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日本三大美人といえば、衣通姫(そとおりひめ)、小野小町(おののこまち)、藤原道綱母((ふじわらのみちつなのはは)の三人です。
本朝三美人(ほんちょうさんびじん)ともいいます。
なかでも小野小町は、美しい女性のことが「◯◯小町」と形容されるなど、美人の代名詞とさえされてきました。
ちなみに一昔前には、世界三大美女は、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町なんていわれたくらいで、実は、一般には三番目にはトロイ戦争の原因になった美女ヘレネが入るのだけれど、ある意味、それ以上の美人とまで形容されていたわけです。
そこで今日は、小野小町について書いてみたいと思います。
と、その前に、日本三代美女の衣通姫、小野小町、藤原道綱母の三人ですが、この三人のなかで年代的にもっとも古いのが衣通姫(そとおりひめ)で、5世紀の人です。
時代でいったら古墳時代です。
記紀で紹介されている女性で、その美しさは、衣を通して輝を発したところから、その名前がつけられました。
記紀では、どちらも絶世の美女として紹介しているのですが、ただ古事記と日本書紀ではその記事の内容が異なっていて、古事記では禁断の恋に落ちた衣通姫が、流罪になった恋人を慕って愛媛まで行き、そこで愛する人と心中したとなっているのに対し、日本書紀では允恭天皇に寵愛されたお妃(きさき)でありながら、皇后の嫉妬によって逢えなくなった不遇の美女として描かれています。
二番目に古いのが小野小町で、こちらは平安中期、9世紀の中頃の女性です。
いまでもたとえば「あきたこまち」などの名前に形容されたり、あるいは町内の美人のことを「◯◯小町」などと形容したりされているくらい、時代を越えて愛されている女性です。
三番目に古いのが藤原道綱母で、平安中期ですから10世紀の女性で、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の著者でもあります。
情熱的な歌人で、清少納言の枕草子にも紹介されています。
三人とも、古い時代の人だけに、肖像画のようなものは残されていません。
ただ、絶世の美女として紹介されています。
なかでもおもしろいのが小野小町です。
諸説あるのですが、有力なのが、小野小町が秋田県の出身だ説です。
秋田美人といえば、目鼻が大きく、顔立ちがくっきりしていることで知られています。
ですのでもしかすると小野小町も、そういう秋田美人系の美人だったのかもしれません。
そうなると、これまた面白いことになります。
と申しますのは、美人の物差しが変わって来るのです。
昔、学校で「天平美人」などという言葉を習った方も多いのではないかと思います。
天平時代というのは、奈良時代、つまり8世紀ですが、その頃から平安期にかけて、我が国では「引き目かぎ鼻」、つまり細目で鷲鼻の女性が美人とされた、これを「天平美人という」などと学校で教わった方も多いと思うのです。
つまり大昔の美人は、現代とはまるで異な美観で、だから美人の要件も時代とともに異なっていたというわけです。
小野小町は、この説をひっくり返してしまうのです。
そもそも人間の美的感覚というのは、地域的にも歴史的にも、そうそう変わるものではありません。
世界中どこに行っても、美人は美人です。
トロイのヘレネも、クレオパトラも楊貴妃も、おそらくいまの世にいても美人でしょう。
つまり、引き目かぎ鼻からはほど遠い秋田美人の小野小町も、現代人の感覚でみても、やはり美人だったであろうということになるのです。
絵画でも彫刻でも、時代を越えて美しいものは美しいものです。
ならば人だって、美人は時代を越えても美人です。
であれば、引き目かぎ鼻が天平美人の要素だなどというのは、単なる思い込みか、一方的な決めつけでしかないということです。
現代美人は、古代や中世の世に行っても美人でしょうし、逆に古代や中世の美人が現代社会に蘇っても、やはり美人なのだろうと思います。
そもそも絵画の世界では、引き目カギ鼻の天平美人が古代日本の美人の要素だと言いながら、同時代の彫刻は、奈良の大仏にしても、弥勒菩薩像にしても、あるいは阿修羅像(下の写真)にしても、目も大きいし、現代人の目からみても、実に整ったお顔立ちをされています。

江戸時代には、美男美女のことを「目病(や)み女に、風邪ひき男」などと形容しました。
最近では「目ヤニ女」なので、目が大きいのだろうなどと誤解されていますが、本当は「目病み女」です。
「目病み」というのは、目を病んでいると不自由なので男性が手を差し伸べたくなる風情で余計に愛しい、風邪引き男は女性が面倒観たくなる風情というわけで、ここにあるのも、見た目の問題ではなくて、互いの思いやりの心です。
つまり、見た目ではなく、心のやさしさ、思いやりの深さこそ大事とされていたわけです。
さて、この三人が「日本三大美女」と呼ばれるようになった理由です。
ここにも実に日本的な精神性が隠されています。
