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(1904年9月25日)

以下は、2009年にブログ「台湾は日本の生命線!」に掲載された記事からの抜粋です。
ねずブロでは、同年7月25日に記事にしていますが、忘れてはいけないことなので、再掲します。
もとネタは、明治37(1904)年9月24日付のロンドン・タイムスです。
同文の記事は、翌9月25日、ニューヨークタイムスにも掲載されました。
それが上の写真です。
明治37(1904)年といえば、日清戦争の勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目の年です。
この年の2月には日露戦争が勃発しています。
日本による統治がいかに素晴らしかったか。
また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。
おそらく、現代のイラクや、アフガン、ソマリア、あるいは南米のコロンビア、ペルーなどにおいても、当時の日本式統治をおこなったのなら、瞬く間に彼の国の貧困は改善され、治安も回復し、多くの人々が安心して暮らせる国家となっていくのではないか。
そんなことさえも感じさせる記事となっています。
(訳は、ねず流に校正しています)
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【日本人が変えた未開の島―台湾
~他国家が征服できなかった民族と共に
数年間で成し遂げた驚異の数々~
☆他の植民地主義国家への教訓☆
1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙では、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。
どんな事業においても、成功するためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして、「経験」という三要素が必要です。
植民地経営も例外ではありません。
実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しています。
なぜドイツが植民地の経営に失敗したのか。
ふつうに考えられるのは、まず、どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいということです。
そういう意味においても、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。
なぜなら、日本の最初の植民地である台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できないとされていた困難があったからです。
日本統治前の台湾島は、支那やその他様々な国からの無法者がずっと好んで跋扈していました。
野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがなかったのです。
(註:清朝は、台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んでいました。)
スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。
けれど絶望の内に断念しています。
支那は島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。
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未開原住民の懐柔・開化
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1894~1895年の日清戦争の終結後、日本は台湾の割譲を要求しました。
このとき支那は、喜ばないまでも快くそれに応じています。
李鴻章は、「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と、皮肉っぽく論評しています。
(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)
日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態でした。
奥地は、野蛮な原住民によって支配されていました。
海岸部は、難破船を分捕ったり、島に漂着した船員たちを殺害することで生きている無法者や盗賊の集団に支配されていました。
実際、台湾が支那領であった頃、外国船船員に対する台湾民たちによる殺戮や攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じています。
1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれました。
このとき、支那統治時代の台湾島の管轄者である支那の武官や官僚は、その地位を追われることを恐れて、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者である日本に対する反乱を扇動しています。
日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだのは、ようやく1901年の末頃のことでした。
それまでは、台湾島は常に不安定で混乱した状態が続いていたのです。
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法令施行に於ける寛容さ
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台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受しはじめたのは、ようやくこの2~3年のことです。
ところが台湾島の様相、すなわち、すこし前までは未開の民であった台湾の原住民の様子は、180度違うものになっています。
台湾の人々は、日本の法政を理解し、それを賞賛し始めるようになっているのです。
日本が顕著な成功を収めている政策はに、次のようなものがあります。
まず日本は、可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することを心がけています。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入しています。
(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えています。)
そしてこれら「成文法」は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用しています。
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阿片常用者の治療(漸禁策)
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阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。
けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。
日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。
そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。
日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は、最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。
そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えています。
医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常にさとし、教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。
台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。
17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。
なぜなら1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。
財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。
なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)
日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。
台湾の民衆は、公正な政府の下で自由を謳歌できるようになったのです。
次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされました。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできたのです。
それは澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する極めて質の悪い水が主な原因でした。
そこで日本人は、浄水の供給を始めたのです。
台湾で掘られた井戸の総数は不明です。
けれど総人口の10分の1が住む台北地域だけでも、800以上もの井戸が堀られました。
(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)
1903年着工~1905年完工

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素晴らしい学校制度の開始
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教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点です。
日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入しました。
60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する一方、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっています。
しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではありません。
というのは与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからです。
日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立しているのです。
台湾の医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する「極東で唯一の学校」という重要な特徴があります。
学校は台北にあり、現時点で約150名の学生が、有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいます。

日本語学校には二つの役割があります。
ひとつの目的は、原住民の間に日本語を広めることです。
けれど同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで、彼らが奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもあります。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。
日本語の役割は、
① 共通語を持つことと、
② 近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段
として不可欠であった。
つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であったのである。
総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)
個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよります。
日本は、新植民地の繁栄増進をも、その目的としています。
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鉄道網の構築
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日本が台湾の割譲を受けた頃には、台湾島に道路は存在していませんでした。
そのくせおかしな話ですが、粗末な建造で、貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道だけは存在していました。
この鉄道は、運賃や貨物運送の時間が、ほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけ運航する列車でした。
日本は台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めました。
米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されています。
そして日本は、同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しています。
これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような大金です。

