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邪馬台国論争

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)といえば、卑弥呼や邪馬台国で有名ですが、これが書かれたのは、3世紀末(280年〜297年間)頃です。
この魏志倭人伝に書かれた邪馬台国について、九州か畿内かという議論があります。
ところがこの議論、実はとっくに答えが出ている議論です。
この論争は、もともとは江戸時代の新井白石などの頃から延々と続いていたものなのですが、明治43(1919)年になって、京都帝国大学の内藤湖南が著書の「卑弥呼考」で邪馬台国畿内説を説きました。
卑弥呼というのが、実は「ヤマトヒメ」ではないかという説も、このときの内藤説に依拠します。
この内藤説が発表されるや否や、猛然と反発したのが東京帝国大学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)教授で、著書の「倭女王卑弥呼考」で「邪馬台国九州説」を強く主張しました。
おかげで、その論争から103年も経ち、この論争以降に様々な考古学史料が発見されたにも関わらず、相変わらず、東大閥の教授は九州説、京大閥の教授は畿内説を墨守していて、いまだに論争に決着がつけられていないとされています。


大学教授界というのは、たいへん厄介な世界です。
親分の教授の学説を否定するような学説を唱えると、教授のポストを失います。
どういうことかというと、有名大学の教授というのは、地方の大学の授業(コマといいます)を受け持つことで、ヒトコマあたりいくらで収入を得ます。
この持っているコマが多いほど、大学教授は収入が高いわけです。
そのコマ割り権を、親分の教授が握っています。
ですから親分の意向に逆らうと、地方大学の授業のコマをもらえない。
割り振り権が、親分教授に握られているから、逆らえない。
こうして、学問とは何の関係もない経済的理由や力関係で、たとえそれがカビの生えた間違った理論であることが実証されていても、これを変えるまっとうな学問的探究が阻害されてしまいます。
早い話が戦後の大学経済学部というのは、マルクス経済論が主流になったものですが、そのマル経がまったく非常識であり、国民経済になんの役にも立たないものであることは、ソ連崩壊が見事に立証しているわけです。
ところが大学は、相変わらず左翼系の経済学者が根を張り、国民経済を活性かするどころか、阻害することばかりをやっている。
こうした親分教授におもねって、まともな学問がなされないという問題は、戦前からあることはあったものです。
ただ、戦後は、GHQによる公職追放令によって、まっとうな教授陣が職を追われたこともあって、後がまに左翼思想に偏向した学者さんたちが座ったので、左翼というものは、実はたいへんに権威主義的思想の持ち主で権力さえ握れば何もかも自分の思うままになるという思想ですから、特にこの傾向が一層強まりました。
ちなみに理工系では、研究成果が主ですので、かなりこうした縛りは薄いようです。
文系に目立つこうした「大物教授による学説の縛り」というのは、たいへんに強烈なもので、大学教授界、とりわけ考古学の世界では、このことがたいへんな重石になっています。
たとえば縄文時代の衣服です。
多くの学校の教科書には、縄文人は髭もじゃで鹿の毛皮を着て、石斧を手にもってウッホウッホとやっている姿に描かれていました。
ところが、縄文前期の鳥浜貝塚などから「布」そのものが出土し、また土器の底に布の編み目がついているものなどが、戦後多数発掘されたのです。
そもそも日本のような高温多湿の国で、夏の猛暑に毛皮など着用していたら、蒸れて蒸れてしかたがありません。
「布」があれば、それを着用していたと考えるのが普通です。
だいたい常識で考えて、ウサギやタヌキなどの小動物を狩るために野山に分け入るには、男性なら大事なところを隠しておかないと、怪我をしてしまいます。
ならば何らかのものを使って、そこを隠して保護するのがあたりまえで、そのときに通風性に乏しく、蒸れ蒸れの毛皮のパンツなど穿くか?と考えれば、誰しも穿かない。
通風性の良い布でそこを隠すのがあたりまえの行動です。
縄文時代の土偶(人形)なども多数発見されていますが、それら土偶に描かれた着衣も、どうみても「毛皮」ではありません。
そもそも、縄文人自体が「毛皮」を着ていたという証拠そのものもありません。
もちろん布を織ったり編んだりするには、そのための道具も必要です。
そういう点について、実は尾関清子先生という実に優秀な学者の先生が、詳細に調べ上げ、さらに縄文時代の布を織る道具なども復元し、縄文人たちの布の着衣の復元なども研究され、本も出され、研究発表なども多数されておいでになります。
ところが、日本の考古学会は、長くこれを認めなかったのです。
認めないどころか、尾関先生が年に一度の世界考古学会の国際発表会で、この「縄文人と布の衣装」について発表しようとしたところ、その詳細な研究成果に多数の学者の先生方が賞賛を送り、是非、発表しましょうとなったのに、国内の考古学会の最終選考会で、大御所といわれているある大物考古学教授がひとこと「縄文人は毛皮を着用していたことに”なっている”」と発言したことで、布の衣装は却下になりました。
何のためにそう「なっている」のか知りませんが、本来学問というものは、「〜なっている」、「〜と決まっている」という決めつけではなく、ひとつひとつがちゃんと理論的にも史料的にも解明されていくというアカデミックな場であるべきものです。
文科省、そして国立大学閥、そこにできている階層社会、そして予算の分捕り合戦といった「都合」があるのかどうかわかりませんが、いい加減、日本の大学も眼を覚ますべきではないかと思います。
このままでは、日本の文系大学は、世界の潮流からどんどん取り残されてしまう。
さて、邪馬台国の九州・畿内論争ですが、これにしても、実はとっくに結論が出ています。
では、どちらが正解か。
実は、答えは、両方正解です。
魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた、Chinaの旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、そのことがはっきりと書かれているのです。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」というのがそれで、意訳すると「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれているのです。
つまり、九州王朝と畿内王朝は、「どちらもあった」わけです。
要するに確たる証拠があがっているのですが、東大閥も京大閥も、どちらも旧唐書を認めていません。
認めないどころが、偽書である可能性が高いなどと、言い出している始末なのだそうです。不思議なことです。
この「旧唐書」というのは、完成したのが945年で、魏志倭人伝よりも600年ほどあとの時代のものです。
記載された内容は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事で、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭には次の記載があります。
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倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。