そこで今日は、「小野小町」を中心に、その精神性とはいったい何かを観て行こうと思います。
さてその小野小町ですが、小野小町という名前は本名ではありません。
本名は、これまた諸説ありますが、おそらくは吉子(よしこ)であったろうといわれています。
ただ、この時代官位を持つ女性たちは、本名ではなく、官位などで呼ばれるのが慣例でした。
もっとも位の高い女性は、いうまでもなく天子様の正妻である「皇后」です。
次いで中宮(ちゅうぐう)、妃(きさき)、女御(にょご)、更衣(こうい)と続きます。
このうち「女御」までは、部屋が与えられましたが、「更衣」は大部屋暮らしです。
ただ、さすがに我が国の中世というのは思いやりがある時代だったのだなあと思えるのは、「更衣」たちは、なるほど大部屋暮らしではあるけれど、その大部屋の中を屏風や几帳などで三畳間ほどの空間に仕切り、そこを自分たちの部屋のようにしていました。
その仕切られた区画のことを「町」といい、「◯◯町」という名称も、実はここからきています。
ですから小野小町というのは、小野家から宮中にはいった後宮の女性で、身分は「更衣」で、大部屋で小さな「町」をつくって暮らしていた女性、となります。
その小野小町は、たぐいまれな美人で教養にあふれた才女であり、多くの男性たちから恋文を送られ、その恋文を、ある日、小野小町みずから、京の都の山科(やましな)にある随心院というお寺に埋めました。
その埋めた場所が、小町文塚として、いまも残っています。

そしてここではいまも毎年3月に、小野小町ゆかりの「はねず踊り」が行われています。
ちなみに「ねず踊り」ではありません(笑)
さて、この小野小町が残した有名な歌が、古今集から百人一首に紹介された次の歌です。
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
通釈は、「空から雨が降ってる様子を眺めている間、自分がいたずらに時を過ごしていたその間に、花の色は褪(あ)せてしまった」とされているようです。
これだけ聞いたら、気がつけばいいかげんおばさんのになってしまった小野小町が、私だって昔は美人だったのよとでも言いたげな歌に聞こえます。
けれど、いつも言うことですが、和歌というものは、本当に言いたいことはグッと握って話さない。
読み手にその心を連想させ、その連想の広がりが広ければ広いほど、良い歌とされるものです。
ですから、小野小町のこの歌が、古今集からさらに百人一首にまで引用され多くの人々に愛されたのは、ただ「おばさんになって、あたしも色あせてしまったわ」などという、そんな中途半端な歌では決してないし、そうとしか読めないなら、あまりにも寂しいと思うのです。
この歌をねず流で解釈すると、まず、「花の色」の花は、この時代、主に桜をイメージしています。
一義的には、なるほど桜の「色がうつりにけりな」という、その「色」とは、色彩そのものであると同時に、カタチあるもので、桜は、華やかに咲いて、あっという間に散っていくところに、ひとつの美学がありますから、「花の色はうつりにけりな」で、「咲いた桜も散っていく」。
「いたずらに」は、「気がつけば」ですから、「気がつけば桜の花も散っていくわ」となります。
「わが身世にふる」は、「ふる」が「降る」で、雨が降る「降る」ですから、自分の身と、世の中に降る雨を「眺めせし間に」です。
ただ、注意したいのは、「花の色」が褪せたり、花が散ったりと書いていないことです。
「花」をあえて「桜」と特定せずに、単に「花」と呼んでいる。
ということは、季節に応じて、色やカタチのことなる花が咲いているわけです。
そして、「いたずらに」は、「時を過ごしてしまった」という意で、降る雨は、涙でもあるわけです。
そうなると、通解すれば、
「降る雨を眺めている間にも、季節ごとに様々な花が咲いては散っていきます。咲く花ごとに、たくさんの恋が芽生えては消えて行きます。わたしもいたずらに年を重ねてしまったけれど、また我が身を焦がすような恋をしてみたいものだわ」という意味となるものと思います。
いくつになっても、恋する心を忘れない。
その恋は、いくつになっても、女性を美しく輝かせます。
ですから、美しい小野小町は、また、いくつになっても、恋するトキメキを忘れないういういしい心を持つ女性でもあった、その心が託された歌が、この歌の心であろうと、思います。
申し訳ないが、いくら若い頃美しても、年をとって心身共に色あせてしまったら、もはや美人とは呼ばれません。
百人一首が、この歌を、天下第一の美人の歌として選んだのは、小野小町が、単に若い頃美人だったというだけでなく、いくつになっても、心の若さと恋するトキメキを忘れない女性であったからこそ、なのではないかと思います。
本当の美人とは、単に若さだけが美人の要件ではない。
年を重ねても、心の美人は、むしろ年を重ねることによって、ますますその心の美しさに磨きがかかる、そして恋する心やトキメキは、年齢に関わらず女性を輝かせる。
そういう歌だからこそ、この歌は、数ある名歌の中でも「百人一首」に選ばれ、千年以上の長きにわたって、多くの人々に愛され続けた歌になったのです。
