
日本語というのは、考えてみると実によくできた言語であるように思います。
ちゃんと相手の言うことを聞くように、言語そのものができている。
どういうことかというと、たとえば例は古いですが、セーラームーンというアニメがあって、主人公の少女が最後に悪漢をやっつけるときに、
「月に代わって〜、おしおきよ♡♪」
と言うわけです。
これは実に日本的な表現で、これが諸外国の言語のように、「S+V+C」とか「S+V+O」というカタチですと、
「私は、します。おしおきを。月に代わって」
となるわけです。
(S=主語、V=述語、C=補語、O=目的語)
主語のあとにいきなり述語がくるわけですから、セーラームーンなら否応無く「おしおきする」わけです。
となれば、相手はすぐに逃げるか反撃しなきゃならない。
攻撃か防御か素早い対応が求められるわけです。
そこでは、「なんのためか」、「どうしてなのか」などという理由は後回しになります。
ところが日本語ですと、そもそも主語(S)がない。
相手にしてみれば、誰に「おしおき」されるのかが、まずわからない。
「えっ?!、誰におしおきされるの?」と思っていると、「月に代わって」というのです。
ということは、相手は「俺が、私が」成敗するというのではなくて、あくまでも「何ものかに代わって」、あるいは何か公的なものの「代理人」としておしおきする、といっています。
しかも、「月に代わって」のうしろに「〜〜」という「間」があって、何をされるのかなあと思っていると、「おしおきよ」と続くわけです。
相手は「おしおき」されたくないわけですから、話を全部聞いた後から、ようやく「攻撃か防御か」を決めることになります。
けれど、もしかすると話は「おしおき、しないわよ」と続くかもしれない。
とにかく最後まで話を聞かないと、相手が何を言いたいのかわからない。
これが日本語の特徴です。
こういった話は、かつて英語の習い初めの授業のときなどで、日本語が「いかに遅れている言語なのか」、「日本人がいかにおバカな民族なのか」の説明とともに、学校の授業などで教師から説明を受けた方もおおいかと思います。
私も、そのなかのひとりです。
中学一年生の一学期の始め頃のことでしたから、もういまから半世紀ほども前のことですが、いまだにはっきりと覚えていることからすると、よほど印象深かったのかもしれません。
けれど、こうした、何をしたいのか、何をいいたいのかが、話を最後まで聞かないとわからないという日本語の特徴は、常に相手の話を「ちゃんと聞く」、「しっかり聞く」という態度をはぐくみます。
また、主語を省くということは、「俺が、私が」ではなくて、常に「みんなとともに」、「みんなの考えで」という姿勢をもたらします。
ここに、古来から日本人の中に自然に備わった徳義があります。
結論が最後に来る日本語では、あたりまえのことですが、相手の話を最後までちゃんと聞かなければならなくなります。
ということは、まずは相手の言い分をちゃんと聞くという姿勢が日本人には自然と備わるわけで、その態度や精神は、これまたおのずと互いに相手を認め合い、意見や話をちゃんと聞くという相互共和の精神を育んでもいるわけです。
いきなり「殺すぞ!」と言われれば、相手は恐怖し、即時抗戦体制をひかなければならなくなりますが、「みんなのために、君が何々をしないようなら、殺すぞ」ということならば、では「それをするようにします」で、問題が解決してしまうわけです。
要するに縄文時代から脈々と続く、相互理解や協調、互いに助け合う互助、争いよりも対話を優先する文化というのは、実は、日本人にとっては、日本語の生成の歴史とおなじくらい古くからあった精神文化であり、社会文化であったということです。
日本人が日本語を、いまの構文のようなカタチで話すようになったのが、いったいいつ頃のことなのか、はっきりしたことは、わかりません。
はっきり証明されているのは、青森県の大平山元1遺跡から出土した世界最古の土器が、いまから1万6500年前のものであること。
土器があるということは、土器を作る間、作る人は「食」を得るための活動ができませんから、当然に、誰か他の人が土器を作る人のために、食事の手配をしてくれていたわけで、すなわち、村落的であれなんであれ、そこに一定の社会的分業が成立していたこと、集落が営まれ、共同体が成立していたこと、共同体である以上、そこに言語があったことなどが、証明されるわけです。
つまり、日本では、遅くとも1万6500年前には、言語があったということになります。
もちろん、その頃の言語が、はたしていまと同じ語順の言語であったかどうかまではわかりません。
わかりませんが、日本が島国であり、言語上の大転換に相当する事件の証明がない以上、そのまま日本語が進化したと考えるのが自然です。
そして、遅くとも、古事記、日本書紀の時代、あるいは万葉仮名の時代には、語順はいまと同じ語順になっています。
