
食欲の秋、味覚の秋。
和菓子のおいしい季節がやってきました。
和菓子は、日本の伝統的製造法で作られるお菓子です。
ちなみに「和菓子」という言葉は明治以降のもので、もともとはただの「菓子」です。
明治時代に西欧から新しく「洋菓子」入ってきたために、対語として「和菓子」と呼ばれるようになりました。
日本人とお菓子の関係は、とても古く、なんと縄文時代にまでさかのぼります。
たとえば、クッキーです。
実はこのクッキー、日本では1万年以上昔の縄文前期から食べられていたものです。
というのは、縄文時代というのは、いまから1万7000年ほど前から始まるのですが、それ以前の石器時代と縄文時代が何が違うのかというと、これはみなさまご存知の通り、縄文土器が使われるようになったことがあげられます。
では、土器が何に使われるかといえば、あたりまえのことですが、食事や煮炊きです。
歴史教科書によっては、縄文時代は狩猟採取生活とのみ説明していて、石器時代との区別が曖昧なものが多いのですが、ただの狩猟採取の生活と、採ってきた肉や野菜や果物を食器を使って煮炊きするようになるということは、まるで状態が異なります。
つまり、魚や貝や肉を採って食べるというだけの狩猟採取生活そのものから、土器を用いて煮炊きする、つまり「調理して食べる」ようになったというところが、実は石器時代から縄文時代への大変化です。
いってみれば、石器時時代から縄文時代への変化は、「食の大革命」であったともいえるわけです。
では、縄文から弥生への変化は何かといえば、これはこのブログで再三、お伝えしている通り、人々が武器を持つ持つようになった。
これまた学校の教科書では、稲作が渡来して、狩猟採取生活から農業生活にはいったように書いていますが、狩猟採取という不安定な食生活の時代から、稲作がはじまって生活が安定し、豊かになったのなら、食器はより贅沢になるのが普通です。けれど弥生時代の土器は、どうみても縄文式土器より装飾性に乏しく貧相です。
しかも縄文時代の遺跡からはまったく発掘されない対人用の大型武器が、弥生時代の遺跡からは続々と発見されています。
喧嘩なんてしたことのない子が、突然何らかの理由で武装しはじめた・・とまあ、そんな話は、また別の稿に譲るとして、そんな中で、実際に発見された縄文時代の加工食品が、あります。
山形県高畠町にある押出(おんだし)遺跡から出土した「クッキー」です。
発見は昭和46(1971)年のことです。
遺跡はいまから5800年前のものであることが確認されました。
ということは、先日ご紹介した縄文の女神よりも、さらに1000年古い遺跡です。
その遺跡から、39棟の家屋跡と大量の縄文式土器、石器、木や石の道具、そしてなんと、炭化した「クッキー」が発見されたのです。
(山形県うきたむ風土記の丘考古資料館所蔵)

このクッキーは、、クリやクルミを砕いて粉末状にし、水にさらしてアクを抜き、それを団子状にまるめて練って、熱を加えて作ったものです。
ものすごく手のこんだもので、山形では同じ製法で再現した「縄文クッキーが」観光土産でも売られています。
これが、実に美味い。
日本人は、5800年もの大昔に、こんなに美味いものを食べていたのか!とあらためて感動します。
そもそも木の実というのは、採った木の実を、木の実の形状のままで保存したら、中の実がどんどん痩せて行ってしまうのです。
ですから、すりつぶして粉末にし、乾燥させて保管するわけです。
ところがドングリなどは、すりつぶしても、そのまま食べも、苦み(アク)強いので美味しくありません。
そこで、乾燥させる前に、水に浸してアクを抜くわけです。
アクが抜けたら乾燥させて、粉末として保存する。
その粉末に、こんどは水を加えて練って、焼く。
おいしいクッキーの出来上がりです。
できたてのホヤホヤは、とっても良い香りがするし、とってもおいしです。
加工することで、ある程度保存できますから、夫の狩りのときの携帯食にも使えます。
夫が食べる保存したクッキーは、冷(さ)めて、多少味が落ちるかもしれません。
では、焼きたては、誰が食べたのでしょう。
お母さんたちが、手間暇かけてクッキーを焼く。
その横で、子供達が大喜びで、焼きたてクッキーに手を伸ばしていたかもしれません。
