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みたままつり0714

先日、東京レンボーブリッジのことを書きましたが、そこで出て来る「江戸」という言葉。
この江戸という地名は、実は、徳川家康の旗印から来ています。
もちろん江戸氏の居たエリアということもありますが、その地名をそのまま家康が活かしたという意味においてです。
家康は、旗印に「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」と書きました。
浄土宗の概念ですが、一向宗との対立を避けた家康は、その一向宗の標語をそのまま旗印にしました。
そして家康は関東に入り、武蔵の國に築城し、江戸に幕府を開きました。
要するに徳川幕府は、武蔵幕府でもよかったのです。
それをあえて江戸幕府としたのは、江戸が穢土(えど)につながる用語だからです。
穢土とは穢れた世界をいいます。
現世のことです。
家康は、自分の拠点を「現世・現実」の政治を執り行なうところ、としたわけです。
ちなみに、江戸が穢土(現世)なら、来世と過去世もあるはずです。
実は、それもちゃんとあります。


来世は、浄土です。
浄土は暖かで日の光の満ちた世界です。
ですから「日光」です。
家康は、自分の死後、その墓を日光(浄土)に埋葬しました。
では過去世はというと、それが京都です。
なぜ京都といえるかというと、過去と現在を結ぶのは、東海道五十三次です。
五十三というのは、華厳経に出て来る善財童子に由来する数字です。
善財童子は、文殊菩薩の指示で53人の賢者を訪ねて修行を積み、最後に普賢菩薩のところで悟りを開くのです。
つまり、過去から現在への流れは、悟りを開くための道程であり、そのため東海道は江戸日本橋から京都の三条大橋までの53次とされたわけです。
ちなみに、京都からは「京街道」となりますので、大阪日本橋は東海道筋ではなく、京街道筋にあたります。
こうした町づくり、街道作り、あるいは墓作りは、家康は天海僧正と相談して決めたといわれています。
僧・天海は、天台宗の僧侶です。
天台宗は法華経です。
ところが上に述べた町づくりや街道作りは、浄土宗の教えに従っています。
理由は、家康自身が信仰したのは天台宗(法華経)だったけれど、徳川家先祖代々の宗派は浄土宗だったからです。
家康は、天台宗に改宗しようとして天海僧正に相談したそうですが、天海は同じ仏教だから先祖の宗旨を大切にしてくださいと述べ、家康の改宗を拒否したのだそうです。
もっとも、自分の居城であり、日本の政治の中心となる江戸を、現実の世「穢土」と命名したくらいですから、家康の思いの中には、先祖伝来の宗旨を、自分の代で変えてしまうのは、世の中に混乱を招くと配慮したのかもしれません。
そして実はこのことは、実におもしろいことを示唆しています。
というのは、江戸時代のはじめ頃の家康の時代には、家が代々浄土宗である家康が、浄土真宗(一向宗)との対立に頭を痛め、ついには一向宗の旗印を自らの軍団の旗印とし、さらには知行地とした武蔵の國(現・東京都)に築いた町を穢土城、都市の名前を穢土にした、しかもそうした命名等にあたっては、天台(法華宗)の僧侶と相談して決めた、というのです。
法華宗が信仰するのは、妙法蓮華経の釈迦如来です。
一向宗が信仰するのは、阿弥陀教の阿弥陀如来です。
信仰の対照がまるで違います。
にもかかわらず、この二つが家康なかでごちゃごちゃになって混在していて、それがまたごく自然に世間に受け入れられているのです。
本来法華宗は、妙法蓮華経以外の一切の価値観を認めない排他的一神教です。
比叡山延暦寺は比較的寛容な多神ですが、浄土真宗(一向宗)になると、阿弥陀如来を唯一絶対神とする、これまた排他的一神教となります。
つまり、法華宗と一向宗は、それぞれ一神教に近くて、しかも互いに信仰する神様が異なります。
ところが日本社会では、この両者が渾然一体となっています。
これはいってみれば、代々キリスト教を信仰する国王が、イスラム教の大僧正を顧問にして、種々の方策を立てたようなものです。
こういうことは、おそらく西洋ではあり得ないことです。
いまも、イスラム教とキリスト教は、互いに対立し、その対立が原因で度々戦争が起こり、また武装ゲリラの蜂起が度々起こっています。
2001年に飛行機で世界貿易センタービルに突入した911事件のアルカイダ、湾岸戦争、いずれもイスラムとキリスト教の宗教上の対立が背景となっています。
そもそも、一神教というのは、ただひとつの神しか認めないのです。
ですから、異なる神を信仰することは邪教に染まるということです。
邪教に染まっては、神を信じたことになりません。
なので一神教の信仰の道は結構たいへんです。
ですから日本でも、同じく一神教である一向宗と法華宗は、もともと犬猿の仲で、重大な衝突事件も起こしています。
その代表例となるのが、「天文法華の乱」です。