日本人が当初台湾で見た鉄道は、いまでは完全に整備され、さらに新竹-高尾間の新線建設が、両方のターミナルから同時に全力投球で始まっています。
1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車と機関車20輌が導入されました。
この期間に、運送旅客数は4倍に、そして輸送貨物量は10倍に伸びています。
加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設されました
更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される予定となっています。

郵便、電信、電話も、既に導入されて、大きな成功を収めています。
1896年から1902年の間に、一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替が発行されています。
電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び、1,350マイルの電話線が敷設され、
1902年には3,690,228件の通話が行われました。
(なつかしい赤ポストです)

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できるようなものはありませんでした。
土地は実り豊かな土地なのです。
けれど、その耕作法は、科学的なものはおろか、伝統的・絶対的なものでさえ知られていませんでした。
原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存していたのです。
台湾の農民たちは、米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものとなっていました。
それが日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びています。
同じ期間のお茶の生産量は5倍となり、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せています。

(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌したのである。)
広大な森林の利用も不十分なものでした。
原住民は不経済で、例えば楠(くすのき)から樟脳(しょうのう)を取り出す際に得られた樟脳油は、地元の精製者は廃物として取り扱われていました。
日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は、1897年の 1,534,596斤から、1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びています。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれていませんでした。
ところが日本の忍耐強い指導と穏やかな主張により、あらゆる産業において改良手法の導入に成功しています。
農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げているのです。
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銀行・通貨制度
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台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになりました。
その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され、より重要な中心部に民間銀行の事務所も開設されました。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めています。
預金者数は、
1896年の5,847人から、
1902年には41,145人に、
預金額は1806年の228,487円から、
1902年には763,575円に増大しています。
台湾通貨も改革を必要としていました。
台湾は、ずっと支那と同じく為替の媒体が使われていました。
それは硬貨ではなく、金塊だったのです。
扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引も不可能でした。
今では、日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっています。
日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込みました。
粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいます。
疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取ることでしょう。
この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりで達成された経済発展は、大変に著しいものです。
そのことは、住民の繁栄の増大として、政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が、
1896年の 2,711,822円から
1903年の12,738,587円へと、ほぼ10倍に拡大していることから、見て取れます。
主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、
1898年の 747,850円から
1902年には1,952,220円へと、4年でほぼ3倍に伸びました。
しかも、一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するために、不当な圧政が行われたことは、これまでにいちどもありません。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然のことといえます。
1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加しています。
<↑引用おわり>------------------
昭和天皇は、大東亜戦争開戦の詔勅において、次のようにお話になりました。
