外に、私に直接的な衝撃を与えた報告はなかった」
最強戦艦ウェールズと、レパルスの沈没は、それだけ衝撃的な、「ありえない」出来事だったのです。
マレー沖海戦では、まず戦艦レパルスが沈み、次いで戦艦ウエールズが被弾し、沈没やむなしとなりました。
このときウエールズの艦長のトーマス・フィリップス司令長官は、日本の航空隊に向け、乗員を退官させるので、30分時間をほしい、と信号を送りました。
ウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移りました。
エレクトラとヴァンパイアは、さらに沈没したレパルスの乗組員を捜索し、エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助、乗船させています。
その間、日本の攻撃部隊は、空で待機しました。
英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をせず、空で待機したのです。
これまた、世界の戦史に残る出来事です。
当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリットでも省エネでもありません。
燃費がよくないのです。
30分の上空待機というのは、帰還するのに必要なギリギリの燃料しか残らないということです。
もしその間に英国の航空隊が急襲してきたら、日本の航空隊は帰還するための燃料を使い果たし、全機、墜落のリスクを負っています。
それでも日本の攻撃隊長は、戦闘を休止し空で待機を指示しました。
ウエールズの乗員が全員退艦しました。
そのウエールズのデッキには、ひとり、トーマス司令長官が残りました。
船と命をともにするためです。
このとき日本の航空隊は、全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トーマス長官に最敬礼を送ったと伝えられています。
トーマス長官は、その間、ブリッジから挙手敬礼をもって答えた。
そして日本の航空機との挨拶の交換後、トーマス司令はデッキに体を縛りつけ、艦とともに沈んでいます。
ちなみに、マレー沖海戦におけるプリンスオブウェールズの戦死者は、艦が轟沈していながら、総員の20%です。
戦闘中の死亡者以外、全員が助かっています。
そしてさらにマレー沖海戦の翌日には、日本軍機が、再度戦闘海域に飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対する敬意と、鎮魂を行っています。
*
では、この戦いの三年半後に行われた「戦艦大和」のときはどうだったでしょうか。
この海戦では、戦艦大和が沈み、乗員3,332名のうち、90%以上にあたる3,063名が死亡しました。
なぜそんなに多くの将兵が死んでしまったのかというと、米軍が、残存艦隊に対して、日没近くまで攻撃をかけ、さらに大和が沈没後に海上に避難した大和の乗組員たちに対して、上空から機銃掃射を浴びせて、殺戮を行ったのです。
海上に救命艇で逃れた兵士というのは、武装がありません。
つまり「非武装の避難兵」です。
これに対する無差別攻撃は、戦争行為ではなく、ただの暴力であり、明らかな国際法違反行為です。
世界の海軍は、ごく一部の極悪非道な海軍を除いて「海軍精神」を共有しています。
これは万国共通の「海の男」の誇りと矜持です。
艦隊の力を駆使して戦うのです。
戦いが済んだら、兵士たちにまで罪はない。
だから、戦いが済めば、たがいに仲良く裸になって酒を酌み交わす。
それが世界の海の男たちです。
普通ならそうです。
ところが、日米戦争の後期には、まるで様子が違っていたのです。
日本は、明治の開闢以降、世界のどこの国の民族よりも、勇敢で高潔で誰からも好かれる民族となろうと努力してきました。
その精神は国民のひとりひとりにまで深く浸透しています。
ですから日本軍は、Chinaの戦線においても、米国その他の国々との戦闘においても、ハーグ陸戦条約を守り、無法な振る舞いは厳に慎んできました。
あのB29でさえ、日本本土を空襲するに際して、墜落したら日本の捕虜になれ、日本人は乱暴な真似はしないから、と訓示がされています。
(米軍兵士で処刑された者もいましたが、これは戦うことのできない庶民に対する国際法で禁止された無差別殺戮を行ったからであり、むしろ処刑が当然の世界の常識です)
ところが、大東亜戦争の後期になると、サイパン戦、沖縄戦等において、米軍は度重なる日本人への蛮行を働いています。
なぜでしょう。
もともと白人社会において、有色人種は「人」ではありません。
吸血鬼のバンパイヤや、狼男(リカント)のように、人でなく、白人という名の人類に敵対する生き物です。
ですから日本人も、もともとは「人以外の生き物」とされてきました。