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東西五月行、南北三月行。世與中國通。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。というわけで、この頃の朝鮮半島は「新羅(しらぎ)」によって統一されていますから、そこから東南に海を渡った先にあるのが「倭国」だというわけです。
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東西五月行、南北三月行。世與中國通
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広さは、東西に五ヶ月の行程、南北に三ヶ月の行程であり、代々、Chinaと通じている。
ということは、四方を海に囲まれている島国だ、ということです。
そしてChinaと通商をしていた。
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其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋
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その倭国には、居住地に城郭はなくて、木でできた柵を塀として囲い、屋根は草葺き屋根だというわけです。
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四面小島五十餘國、皆附屬焉
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そして倭国の四方には小島がある。
国内とそれらの島々にある五十余国が、倭国の傘下にはいっている。
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其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級
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争いごとが起こると、這って前に進み出て訴えを起こすというわけですから、裁判制度がしっかりしていて、紛争の解決に武力を用いた戦争を好まなかったということがわかります。
そして「その地には女が多く男が少ない」、つまり、女性を大切にしていた。
そして「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」。
つまり、一般の民衆に至るまで読み書きが普及していて、仏教も敬われていたとあります。
さらに服装は、みんな裸足であり、幅の広い布の衣装を着ている。
貴人は錦(めん)の帽子をかぶり、百姓たちもマゲを結っている。
婦人の衣装は、鮮やかな色のスカートに、長い腰襦袢で、髮を後に束ねていて、銀でできた花のカタチの簪(かんざし)をさしている、というわけです。
優雅でみやびな生活のいったんが伺えます。
おもしろくなるのは、ここからです。
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日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地
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「日本国は、倭国の別種だ」とあります。
そして、その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にあるというのです。
そして東にあるから「日本」と名づけたと書いてあります。
いささかわかりにくいのがこの後の文で、「倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた、というわけです。
この日本がどういう国かという記述が、この後ろにあります。
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其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國
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日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だというのです。
冒頭で、「倭国」は四方を海に囲まれた島国であり、四方の海には多数の小島がある、と書いているわけです。
ところがこの段では、「日本国」は、西と南は大海に面しているけれど、東の方角には大きな山(富士山?)があって、その向こう(富士山の東)は、毛人(アイヌのこと?)の国である、としているわけです。
つまり、国の形状が「倭国」とは異なる。
実はこれについて、Chinaに唐の国が起こる前の隋(ずい)の時代に書かれた「隋書(ずいしょ)」に、おもしろい記載があります。
かなりストレートです。
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有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵
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倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている、というわけです。
倭国の中央には「阿蘇山」がある。
しかもその阿蘇山は、火を噴いています。
つまり「倭国」は、九州だったということになります。
その九州だった「倭国」とは別に、本州側に「日本国」が起きた。
そしてその日本国は、旧唐書には「倭国とは別種だ」と書かれていて、その日本国は「日の出の場所、つまり倭国からみて東方にあるから「日本」という名前がついている、と書かれているわけです。
では、すこしわかりにくい、「倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた」という記述は何を意味しているのでしょうか。
実は、このことについて、「旧唐書」のあとに書かれた「新唐書」に、次の記述があります。
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日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居
(中略)
彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀
========
日本は、いにしえの「倭奴国」なり。
唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である、というわけです。
島・・・ですからこれは旧唐書と同じことを言っていて、つまり九州だ、というわけです。
そしてその「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿德、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という、というわけです。
彦瀲(ひこなぎさ)については、記紀にも記述があります。
「海彦、山彦」の物語でよく知られた「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)」と、海神の娘である豊玉姫(とよたまひめ)の子で、「古事記」には「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記されている神様です。