==========
東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
==========
上のニューヨーク・タイムスの記事は、その陛下のお言葉通りの統治が、台湾で行われたことを如実に物語っています。
実は、満州も同じでした。
満州においても、日本は最大限の貢献と努力をし、崩壊した清王朝の治世の近代化と社会的インフラの整備が行われました。
朝鮮半島も同じ。
パラオも同じ。
インドネシアも同じ。
日本が統治したそれぞれの外地は、みな等しく、社会的インフラが整備され、社会資本と社会制度が整い、教育が充実し、瞬く間に近代化し、農産物等の生産高も飛躍的に伸びています。
英国はインドをはじめ、世界各国を統治したけれど、その国の民衆は貧しいままに置いていました。
アメリカは、フィリピンを戦後もずっと統治したけれど、現地の人々はずっとずっと貧しいままでした。
五族共和とか、八紘一宇とかいうと、いまどきの人は、右翼だの軍国主義的発想だのというけれど、ぜんぜん違います。
日本は、まさに万国共栄を図ろうとしていたのです。
いまだって同じです。
数多くの日本人が、海外協力隊として様々な国にでかけていますが、そこを征服し、収奪をしようなどと思って出かけている日本人は、ひとりもいません。
全員が、その国の人々のため、自分にできる最大のことをしようとして、海外に出かけて行っています。
世界の歴史をひもといて、他国に出向き、あるいは他国を統治したときに、これほどまでにその国の発展に寄与した国家が、歴史上、日本のほかにあるのでしょうか。
戦前の日本の軍人さんも、軍族も、民間人も、みんなこういう理想のもとに働いたから、理想があったから、そして実績があったから、それを正しいと信じたし、命がけで戦ったのです。
戦前の日本の軍人さんや軍族、民間人すらも、命を捨ててまで戦うことができたのは、なにも、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからでも、上官の命令があったからでもありません。
反日左翼の人たちや、一部の不逞外国人の人たちは、人は命令すれば動くと勘違いしているように思います。
そんなことはありません。
ひとりひとりが、誰かのために、互いの信頼を勝ち得るために、そして信頼を守り抜くために行動するとき、はじめてそこに共生の観念が生まれ、育ち、互いの信頼関係となって、育って行くのです。
上にご紹介した記事は、英国人記者が自分で取材して、ロンドンタイムスに掲載したものを、翌日にニューヨークタイムスが転載したものです。
英国人記者によって、こうした報道がなされたわけです。
そして書いてあることは、ことごとく事実です。
世界の植民地支配は、もともとは白人の「ならず者」の一団が、国ごと強盗することからはじまりました。
私財を肥やし、そこで奪った豊富な財力で、そのならず者たちは欧州の貴族社会に入り込み、カネに明かして贅沢三昧な暮らしをしていたのです。
そしてその贅沢は、あくまで一部の、もと強盗でいま貴族と呼ばれるようになったごく一部の者たちだけの特権となりました。
欧州でも、一般の庶民の生活は、極貧に等しいものだったというのが実情です。
ところが19世紀の終わり頃になると、市民革命のうねりのなかで、市民の票が社会の構造を変えて行くという構造が生まれました。
一部の、元ならずものたちの浪費が、景気を刺激し、欧州の一般の民衆も、ある程度の暮らしが確保されるようになってきたのです。
こうなると貴族と庶民の貧富の差が、社会問題となって行きます。
なぜなら圧倒的多数を占めるのは、常に庶民だからです。
つまり、いちぶのならず者たちによってもたらされた富は、彼らの贅沢な暮らしによって西欧社会の経済を促進し、その結果、そうしたならず者たちの末裔たちが、社会的に圧迫されるようになってきていたわけです。
そういう背景のもとで、実は、植民地経営は、ただの収奪ではなく、真にその国の社会や人々の暮らしを良くすることができるものだし、そうすることで、その国も、また自国も一緒になって繁栄を謳歌できるようになるものだという日本の試みは、まことにもって世界的に貴重な試みであったといえます。
そしてそれは、見事に成功していました。
もし当時の日本が、そういう事実を世界に向けて大々的に広報していたら、もしかすると世界の民意は、また別なものになっていたかもしれません。
ところが日本人は、自らの手柄を誇るということを極度に嫌う民族です。
良いことは、してあたりまえ。
そういうことを誇るということ自体が、えげつないことだと考えるのが日本人です。
ですから、日本は、まったく当時の日本の統治の自慢も宣伝もまったく行っていません。
一方、蒋介石や、張学良など、支那で一定の利権を得た者たちは、民衆の幸せのためではなく、欧米の植民地利権者たちと同様、自己の利権のためだけに、徹底した反日プロパガンタのための捏造宣伝を、世界中に、大々的に、莫大な予算をかけて行っていました。
そして、そういう一部の利権主義者たちのために、一般の民衆が動員され、命を失い、また財を没収され続けていました。
日本は、みかねて、民衆の利益と生活を守るために軍を派遣し、戦いました。
それが真実です。
けれど、それが真実なら、日本はそのことを大々的に世界に向けて広報し、宣伝すべきであったのであろうと、いまにしてみれば、思うのです。
日本は、ずっと控えめでした。
それは日本人の美徳でもあります。
けれど、それだけでは、人々は眼を覚まさないのです。
目を覚ますには、目覚まし時計が必要です。
目覚まし時計だって、買って来なければ手に入りません。
けれど戦争をすることに比べたら、広報予算など、たかが知れています。
正しいことをするとき、「男は黙って」というのは日本人の美徳です。
しかし世界の中では、「私がやりましたぁ!」と宣伝しなければ、逆に「悪いことをしている」などと、捏造までしてデタラメに白黒を反転させられてしまうのが現実です。
そういう意味で、冒頭の台湾統治の紹介文は、英米の新聞に載ったといって、私は喜ぶべきことではないと思います。
ひとつは、日本としては、あたりまえのことをあたりまえにやっただけのことだから。
そしてもうひとつは、こういった宣伝は、英米の記者が勝手に取材して書いてくれたことを喜ぶようなことではなく、むしろ日本が自ら、カネをバラまいてでも、もっと積極的に宣伝すべきことであったと思うからです。

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