これは一般に用いられる通称で、日蓮宗側では「天文法難」と呼んでいます。
天文年間とえいば、種子島に鉄砲が伝来し、ザビエルが日本にキリスト教を持って来た頃ことです。
当時の京都は日蓮宗(法華宗)の大本山である本圀寺(ほんこくじ)を中心に、法華経信仰が町衆の大半に浸透していました。
天文元(1532)年、この法華宗の信徒たちが、細川晴元、茨木長隆らの軍勢と手を組んで、山科にある一向宗の本願寺を焼き討ちし、全焼させ、さらに一向宗を信仰する人々を、京都の町から追い出してしまったのです。
いま本願寺は摂津の石山にありますが、もともと京都にあった本願寺が、摂津の石山に移転したのは、このときの焼き討ちが原因です。
こうして勢力を得た京都法華宗徒たちは、市中で自分たちの住居などの地代家賃や、税の支払さえも拒否し、京都市内にいわば法華特区のようなものを形成しました。
それから5年が経過した天文5(1536)年になると、京都法華宗はさらに勢力を拡大し、2月には比叡山延暦寺に宗教問答を呼びかけて、ここで信徒代表の松本久吉が、比叡山西塔の僧侶・華王房を論破してしまいます。
当時の比叡山は、我が国きっての仏教の総元締(表現が悪くてごめんなさい。一向宗を開いた親鸞も日蓮宗の開祖の日蓮も、みんな延暦寺で学んだ僧侶なのでこう書きました)です。
面目を潰された延暦寺は激怒し、京都法華衆の撃滅を決議します。
なにせ当時の仏教勢力というのは、いまどきの我々が持っているような平和的友好団体ではありません。武装した僧兵を抱えた思想軍閥です。
その軍事力は、対立する宗派を攻め滅ぼし壊滅させ、また自分たちの既得権益を主張し、守り、拡大するためのものです。
それでも比叡山は、まずは室町幕府に対して、京都法華宗が法華経信徒を名乗るのを止めるよう裁判を申し立てます。
ところが意に反して、室町幕府は比叡山側を敗訴させてしまうのです。
なぜそんなことが起こったかというと、当時、武装して過激な行動に及んでいるのは京都日蓮宗側だったわけです。
当時の室町幕府は、たいへんな弱腰政権の事なかれ主義でしたから、何かとウルサイ京都日蓮宗側の、「我々は後醍醐天皇の勅許を得ている」という主張を入れてあげるから、すこしはおとなしくしなさい、としたわけです。
ところがこうした底の浅い姑息さは、往々にしてかえって裏目に出るものです。
京都法華宗は、武力対決を止む無しと、京都市内の要所要所に溝や防塁を築いて、戦いに備え出したのです。
比叡山側は、まず書面をもって、京都洛中洛外に21件ある日蓮宗の寺院に対して、延暦寺の末寺になるように迫りました。
「末寺になるように迫る」というのは、自分たちの住居の地代家賃さえも払わない京都法華宗徒に対して、末寺として上納金を支払え、という意味です。
当然、京都日蓮宗側これを拒否します。
そしてこの拒否の事実をもって、延暦寺は後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求め、さらに他の宗派である園城寺・東寺・興福寺・本願寺などにも討伐軍参加を求めます。
いずれも援軍は断わりますが、中立を約束します。
そして近江の六角定頼の援軍を得て、僧兵と六角勢、合わせて6万の軍勢を揃えた延暦寺は、7月22日早朝、京都の三条口と四条口から京都市中に攻め込みます。
そして27日までの戦闘で、京都市内の日蓮宗寺院二十一本山をことごとく焼き払いました。
この戦いによる法華宗側の死者は3千人とも1万人とも言われ、また京都は、下京区全域と上京区の3分の1が焼失しています。
比叡山をめぐる戦闘としては、信長の比叡山焼き討ちが有名ですが、『信長公記』に「逃げ惑う僧侶、学僧、上人、児童は見つけ次第捕えられ、首をことごとく刎ね、目も当てられぬ惨状」と記されたこの焼き討ち事件でさえ、死傷者数は比叡山側1500名程度です。
逆にいえば、「天文法華の乱」における戦いや掃討戦が、いかに凄まじいものであったかが伺えます。
日本国内にあった宗教戦争としては、最大のものが寛永14(1637)年10月〜寛永15年2月に行われた島原・天草の乱があります。
これは天草四郎に率いられたキリスト教徒信徒と、お家が改易となって浪人し、再び乱の起こることを期待する武士たち、重税に苦しむ民百姓ら3万7000人が武装蜂起し、全滅した事件です。
この事件での事情も、実に複雑に絡み合ったものではありますが、やはり根底にあるのは、唯一絶対のたたひとつの神への信仰が母体となっています。
世界史のなかにある戦争の歴史は、その多くが宗教上の戦争です。
そして世界の多くの宗教による戦争が、殲滅戦となり、きわめて残虐な殺人が、それこそ何万、何十万、何百万という単位で行われて来ました。
有史以来、宗教上の戦争によって殺された人の数は、もしかするといまの世界の人口を上回るかもしれない。
そして日本でも、やはりこうした宗教上の戦いは、現実に起こっていました。