けれど日本は、白人以上に努力し、勇敢で高潔な民族になろうと努力しました。
だからこそ、人種差別、すなわち白人以外は人でないとみなされた世界にあって、日本人だけが「例外的に」人として処遇を受けるようになっていました。
ところが日米が戦争となり、米国政府が「ジャップを倒せ!」という世論操作をしなければならなくなったとき、「実は日本人は、世界に名だたる残虐な民族なのだ」と宣伝しまくった者があらわれました。
こういう意見は、日本との戦いに「勝たなければならない」、そのために全米から「兵と戦費を集めなければならない」、しかも、戦争が長引き、戦費の調達に苦心していた大東亜戦争後期の米国(財政はほとんど破産状態)にとって、こうした「日本人悪玉説」は、たいへん便利なものとなります。
では、誰がその「日本人悪玉説」を全米に広めたのかというと、実は、当時米国にいた韓国人の李承晩です。
李承晩は、米国の新聞に「日本に統治される前の李氏朝鮮こそ東洋の理想国家であった」と書き連ね、日本人はその理想国家を破壊し、占領し、文化を破壊した極悪非道の悪の化身、悪魔の使いだとする、おもしろおかしい投稿記事をさかんに書き送ったのです。
戦時下にあって、こうした日本人悪玉論は、対日感情を貶め、戦意を煽るにはちょうど良く「使える」ものでした。
しかも、もともと「人種差別」の下地があるところに加えて、戦時中なのですから、そうした悪玉論はたいへんに高い伝播力を持ちました。
こうして全米の新聞を通じて「日本人悪玉論」の世論が形成され、なにも知らない米国の若者たちが、「日本人=極悪非道な悪猿ジャップ」と考えるようになっていきました。
まさにメディアの恐ろしさです。
異論もあろうかと思いますが、私は、大和の乗組員が落さなくても良い命を落とした、その背景には(大和だけでなくニューギニア沖海戦なども同様)、あるいはサイパンで、あるいは沖縄で、あるいは広島、長崎、その他全国の大都市で、多くの日本人民間人が殺害されたということの背景には、李承晩というキチガイによる情報の捏造操作が、ひとつの原因をなしていたと思っています。
悪は、ほっておけば、その被害は巨大な被害を、まっとうな多くの人にもたらします。
李承晩という気違いによって命を奪われた人の数は、日本人だけでなく、その後に行われた朝鮮戦争だけで500万人に達します。
*
さて、話は前後しますが、実は、戦艦大和の有賀幸作艦長(中将)の甥が、ウエールズを沈めたマレー沖海戦のときの日本航空隊の隊長です。
つまり戦艦は航空兵力による爆撃攻撃に勝てない、ということを最もよく知る人物が、大和の艦長でもあった。
そのことは、ひとつ押さえておかなければならないポイントです。
その有賀艦長は、航空機の援護なく、沖縄までの片道の燃料しか積まない大和を出撃させています。
そして坊ノ岬沖合で、米軍航空隊386機による波状攻撃を受けて艦と命をともにされました。
なぜ、防空兵力、制空権を持たない戦艦は、敵航空機の前に歯がたたないという事実をよく知る人物が、大和の出撃を図ったのでしょうか。
なぜ大本営は、その作戦を実施したのでしょうか。
それは日本がバカだったからでも、大本営がキチガイだったからでもありません。
戦争というものは、そんな軽々しいものではありません。
そもそも大本営は、日本の産んだエリート中のエリートが集うところです。決してアホではありません。
有賀艦長も、実に優秀な軍人です。
そして大切なことは、冒頭に述べました通り、「戦争は政治目的を達成するための手段」である、ということです。
敗色濃厚となった大東亜戦争末期における日本軍の最大の目的は、なんとしても皇国日本の国体を護持することにありました。
そのためにどうするか。
「どこまでも玉砕覚悟で戦いぬく。
本土決戦してでも戦い抜く。
そうなると、米軍側の被害も果てしなく大きなものとなる。
それでも戦争を続ける。」
これもひとつの選択です。
特攻も、玉砕も、まさに捨て身で軍人さんが死を賭して戦うことで、日本恐るべしという、これは戦争政治における最も効果的かつ政治的メッセージなるからです。
では、大和の出撃は、どういう意味があったのでしょうか。
日本は、出撃わずか85機、実戦ではたった15機で、大英帝国の誇る完璧な対空防衛機能を持つ戦艦を沈めています。
これに対し、大和が出撃してくれば、米軍は数百機近い航空機で大和を叩きに来る。
これは当然予想される事態です。
たった15機でも、戦艦は沈むのです。
それが数百機となれば、間違いなく大和沈みます。
その大和の艦長は、航空機は作戦行動中の戦艦を沈めることができるということを身を以て証明したパイロットの岳父です。
その事実は、米国側も把握していたことでしょう。
そして実際米軍は、386機というとてつもない兵力で大和を空爆しています。
そこで何が起こるか。
どのような事態が想定されるか。