その末子の若御毛沼命(わかみけのみこと)が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ)で、後の神武天皇)です。
戦後の歴史学者は、古事記や日本書紀に書かれた出来事を、信憑性のないただの神話にすぎないと一笑に付し、教科書からも日本神話を削除していしまいましたが、日本ではなく、Chinaの歴史書(文献史料)にも、ちゃんと、神武天皇とその東征が書かれているわけです。
要するにこれは、神話に書かれている事実は、「あった」ということです。
さらにいえば、「新唐書」に書かれた神武天皇以降の天皇のお名前も歴代天皇のお名前と、一致しています。
そしてその新唐書に、「倭国にいた神武天皇が大和に移って統治をし、改めて天皇と号した」ということも、記載されているわけです。
記紀には「神武東征」が明確に書かれているわけで、九州においでだった神武天皇が、東へと向かい、大和の地を都と定めたとあります。
ここまでくれば、邪馬台国は、もともと九州にあった「倭国」を指し、その倭国が東に上って大和朝廷を築いたとわかります。
ちなみに九州にあった「倭国」は、「倭奴国」とも表記されます。
「倭奴国」といえば、後漢書東夷傳に、
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建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
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という記述があります。
「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」と読みますが、このときに下された印鑑が、江戸時代天明年間に発見され、昭和6(1931)年に国法となった「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」です。
つまり、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易を行うだけの力を身に付けていたわけで、しかも金印を賜ったということは、印鑑を付くという習慣もあったということになります。
印鑑は、文書につくものですから、つまりその頃、すでに漢字を用いて文書を取り扱っていたということです。
そして、旧唐書によれば、倭国では「頗有文字」つまり、よく文書を用いていたとあるわけです。
戦後の学者は、記紀の神話を否定し、我が国の正史から削除し、そしてさらに邪馬台国について、あたかもいまだに九州説、畿内説の「対立」というドグマに陥っているのですが、そのいずれもが、史料によって完全否定されてしまうわけです。
そしてもっというなら、誰がどう考えても、この高温多湿で猛暑の日本で、毛皮の衣装など通常衣として用いる筈などないのに、縄文人は毛皮を着ていたと言い張る。
ここまでくると、言葉は悪いけれど、もはや子供の我執の世界です。
ヲシテ文字などについても、頭から偽書だとの決めつけがなされているようですが、そうしたさまざまな発見や調査について、もっとアカデミカルに議論され、調査され、試行錯誤されていく学会こそが、あるべき姿であろうと思います。
ちなみに、最近では、韓国系の在日学者などが、邪馬台国朝鮮説などという「とんでも説」をあたかも真説であるかのように宣伝さえし出しています。
邪馬台国朝鮮説などというものは、隋書・倭国伝によれば、
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倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居
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とあり、これは「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する」というわけですから、要するに倭国は、新羅や百済などの朝鮮半島南部の国から、東南の方角に海を渡った先にあるわけで、どうみても朝鮮半島内に倭国は存在し得ません。
もっというならこの隋書には、
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有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵
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とあります。倭国の真ん中に「阿蘇山」があって、その阿蘇山は火柱を昇らせて天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行うというのです。
倭国の真ん中には「阿蘇山」がある。しかも火を噴いている。
この、どこをどう読んだら倭国が朝鮮にあったということになるのか、見識を疑います。
そんなことで学者を名乗れるのなら、学者も地に落ちたものです。
せっかくなので、もうひとつ付け加えると、この隋書に、次の記載もあります。
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新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來
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新羅や百済は皆、倭を「大国」で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのです。
「隋」というのは、古代のChinaに生まれた強大な軍事大国です。
そして「隋」の歴史書である「隋書」は、その強大な軍事大国である「隋」の公式文書です。
当然、記述は隋の立場で書かれているし、本来Chinaは中華思想の国ですから、朝貢を受ける国は自分の国だけだというのが大前提です。
にも関わらず、その隋が「倭国は大国だ」と書き、朝鮮半島にあった百済や新羅が日本に朝貢していたと、この一文には書かれているのです。
つまり、強大な軍事大国である隋でさえ、不承不承ながら、百済や新羅が倭国に朝貢することを事実上認めざるを得ないほど、倭国の実力が大きかったということが、この一文から明らかになるのです。
ついでにもうしあげると百済も新羅も、国王は後継ぎとなる長男の王子を、倭国に人質に出しています。
要するに、百済も新羅も、そこまでして倭国の実力を認めていたわけです。
そしてその倭国には、阿蘇山があった。
そのどこをどう読んだら、倭国(やまと国=邪馬台国)が朝鮮半島にあったことになるのか。
アホらしさを通り越して、呆れてしまいます。
いずれにせよ、いつまでも学閥や国家意思のようなドグマにとらわれるのではなく、論理的にも考証学的にも正当な学問的研究がちゃんと進む日本の学会に、なっていただきたいものだと思います。
なぜ、わけのわからない邪馬台国朝鮮半島論などが登場するのか。
要するに、我が国の学会にも、同様のドグマがまかり通っているから、つけ込まれるのです。
毅然とした日本というのは、何かを言い張ったりレッテル張りをしたりする日本のことではありません。
事実を事実として、冷静にちゃんと受け止め、謙虚に学び、語り、伝える。
そういうことが、これからはもっともっと大切になると私は思います。
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