古くは6世紀の蘇我氏と物部氏の戦い、繰り返し行われた一向一揆、上にご紹介した天文法華の乱、島原の乱等々です。
ちなみに、信長の比叡山焼き討ちや本願寺攻めは、宗教戦争ではありません。
これは純粋に軍事的行動であって、宗教そのものを弾圧したり禁教したりするものではありません。
これに対して法華宗の乱や、島原の乱は、禁教との戦い、世界史に登場する宗教上の戦争と同様な、信仰の戦いとなっています。
そして、宗教上の戦争というものは、排他的一神教が、他の一神教とぶつかったときに、悲惨な状態で発現するといえます。
一神教では、神はひとつです。
それ以外の神の存在を認めません。
このことは、言い方を帰ると、単一の価値観以外には一切認めないということです。
そしてその単一の価値観以外のものは、すべて敵対する邪教となります。
ですから邪教からは、そこから引き離して自分たちの宗旨に衣替えしてもらうか、そうでなければ、叩き潰すという二者択一しかありません。
そして自分たちの信仰する宗派や神様の危機となれば、老いも若きも、男も女も、全員が手に武器を持って信仰のために命を投げ出して殺し合う。
他に選択肢がないのです。
そして身内が殺されれば、報復が行われます。
こうして殺し、殺されというエンドレスな戦いが続きます。
ところが日本には、キリスト教もはいってきたし、仏教もはいってきたし、その仏教の中の特別な神様だけを信仰する一神教的仏教もはいってきたし、ラマ教や、道教なども形を変えていろいろと入って来ていて、最近では、イスラム教やヒンズー教まで入り込んできているけれど、歴史のなかで、天文法華の乱や島原の乱といった、ごく一部の例外を除けば、宗教上の戦争はほとんど起こっていません。
それどころか、冒頭にある家康の江戸、穢土や、日光、五十三次などは、浄土宗の教えと天台の教えがごちゃまぜです。
そしてそのごちゃまぜでいることに、誰も不信感など抱かないし、疑問さえももたない。
ごく自然に、「いろいろな考え方のなかのひとつ」として、みんながすんなりと受け入れてしまっています。
これは日本が、八百万の神々の国であることによります。
八百万の神々というのは、ひらたくいえば、八百万の価値観ということです。
多様な価値観を、まるごと受入れてしまう。
そして、そこからまずは、互いに仲良くできる接点を探そうとする。
ガリレオは天動説を唱えてローマ教皇庁から終身刑を言い渡されたりしていますが、もしこれが日本なら、天動説と地動説双方の対立について、多くの人は「おもしろい!」と興味津々となるだけのことです。
なぜなら日本は八百万の神の国、多様な価値観を渾然一体として容認できる国だからです。
そして仏教にせよ、他の渡来宗教にせよ、あるいは漢字や儒学等にせよ、これが国風化したときに、はじめてそれは日本国家のものとなり、人々に愛や平和や、ほんとうの意味での安心をもたらすようになったのではないかと思います。
明治以降、日本にはたくさんの欧米文化が入り込みました。
その中には、自由だとか権利だとか、神や宗教という訳語(おどろくべきことに神や宗教も明治以降の訳語です。それ以前の日本にそういう概念はありません)もあれば、民主主義や共産主義のような理念もあります。
ただ、間違ってはいけないのは、それらは、特に西洋文化やChina(最近ではKoreaも)などの文化は、すべてその基本には、排他的一神教的思考、いいかえれば単一の価値観以外はすべて悪と決めつける思考が、その根っこにある、ということです。
ですから多くの日本人にとっては、民主主義という神様や、自由主義という神様、あるいは共産主義という神様だけが素晴らしい、それ以外は一切合切、ダメな神様だという思考は、かなり異質な感じを伴います。
そして異質だからこそ、それを信じてしまった一部の人たちは、社会から排斥されたと思い込み、逆に結束して、自己中心的な思考に凝り固まって行くような気がします。
ですから思うに、左巻きという神様を信じてしまった人も、特定の宗教の特定の神様を信じてしまった人も、戦後教育という神様や、反日という神様に染まってしまった人も、誰もが一度、そうした自分が信じる神様以外にも、違う神様がいるということを、誰もがもういちど認めてしまったらどうかと思うのです。
だって、それが日本という國です。
八百万の神様の國です。
いろいろな価値観の「いいとこどり」でいいじゃないですか。
価値観なんて、みんながより良く生きれるためのものでしょ?
だったら、もっと気楽に、何が正しくて何が間違っているかではなくて、何がみんながよくなれる道で、なにがみんなを不幸にしてしまうのか。
そのあたりを、虚心に振り返ってみたらどうかと思うのです。
だって、江戸が穢土であるかないかなんていうことよりも、江戸に住む庶民が幸せに生きることができることのほうが、よっぽど大切なことだと思うからです。
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