小野小町の歌で、もうひとつ。
いろ見えて
うつろふものは世の中の
人の心の
花にぞありける
これは通解では、世の中の人の心なんてものは、みるみる変わって行くものだとい意味とされています。
けれど、よく読めば、「色=空(色即是空、空即是色)」ですから、「世の中の人の心なんてものにはカタチなんてないものだけれど、カタチがないからこそ『花』なんだよね」という意味になります。
そしてその「カタチのないもの」を愛する心こそが、美しさといえるものなのではないか、そんな意味が込められた歌と読めるのです。
まだあります。
うたたねに
恋しき人を見てしより
夢てふものは
たのみそめてき
うたた寝してたら恋しい人の夢を見ました。夢は頼りなく儚(はかな)いものだけれど、その人の夢をみることを頼みに思う(夢で遭いたいと願う)ようになりました、というわけです。
若い頃なら、逢いたいと思う人には、ある意味、簡単に逢うことも可能です。
けれど、年を重ねて来ると、様々な制約のもとで、逢いたいと思う人になかなか遭えなかったりする。
そんな逢いたくても逢えない人に、夢で逢おうとする女性の心。
はかなくもあり、また情熱的でもある、そんな女性の想いを、この歌はとても格調たかくあらわしているように思えます。
これが92歳まで生きたとされる小野小町の歌なのです。
いくつになっても、恋する心を忘れない。
そういう、実年齢にかかわらずいつまでも輝きを失わない、あるいは美しいままで輝きを放ち続ける小野小町の心が、まさに日本を代表する美女として、小野小町が千年以上にわたって賞賛され続けた理由なのです。
世に「傾国(けいこく)」とか、「傾城(けいせい)」とされた女性は、数々います。
世界各国で、美女と賞賛された女性の多くは、若くて美しくて、そのあまりの美しさゆえに、国王や武将の心をとらえて放さず、ついには猛将と呼ばれた男でさえも、その美女のために国を滅ぼしてしまう。
だから「傾国」です。
トロイのヘレネしかり、楊貴妃しかり、クレオパトラしかりです。
けれど日本における美女は、単に若さとか美貌だとか、スタイルが良いということだけを問題にしたものではありません。
それ以上に、年輪を重ねるごとにますます磨かれ、完成されていく人間としての心根の美しさを失わない、若さとか、スタイルの良さとか、見た目の美しさだけじゃない、そういう輝きを持った心をこそ、私たち日本人は、千年以上もの昔から、美女として大切にしてきたのです。
なぜそう言えるのかといえば、それこそ「花の色はうつりにけりないたづらに」です。
美しさを単に「見た目」の良さでしか考えようとしないと、「花の色はうつりにけりないたづらに」の歌も、単に「おばさんになって色褪せた」としか解釈できなくなってしまうのです。
そうではなくて、「いくつになっても、恋する心を忘れない」、そういう心の輝きを大切にする。
それが日本の古典文学の特徴であると思うのです。
衣通姫が心中したのは、いまでいったら中年になってからです。
若い頃の慕情を、いくつになっても忘れず、最後には愛する人と死んでまで想いを遂げる。
あるいは藤原道綱母は、子を設け、母となり、愛する人が摂政となって、忙しい日を送り、逢うことさえもなかなかできない寂しい日々を送りながらも、たぎる心を失わず、愛する人を一途に思う心を詠んだ歌がたくさん残されています。
この時代は、まだ化粧品も発達していず、ほとんど素顔のままで生きた時代です。
人間、どんなに美しい女性であったとしても、寄る年波は、美貌もスタイルにも老いを迎えます。
けれど、いくつになっても、またどんなに年を召されても、逆にいえば、年輪を重ねるごとにますます輝きを増すのが、人の心というものです。
そして、たとえいくつになっても、その心の輝きをもつ人は、男でも女でも、人として美しい。
ですから日本三代美女は、ただ見た目の美しさによる美人ということではなくて、見た目以上に心が美人だったからこそ、時代を超えて、美人と呼ばれ続けきたのです。
つまり、そこに我が国の精神性を重んじる文化のたいせつな部分がるのだと思うのです。
実際、たとえば参議院議員の中山恭子先生、あるいは先般の東京五輪招致にあたってスピーチをされた高円宮妃久子様など、まさに衣の下からさえも輝きを放つと形容できるほどのお美しさをもっておいでです。
そしてその美しさは、人としての心から発する美しさであろうと思います。
単に肉体美を競う美人ではない。
心の美しさこそ大事とする。
人としてそのように美しく年輪をかさねていくことこそ、幸せなことなのではないだろうかと思います。
女性のことから書き出しましたが、男でも同じです。
40歳を過ぎたら、男は自分の顔に責任を持てといわれます。
いくつになっても、老いてさえも心の輝きを失わない。
日本三代美女は、美しい女性たちですが、同時に、年輪を重ねても心の輝きを失わない、そういう女性を理想とした日本社会をも象徴しているのだと思います。

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