なんだか縄文時代の集落のそんな光景が、まるで目に浮かぶようです。
さて稲作は、かつては日本には朝鮮半島から渡来したなどという「トンデモ説」が宣伝されていたものですが、実は佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)で、2500年前の大規模な灌漑水田跡が発見されたことで、朝鮮半島渡来説は、完全にひっくり返ってしまいました。
なぜなら朝鮮半島で発見されている稲作灌漑農業の水田跡は、朝鮮半島南部の2000年前頃のものしかないのです。
そして同じ頃、同じ場所に、なんと日本式の土器や古墳が出土しています。
ということは、朝鮮半島には日本から文化文明が渡ったのであって、その逆は年代的にもあり得ないことが考古学的に確認さています。
さらに稲そのものの栽培は、いまから約8000年前から6000年前の縄文時代早期〜前期の証拠がみつかっています。
岡山県の朝寝鼻(あさねばな)貝塚や彦崎貝塚で見つかった大量なイネのプラントオパールがそれです。
要するにその頃には、稲作は日本ですでに始まっていた、ということで、さらにこの遺物が8000年前のものであるとすると、朝鮮半島渡来説どころか、支那からの渡来説自体も、怪しくなってきます。
とまあ、このお話をし出すと、お菓子の本題からそれてしまいますので、また稿をあらためたいと思います。
さて、日本国内で米が作られるようになると、その米を発芽させて「もやし」のような状態にし、そこからでんぷんを採取して、水飴(みずあめ)にするという技法が開発されます。
いまでは甘味料に砂糖を使いますが、日本人が一般的に砂糖を使うようになったのは、江戸時代以降のことで、それまでは、こうして作る水飴が、日本の代表的甘味料でした。
この水飴、なんと日本書紀にも登場します。
「初代天皇の神武天皇が戦勝を祈願して水無飴(水飴)を奉納した」と書かれているのです。
もしかしたら、神武天皇も甘党だったのかしらん?などと、私などはついつい不埒なことを考えてしまいます(笑)。
日本のお菓子には、神様もいます。
いかにも八百万の多神教の国らしなあと感じるのですが、その神様は「田道間守(たじまもり)」といって、お菓子の縁起の神社に祀られています。
田道間守は第11代垂仁天皇の時代(紀元前70年頃)に生きていた方で、垂仁天皇の病を治すため、不老不死の菓子を求めて「常世の国(とこよのくに)」まで旅だち、艱難辛苦の末、9年後に日本に帰国されました。
けれど、このときすでに垂仁天皇は亡くなってしまわれているわけです。
嘆き悲しんだ田道間守は、垂仁天皇の御陵に詣でて、帰国が遅れたことをお詫びし、約束を果たしたことを報告されました。
そして持ち帰った菓子を墓前に捧げ、その場で何日も絶食して、殉死を遂げられました。
ちなみに「常世の国」というのは、いまでいうブータンやチベットのあたりです。
そんな遠くまで、いまから2700年も前に、はるばる日本人はでかけていっていたのかぁ、などと感心してはいけません。
もっとずっと古い時代の魏志倭人伝には、日本人は南米まで出かけていたようなことが書いてある。
さて、時代が下って奈良時代になると、734年の「淡路国正税帳(正倉院所蔵)」に、お餅のお菓子(大豆餅、小豆餅など)や、せんべい、あんこ餅などが登場します。
平安時代になると、あの「源氏物語」に、「椿もち」なんてのが出て来ます。
鎌倉時代になると、臨済宗の開祖の栄西禅師が、唐から茶を持ち帰り、やがてこれが「茶の湯」となって全国に流行するのですが、苦いお茶の「あたり」として、甘いお菓子が大流行しました。
芋ようかんなどが登場したのが、この時代です。
そうして江戸時代。
平和な社会の中で、庶民文化が花開いた江戸時代には、まさに職人芸としての和菓子が大ブレイクしました。
なかでも京都の「京菓子」と、江戸の「上菓子」は、宿命のライバルといわれ、さまざまな種類の和菓子が誕生していきました。
そしてこの時代に織り込まれたのが、和菓子の繊細な季節感です。
たとえば、「きんとん」です。
お正月には「きんとん」は、白と緑のきんとんを配します。
これは雪の下から新芽が萌え出る様子を表わしたものです。
これが梅の頃になると、赤と白の梅の花となり、11月には、茶色に白い粉糖が振りかけられて「初霜」となります。
