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堤防に咲くコスモス
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すこし前に「結い(ゆい)」のお話をしましたので、今日は、それにちなんだお話をしてみたいと思います。
ちなみに「結」は、「いとへん」に大吉の「吉」と書きます。
人と人とが糸で結ばれると、良いことがあるから、「吉」です。
最近では「結」より「絆」が一般に広がっていますが、糸が半分ずつより、結ばれて「吉」な方が、私は個人的には好きかもしれません
さて、九州は久留米の東側に筑後川(ちくごがわ)があります。
かつてこの流域の地方は、水は近くにあるのですが、川が低くて、流れが急なために田になかなか水が引けず、そのために作物が十分に採れず、住民たちがたいそう貧しい生活をしていたのです。


江戸時代の初めごろ、この地方に栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞という五人の庄屋さんがいました。
五人は、村の困難をどうにかして救おうと相談しました。
そしてついに、筑後川に大きな堰を設けて、掘割を造って水を引こうと決めました。
測量も行い、成功の見込は立ちました。
けれど、これまで誰も計画したことのない大工事です。
人夫もたくさんいるし、費用もかかる。
けれど藩政は苦しい台所事情です。
藩の許可を得るのは、現実の問題として、なかなか容易なことではありません。
そこで五人は、
「ワシらがいったん思い立った以上は、たとえどんなことがあってもきっとこれを成就しよう。それまでは、五人の者は一心同体であるぞ」と、堅く誓いあいました。
五人はそれぞれに村人たちを集め、みんなに計画を話しました。
みんなも協同して働くと誓いあってくれました。
他の村の庄屋さんたちも、計画を聞いて仲間に加りたいと申し込んでくれました。
けれど五人は、
「この大工事がもし不成功に終わったら、ワシら五人は、命を捨ててお詫びしなければならない。むやみに人様を仲間に入れ、万一の迷惑をかけてはならない」からと、これを断りました。
それでも他の村の庄屋さんたちは、五人の志が堅いことを知って、一緒になって藩への願い出に連署してくれました。
藩も、工事には理解を示してくれました。
けれど、あまりに費用が大きい。
許可はなかなかでません。
一方、この計画の水路にあたる一部の村の庄屋さんたちは、
「そのような堰を設られたら、洪水の際に我々の村に被害が出る」と、工事に反対をしてきました。
五人の庄屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを熱心に説明しました。
役人は五人に向かい、「もし計画通りに行かなかったら、お前方はどうするつもりか。」とききました。
「そのときは、私ども五人、責任を負って、どんな重い刑罰でも、快くお受け致します」と申しました。
役人は、五人の志を受け、藩にもかけあい、ついに五人の願いを許したのです。
五人の庄屋は、仲間の庄屋たちと一緒になって、村人たちを指図して、いよいよ工事にとりかかりました。
監督に来た藩の役人は、「もし失敗したら、ふびんながら、五人を重く罰するぞ。」と、改めて申し渡しました。
村人たちは口々に、「庄屋を罪におとしてはすまない」と言って、夜昼なく、一生懸命に働いてくれました。
女子供までも手伝って木や石を運んでくれましたから、さしもの大工事が意外にはかどりました。
いよいよ大きな堰が出来上りました。
水を通しました。
計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。
そのときの村人たちの喜びはたとえようもないものでした。
その成功を見て、他の村々でも、水を引きたいと願い出てきました。
そして堰と掘割をひろげることになりました。
始めのうち工事に反対していた庄屋さんたちも、水の分前にあずかりたいと願い出てきました。
一部の人たちからは、
「あの人々は、当初工事に反対したから、俺たちの村に水が来るまでは、後回しにすべきだ」という声もあがりましたが、五人の庄屋は、
「この工事は、もともとこの地方のために起したことですから、その水利は出来るだけ広く受けさせとうございます。どうか皆様に同時にお許し下さい」と、反対する人たちに頭をさげました。
役人も同意してくれました。
こうして筑後川の流域は、この地方を代表する、大穀倉地帯に生まれ変わりました。
それは、五人の庄屋さんたちを始め、村人たちが心をあわせ必死になって尽くしてくれたおかげです。
・・・・・・
と、このお話は、実は戦前の尋常小学校6年生の修身の教科書にあったお話です。
文章は、ねずさん流の現代文にだいぶ手を加えさせていただいて、掲示させていただきました。
そして、この物語を、次のように締めくくられています。
=========
我等の住む市や町や村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けて来たのです。
協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を反映させる基であります。
=========
考えてみれば、いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。
そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
上にご紹介した筑後川の流域の庄屋さんと村人たちの物語は、全国津々浦々で行われた物語でもある。
わたしたちの先輩たちまでは、そういうことを学校で学んでいました。
その前の先輩たちも、おなじことを、寺子屋で学んでいました。
ですから、それらは、わたしたち日本人にとっての常識でした。
けれど戦後のわたしたちや、その後の世代はどうでしょう。
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」は学んでも、そういう「協同」することの大切さや、父祖の恩、国や国土を愛する心を、果たして学んで育ってきたのでしょうか。
そして「学ばない」ことが、昨今ではまるで「学ばせないこと」が正義であるかのような論調さえもあるという体たらくです。
協同するといういうことを、昔の人は「結い」と呼びました。
みんなが結ばれるから、良いことが起こる。
だから「吉」です。
いまからでも遅くない。
わたしたちは、わたしたちの国の「結い」の心を、あらゆる場で取り戻して行くべきときがきたのではないでしょうか。
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