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太政官札

江戸時代までの日本の暦は「陰暦」です。
これはお月様の満ち欠けを1ヶ月としたもので、一年が354日です。
ところが実際の一年は365.2422日です。陰暦だと11日ちょっと足りません。
ということはほっておくと、暦がだんだんズレてきて、夏であるはずの7〜8月が春や冬になったりしてしまいます。
暦は、季節毎の農作業の日程でもあります。
これがズレたら農産物の収穫に影響が出てしまう。
そんなことでみんなが食えなくなったら大変です。
そこでこのような暦のズレを防ぐために、陰暦にも「うるう年」がありました。
太陽暦の「うるう年」は、4年に一回、2月が一日増えるだけですが、陰暦は、1年で11日と誤差が大きいため「うるう年」は、月が増えます。
つまり、「うるう年」は、1年が13ヶ月になります。
実は、このことが明治のはじめに「大問題」になりました。


明治5(1872)年は、まさにこの、1年が13ヶ月ある「うるう年」だったのですが、できたばかりの明治政府は、お金がない。
お金がないのに、この年は、公務員の給料も13ヶ月分払わなくちゃなりません。
一方で、税収は翌年にならないと入って来ません。
それまで、予算をどうやってつなぐか。
そこで起死回生の秘策として出されたのが、暦自体を変えてしまうという荒技でした。
陰暦の明治5年12月3日を期して、太陽暦の明治6年1月1日にしてしまったのです。
おかげで、明治5年は、12月と13月の二ヶ月が吹き飛び、しかも悠々と翌年の予算執行をはじめることができるようになったわけです。
太陽暦の採用は、もちろん欧米列強に追いつき追い越せという中で採用されたものであるとともに、この「政府にお金がなかった」というところからの苦肉の産物でもあったわけです。
けれど、ここまでしても、まだ明治新政府の台所は苦しかったのです。
いまでこそ日本は経済大国だなんていっていますが、この時代、一年間の月数を変更しなければならないほど、国家財政は厳しかった。
一国の経済の繁栄も、豊富な国家予算も、「あるのがあたりまえ」ではなく、先人達の血の滲む努力の結果、いまの余裕が生まれているのだということを、やはり、私たち国民は理解しなければならないと思うし、子や孫の時代に、もっと大きな繁栄を手に入れる事ができるようにしていくのが、私たち、いまを生きる大人たちの役割だと思います。
ともあれ、明治のはじめ、なにせ何から何まで江戸時代の風習を変え、日本を一国として近代化するわけです。
それには大変な費用がかかります。
ちなみに、おなじ政権交替でも、江戸時代のはじまりは、様子がまるで異なりました。
当時の徳川家康は、外国人アビラ・ヒロンの「日本王国記」によれば「世界一の大富豪」だったわけであり、当時の日本の軍事力も、鉄砲の数、大砲の数ともに、まさに世界最強でもありました。
江戸時代のはじまりというのは、まさに、経済、軍事両面において、世界に冠たる日本であり、その状態で家康は日本を鎖国したわけです。
江戸時代は、国の内圧が高まり、まさに日本文化が凝縮され、高い次元に昇華した時代と言われますけれど、その理由が、世界最高の経済力、世界最強の軍事力、世界最善の道徳力を保持した状態で鎖国したことによっていたわけです。
ところが明治政府は違いました。
極貧政権からの出発です。
とにかく、やたらと支払が多いのに、カネがない。
で、すこし時がさかのぼるのですが、慶応4年(明治元年)、事務掛の三岡八郎(のちの由利公正)の建議によって採用されたのが、「太政官札(だじょうかんさつ)」です。
これは何かというと、いまでいうお札です。
江戸時代の通貨は、ご存知の通り、お札ではなくて金(gold)でできた小判です。
これは考えてみると実にすごいことで、江戸時代には、日本全国、武士や町人や農民たち、つまり普通の国民全員のポケットの中に、普通に小判という名の「金貨」が入っていたわけです。
こう聞いて、「いやあ、そんなお金を持っていたのは商人くらいだよ。国民の8割以上を占めていた農民たちは、搾取され、極貧生活にあえいでいたんだから」などと思う人がいたら、残念ながら戦後の左翼史観に汚染されています。
全国的に、お伊勢参りとか、金比羅参り、あるいは温泉旅館での湯治など、江戸時代にはたくさんの観光ツアーが行われていたことは、みなさまご存知の通りですが、その主役は農家のみなさんです。
ちなみにツアーも、この時代に存在したのは世界中で日本だけです。
全国で開催されるお祭りの屋台や山車、御神輿などの制作費・・・これだってものすごく費用がかかるものですが・・・やはり資金集めの主役はやはり農家のみなさんです。
武家は、こうしたお祭りなどに行くこと自体、贅沢だと禁じられいます。
というか、最初に、神輿をつくるためのお金とかを出していないから、正直なところは、やはり行きづらいです。
