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ご存知の方も多いかと思いますが、東海道五十三次に、横浜はありません。
江戸時代を代表する東海道には、五十三カ所の宿場町が設けられましたが、江戸日本橋を起点とした東海道は、およそ2里(約4km)ごとに、品川宿、川崎宿、神奈川宿、程ヶ谷(保土ヶ谷)宿、戸塚宿、藤沢宿、平塚宿、大磯宿、小田原宿と続き、箱根、三島とつながっています。
つまり、横浜がありません。
なぜないかというと、横浜ができたのは、幕末にほど近い安政6(1859)年のことだからです。
それまでの横浜は、ほとんど人の住まない、ただの寒村でした。
その入江が、どうしていきなり大都市になったかというと、これがまたすごい話で、わずか3ヶ月で徳川幕府が、新しい街並を築いてしまったことによります。
なにもないただの入江が、こつ然と、日本を代表する一大港湾都市に変身してしまったのです。
仮面ライダーの変身どころではありません。
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きっかけとなったのは、ペリーの来航です。
ペリーは、いまの横浜市金沢区の八景島あたりの入江に無許可のまま2か月滞在し、そこからさらに横浜の大黒ふ頭のあたりまで、船を侵入させてきて、江戸を火の海にするぞ、と脅しをかけてきたわけです。
このあたりは、湾になっているところで、ペリーが船を投錨するには都合がよかったのでしょうが、当時の宿場町である湾の北側の神奈川宿にペリーを上陸させてしまうと、東海道の交通が妨げられてしまう。
そこで幕府は、南側の本牧山があって、その手前が入江になっていて何もない横浜村に、応接所を設営し、そこで外交交渉を行いました。
交渉の結果安政元(1854)年に日米和親条約が締結され、さらに安政5(1858)年には、米、英、仏、露、蘭の五カ国との間で、安政五カ国条約が締結となり、そこで日本は、それまでの長崎に加え、神奈川と函館を開港すると約束したわけです。
この条約締結を推進したのが後に桜田門外で暗殺された大老・井伊直弼で、これを不服とする攘夷派の公家たちは、勅許を待たずに調印したのは幕府の独断専行であると、これを非難、ついには井伊直弼が暗殺されるという事態に至るわけです。
このことは、開国を迫った外国からすると、幕府との調印は、日本国との調印ではなく、幕府という一家門との調印にすぎないとなるわで、こうした日本国内の混乱に業を煮やした英仏蘭の三国が、こんどは朝廷のお膝元の兵庫県沖に来航して、条約の勅許を求めたことから京のお公家さんたちも、ついにこれに屈し、結果、神戸も開港となり、そこに神戸外国人居留地が開設されるようになった、というのは、また後の話になります。
さて、神奈川を開港すると約束した幕府ですが、東海道の宿場町である神奈川は、港が浅く、しかも東海道の人の往来が激しい分、攘夷派の志士たちもいるなかで、外国人の警備がたいへんです。
そこで幕府は、神奈川村の対岸にある横浜村に、外国人居留地を置くことを決めました。
地域的に神奈川は神奈川であるからです。
ところが各国領事は、当初、これを承知しませんでした。
横浜では約束が違う、東海道の宿場町である神奈川ではなく、横浜に居留地を置くということは、長崎の出島のように、外国人と日本人を隔離する意図を持ったものだ、というのです。
そして一部の外国領事は、神奈川宿に、勝手に領事館を設営したりもしてしまいました。
これに対し、幕府側は、粛々と横浜村に波止場、運上所、居留施設などの建設を強行します。
さらに日本の商人たちにも、横浜村への出店を誘引し、わずか3ヶ月という短い期間のうちに、突貫工事で外国人用の居留施設、遊郭、芝居小屋、土産物屋、料亭などを含む、街を建設してしまいました。
街ができてしまえば、道も建物も新しくてきれいだし、土地も広いし、なにより港が深くて大型船舶の停泊に優れています。
これには外国人領事や商人たちも大満足。
次々と横浜には、外国人たちが住みはじめ、そこに日本の商人たちも集まって来る。
遊郭や料亭もでき、美しく着飾った芸子さんたちが、道を行き交う。
もっとも、日本の家屋は、一間が小さい木造家屋なので、外国人たちからすると、それはまるで「一間で居間と寝室と食堂と倉庫を兼用した、まるで西部のガンマンのすみか」などと悪口を言われたものですが、それでも、一般の日本人の家屋と比べれば、部屋も広く、屋敷も広く、また敷地も広くて、慣れてしまえば、住み心地が良い。
おかげで、外国人領事や、外国人商人、あるいは船員たちは、まさに「大満足」となったといいます。
そしてそういう満足は、警備が行き届き、安心して街を歩ける横浜の商店の活性化にもつながらり、気がつけば、たった3ヶ月で急造した横浜は、ほんの数年後には、我が国を代表する大きな港町に育っていきました。
そしてこの横浜にやってきた多くの武士たちが、オランダ語から英語への時代の変化を感じ取り、英語を学び、米英の知識を我が国に導入していきました。
ちなみに、横浜には「関内(かんない)」という地名がありますが、これは東海道を歩いて横浜の街に入る時、戸部坂をのぼると、そこから横浜の街並が一望できる。
その坂の切り通しを越えて、坂を下ったところに、関所と番所が置かれていて、その番所から内側が関内、外側が関外とされたことから、いまでも、関内の地名が残っています。
そして横浜の街で、外国人たちから英語を習い、英語の書物を買い漁って語学を身に付け、通訳として咸臨丸にまで乗りこんだ大分県中津藩士で、大阪生まれ、大坂の緒方洪庵塾で塾頭を勤めた秀才の、若き日の福沢諭吉は、その横浜からほど近い日吉に、後年、慶応義塾大学を作っています。
地名というのは、そこにかならず深い歴史があるものです。
全国どこでも、それは必ずあります。
冒頭に述べた東海道の品川、川崎、神奈川、程ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原などの地名も、そこにはそれぞれの由来由緒が必ずある。
けれど、どうでしょう。
いまの若者達といわず、中高年の皆様でも、いまお住まいのその市や町の名称の由来を、いったいどれだけの方がご存知なのでしょうか。
横浜市は、人口370万人の巨大都市ですが、その横浜在住の方で、横浜の地名の由来や、横浜開港の由来や、当時の苦労話を知っている方は、いったいどれほどおいでになるのでしょうか。
知識をひけらかしたりする積もりは毛頭ありませんし、それを自慢したいということでもありません。
そうではなく、せめて、自分の住んでいる市や町の名前の由来くらいは、郷土に対する愛を育むものとして、みんなが共有すべきものなのではないかと思うのです。
国への愛も、郷土への愛も、同じ愛の延長線上にあります。
祖国への愛は、おなじくもっと身近な郷土への愛から育まれるものであるようにも思います。
そんなことから、すこしずつ小学校5〜6年生向けの郷土史の教科書の副読本の発行を、それぞれの市町村にはたらきかける運動を開始していますが、まだまだ、道は遠く、成果もほとんど出ていません。
日本を取り戻す。
それは同時に、郷土の歴史を取り戻す戦いではないかと思います。
できれば、これをお読みのみなさまが、なんらかのかたちで、市に働きかけ、郷土史の小学生向け副読本の作成の運動を起こしていただければと思う次第です。

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