つまり、相手の話をちゃんと聞く文化は、日本においては、相当古くから熟成されてきた文化であるといえると思うのです。
そして相手の話をちゃんと聞くということは、やはり争いよりも話し合いと協調を大切にするという文化が、日本古来の文化的特徴であろうということも、同時に想起させるわけです。
そしてもうひとつはっきりといえることは、語順が外国語圏のような「S+V+C」であれ、日本語的「C+V」であれ、そのどちらが優れているとか、遅れているとかいうことにはならない、ということです。
それぞれの文化には、それぞれの特徴があり、それぞれに良さも悪さもあるように思います。
ただ、私たちは日本人です。
日本人の父祖を持ち、日本人として生まれ、日本人として生き、日本人として、未来の子供たちの幸せを築く責任と使命を持って生まれてきているのだろうと思います。
「パブロフの犬」という、有名な実験があります。
パブロフ博士が、犬にエサを与えるときに必ずベルを鳴らすようにしたところ、エサを与えなくても、ベルが鳴ると犬がよだれをたらすようになった、という実験です。
「条件反射」の喩えとして有名なものですが、「ベルが鳴ると反応する」、「おしおきよ」と言われて反応する。
まるで条件反射です。
そこに主体性はありません。
ただ、刺激を受けて反応しているだけです。
そこに、自分がどれだけの責任を負うのかという準備はありません。
私たちは犬ではありません。
周囲に何が起ころうと、たとえベルが鳴ろうと、反応する前に自己責任として判断し、しっかりと自分で責任を負う。
日本語は、実は、単に条件反射を誘うのではなく、相手の話を最後までよく聞きながら、自分の頭でしっかりと考えて、自分で責任をとるだけの言動を選択することを促す、そういう言語的特徴がある言語であるといえるのではないかと思います。
そして主語が省かれることによって、それが常に共同体としての人々の輪の中において、正しい選択といえるものかどうか。
そこを大切にする文化が、日本語の中にはしっかりと育まれているといえるのではないでしょうか。
この違いを、私は個人的にですが、
「支配する言語文化」
「共同する言語文化」
と名付けています。
相手の都合にかかわりなく、命令し、強制し、支配する。
そのためには、なにをやらせるのか、その命令が大事です。
ですから言語も、命令し、支配し、言うことを一方的にきかせるように発展する。
これに対し日本の言語文化は、「共同する言語文化」です。
相手の話を最後までよく聞き、自分の頭で考え、行動する。
相手もこちらの話を最後までよく聞き、相手の頭で考え、行動する。
そこにあるのは、条件反射ではなく、互いに主体的に判断し、行動する冷静さです。
西洋では、かなり古くから、タイプライターが発達しました。
そしてその変形として、英文ワープロも開発され、早くから広く普及しました。
日本語で書ける文章が、誰でも活字にできるようになったのは、このワープロが普及しはじめてからのことですが、そうしたら、なんといきなり、日本語では顔文字なるものができてしまいました。
この顔文字というのは、ある意味、実におもしろいもので、たとえば、
「怒ってるぞ〜〜(*^o^*)b」
と書くのと、
「怒ってるぞ〜〜(`´メ)」
とでは、意味合いがまるで異なります。
前者は、怒ってるというのは冗談ですが、後者ではかなりお怒りのようです。
同じよろこぶでも、
「うれしい〜〜ヽ(・∀・)ノ♪」と
「うれしい〜〜(*゚ε´*)プゥ.」
では、だいぶ感情が違いそうです。
なんといまや日本語顔文字は、2万種以上もあるのだとか。
英語圏の人たちも、最近では、この顔文字を多少使うようになってきたようですが、
🙂 =笑顔
:-0 =驚き
:-( =怒り
なのだそうで、はじめ意味がわからず、どうみたらいいのかと思ったら、横から見ると顔になっているのだそうです。
日本語における顔文字の発達は、もともと日本人が書き物の文字について、とくに漢字などを脳の中で言語ではなく、絵としてとらえ、筆字の世界では、まさに文字そのものが絵画として扱われてきた歴史などもあり、それが活字の世界に応用され、自然発生的に生まれて広く普及したもののようですが、最近ではこれに絵文字なども加わり、さらに一層、言葉によるコミュニケーションが広がってきています。
こういうところにも、複雑な人の心をたいせつにする文化が、日本にはある、ということができようかと思います。
日本には、人類が失ってはならない、たしかな文化があります。
その文化を、たいせつに育んで行く。
それは、これから先の未来の日本、国際交流がますます深まる時代の日本において、ますます重要度を増してくるものになろうと思います。

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