中味はおなじ「きんとん」ですが、その見せ方を変えることで、味わいだけでなく、見た目にも風情をもたらしているわけです。
そういえば江戸時代、幕府も、お菓子の行事をおこなっていました。
それが毎年6月16日の「嘉祥の日」で、全、お目見え以上の武士(直参旗本)が江戸城大広間に集められ、将軍から和菓子をいただくわけです。
この行事は、平安中期の承和年間に国内に疫病が蔓延したときに、仁明天皇が年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康招福を祈ったという故事に倣ったものです。
だから6月16日は、いまでも「和菓子の日」です。
10月から11月にかけてでは、毎年、明治神宮で、和菓子の奉献会が催されます。
この日は、全国から銘菓が奉献されるだけでなく、平安時代の衣装を身にまとった和菓子職人さんが、神前で直接菓子をこしらえて、奉献します。
お菓子を食べたり楽しんだりするだけでなく、お菓子そのものに感謝する。
そのための行事です。
こういうところが、実に日本的だなあと思います。
さて、おしまいに、近年のお話をします。
平成14(2002)年のことです。
参議院議員の中山恭子先生が、拉致被害者の救出に北朝鮮に行かれました。
恭子先生は手みやげにと、ハンドバックの中に、横田早紀江さん(拉致被害者横田めぐみさんの母)が書いた「めぐみ」という本に加えて、二段重ねのお重に入れた和菓子を持参されました。
北朝鮮に到着した恭子先生は、被害者のみなさんをお待ちするために空港の待ち合いの、ずいぶんと広い部屋に通されました。
そこには、北朝鮮の警護員たちが、ずらりと立ち並んでいます。
警護員といえば聞こえはいいですが、要するに北朝鮮の秘密警察の、もっとひらたくいえば殺し屋さんたちです。
場は、一触即発のような張りつめた空気がピンと漂っています。
どうみても、歓迎ムードとはほど遠い。
いまにも銃撃戦が始まりそうな雰囲気と言ったら、その雰囲気がおわかりいただけるでしょうか。
そこで恭子先生、いつものあのおっとりとした様子で、持参した和菓子のお重の風呂敷包みを解いたのだそうです。
「何を持ち出すのか!」
あたりに緊張がはしります。
するとその風呂敷包みから、漆塗りの黒い重箱が現れる。
「すわっ、拳銃を取り出すのか!」と、あたりには、ますます緊張が走ります。
恭子先生がそっとフタを開けます。
するとそこには、いかにもおいしそうな和菓子のきれいな生菓子が。。。
先生は、その和菓子を、警護員の人たちに、「どうぞ」とお勧めしました。
はじめは警戒していた警護員さんたちだったのですが、恭子先生の悪意のない素直な笑顔に誘われて、まずリーダー格の人が、ひとつをつまんで口に入れました。
なにせ、日本の名店の和菓子です。見た目も美しければ、味も超一流です。
甘いおいしさが、そのリーダーさんのお口いっぱいにひろがったことでしょう。
いかつい北の警護員リーダーさんの目に、いかにも嬉しそうな、えもいわれぬ表情が浮かび上がります。
そのあとは・・・ご想像におまかせします。
恭子先生は、無事拉致被害者を救出し、日本に帰られました。
その恭子先生のもとに、北朝鮮の方がやってこられたそうです。
彼らは言いました。
「二度と和菓子を持ってこないでください!」
訓練を受けた北の警護員たちをさえ、その頑(かたくな)な心を一瞬で溶かしてしまった和菓子。
和菓子には、そんな不思議さがあります。
そういえば、和菓子に合うのはやっぱり緑茶ですね。
なんとなく不思議に思うのですが、ケーキやカステラなどの洋菓子は、テレビを観ながら食べても美味しいけれど、和菓子はテレビがついていると、なんとなくせっかくの和菓子の味がもったいないような気がします。
和菓子の味の持つ繊細さや見目の美しさは、テレビを見ながらではない、なにかしらの「味わい」があるからなのかもしれません。
それにしても、見目うるわしく繊細で、食べておいしく、季節感さえもある日本の職人芸の和菓子。
たまには、しぶ~いお茶で、おいしい和菓子など、おひとついかが?

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