日本はすでにニューギニア海戦などで、抵抗できない輸送船を沈められ、海上に避難した兵士達を航空機によって大量に虐殺されています。
では大和ではどうなのか。
同じことが起こるであろうこと、それは当然に想定される事態です。
このことを考えますと、ひとつの事柄が浮かび上がります。
それは、「正義とは何か」を厳しく問いかける、いわば「神の声」のようなものです。
マレー沖海戦で、英国王太子の名を冠した戦艦に対し、明確な武士道精神を示した日本、
その日本が坊ノ岬沖海戦で、日本の国号である「大和」の名を冠した戦艦を、沈められる。
そして乗員を虐殺される。
世界は、決して馬鹿ばかりではありません。
世の中の様々な利害の衝突や野望が風化し、世界の人々が、ウエールズの沈没のときと、大和の沈没のときを較べ、人として本当に大切なことは何か、人道とは何か、勇気とは、愛とは、戦いとは何かについて、冷静に思いを馳せるようになる時代というものは、必ずやってきます。
それは500年後のことかもしれない。千年後のことかもしれない。
世界に冷静さが戻ったとき、必ず何を感じ、何を学びとる時代がやってくる。
なぜなら人類には良心があるからです。
そして軍事は、必ず専門家によって何度もトレースされ研究されるものだからです。
昭和20年といえば、すでに大東亜戦争末期です。
日本本土の一部である沖縄にまで戦火が及び、日本本土にも王手がかかったときです。
そんななかで、大和は出撃しました。

そして大和は沈みました。
一時的には、もちろん米軍は、勝った勝ったと大喜びすることでしょう。
世界最大級の戦艦を沈めたとなれば、沈めた側は、そりゃ嬉しかったことでしょう。
けれど、倒した者の熱に浮かされたような狂喜が過ぎ去り、
破れた者の悲しみにも、ある一定の時が経ち、
両当事者が、互いに事実を冷静にみたり考えたりできるようになり、
世界が冷静な思考を取り戻したとき、
果たして、勝者はどちらだったと、人々は考えるでしょうか。
大和を沈めた側でしょうか。
沈めたあとの虐殺は、どのように捉えるのでしょうか。
一方において、英国最大の旗艦を葬りながら、乗員の命を守った日本。
一方において、大和を沈めならが、海上にいる無抵抗の日本人を虐殺した米国。
そして、
そうなることを十分にわかって出撃した大和。
大和は、そうなるとわかって出撃し、その通りに沈みました。
問題は、そのあとの行為です。
正義とは何なのか。
人道とは何なのか。
戦争とは何なのか。
その意味を、大和は身を以て、未来に生きる人たちに投げかけています。
すべてが風化して、人々に冷静さが戻ったとき、大和出撃の意味や意図を必ず考える人が出て来ます。
大和は、その日のために出撃しました。
それ以外に大和出撃の意味はありません。
そして意味がないなら、あれだけの戦艦は動かしません。
まして当時の日本には、大和のための片道の燃料しかなかったのです。
日本は太平洋の戦いに破れました。
けれど日本は、戦後もある程度の純血種と、戦前からの文化を保つことができました。
そして、いつの日か、かならず真実は明らかとなる。
「俺たちの死を、けっして犬死にしないでくれ」
そういうメッセージが、大和出撃に込められていたといえるのではないでしょうか。
*
昭和20(1945)年8月15日、日本はポツタム宣言を受け入れ、連合国に降伏しました。
これを「無条件降伏」という人がいますが、それは違います。
ポツタム宣言の第13条には、次のように書かれているからです。
「第十三条、全日本軍の無条件降伏」
つまり、無条件降伏したのは、「日本軍」であり、国家としての「無条件降伏」は、日本はしていません。
だからこそ、日本は「国家としての戦費賠償」責任も負っていないし、していません。
つまり、皇国日本という国家は保たれたのです。
「さざれ石」というのは、長い年月の間に、小石がたくさん固まって、岩となったものです。
亡くなられた日本の将兵は、「さざれ石の巌となりて」大切な命をささげられました。
大東亜戦争における日本の軍人の死亡者 1,740,955人
民間人の死亡者 393,000人(うち広島原爆による者12万人)です。
忘れてはならないのは、亡くなられたひとりひとりの英霊が、ひとりひとりそれぞれ人生を持ち、生活や夢や希望を抱えた、心ある生きた人間であった、ということです。
そのひとりひとりが、命を捧げて戦い、護り抜いたのが、皇国日本です。
明治維新当時の日本の人口、3330万人。
大東亜戦争開戦当時の日本の人口、8390万人。
いま、日本の人口は1億2700万人です。
大和出撃に込められたメッセージ。
そのことを、いま私達は、もう一度、深く考えてみるべきときにきたといえるのではないでしょうか。
※この記事は、09/06/15の記事を、リニューアルしたものです。

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