そんなわけで、実は、鎖国をしていた江戸日本は、支配層である武家よりも、庶民がお金をたくさんもって、豊かな生活をしていた国であり、しかも、世界の富(金)の3分の1を保有し、平民の誰もが、普通に金貨を手にすることができるという、世界一の黄金の国であったわけです。
黄金の国ジパングは、ダテじゃない。
ところがその黄金の国ジパングが、幕末の動乱の中で、短期間に銃や弾薬、大砲などの西洋式装備、あるいは次々と軍艦を買ったこと、武家だけではなくて、百姓町人からも民兵をいきなり雇ったこと、さらには金銀の両替相場のカラクリによって、金が国外に大量流出したことなどが重なって、超貧乏になってしまった。
あたりまえのことですが、お金は使えば無くなるのです。
そこで、金(gold)がないなら、かつての藩札のように、紙をお金にしてしまえ!というわけで、太政官札が発行されたわけです。
ちなみに、この発案をした由利公正は、坂本龍馬の船中八策の実際の起草者だといわれています。
ところが、この太政官札、まことにもって信用がありませんでした。
太政官札には、「一枚が小判1両にあたる」と、ちゃんと印刷されています。
裏に書いてある「通用13年」というのは、13年経ったら、ちゃんと小判1両と交換するよ、というような意味です。
つまり、本来的には、小判1両=太政官札1枚が等価のはずなのです。
にもかかわらず、実際の流通上は、太政官札100枚で、ようやく小判40両が交換相場となりました。
100両分の太政官札を持って行っても、40両分の買い物しかできないのです。
つまりそれだけ太政官札は、市場における信用がなかった、ということです。
その太政官札を発行しているのは、明治新政府です。
ということは、できたばかりの当時の明治新政府の信用は、徳川幕府を100点とすれば、明治新政府は40点だということです。
徳川政権が倒れて、明治新政府が誕生したわけですが、その初期の頃は、それだけ世間は、明治新政府を信用していなかったということですし、逆にいえば、明治新政府が、日本の政権として世間の信用を得るために、相当、襟を正して、国民が納得する良い政治をしていかなければならなかったのです。
このことは、あまり語られませんが、実に日本のスゴイところです。
世界では、王朝の交代や革命の後、前王朝や前政権の発行していた通貨は、価値を失って紙切れになります。
そして新たな王朝が、武力にものを言わせて、自分たちが発行する新通貨を無理矢理強制して流通させる。
これが世界の常識です。
ところが日本では、明治新政権が誕生した時点で通貨の信用は、徳川小判価値が無価値になるどころか、徳川小判方が値打ちが高かった。
そして明治新政権に対しては、40点の採点しかしていないのです。
ちなみに通貨の信用は、鎌倉政権、足利政権から、織豊政権、徳川政権、薩長政権と、ずっと続いています。
つまりこれが何を意味しているかというと、ふたつあります。
ひとつは、日本では古来、政治は王侯貴族のものではなく、民間のためにこそ政治があるのだという基本的意識が、国民の身分の上下を問わず、あたりまえの意識として、存在していた、ということです。そんな国は、世界中探しても、なかなかありません。
もうひとつは、ではなぜ幕府が足利→織豊→徳川→薩長と代わっても通貨が維持されたかといえば、それはこれらが支那風の易姓革命ではなく、あくまでもミカド(天皇)を中心とした日本という国の中における「政権交替」でしかなかったからです。
つまり、足利→織豊→徳川→薩長と代わる交代劇は、自民→民主→自民と続く政権交替、あるいは内閣総理大臣の交代劇でしかなく、日本と言う国は、基底のところでちゃんと維持され続けているということです。
そして日本における民は、すべて天皇の民であり、政権はその民のための政治をする存在であるとうことが、ごくあたりまえの常識として、古来日本に根付いていることを示しています。
これまた、日本だけです。
なぜなら、諸外国では古来、政治はあくまで政治権力者のものでしかなかったからです。
まあ、そんなわけで、明治新政府の発行する太政官札は、日本の政府の発行する政府でしたが、発行当初は、そうはいっても、信用の低いものでした。
けれど、その時代の変化を、ものの見事に読み切ったすごい人がいました。
それが、安田善次郎(やすだぜんじろう)です。
富山県の出身で、丁稚奉公から身を起こし、おもちゃ屋をはじめ、儲けたお金で26歳で日本橋に小さな両替商(金貸し)を始めました。
そして出来たばかりの明治新政府の太政官札の両替を始めたのです。
額面割れした太政官札を、手数料を受け取って買い取り、これを徳川小判に両替してあげる商売です。
これによって安田善次郎の手元には、安く仕入れた大量の太政官札が残りました。
そのままでは、安田善次郎は手持ち資金がつきて、破産です。
ところが、明治2年に、新政府が太政官札を額面でひきとると布告するのです。
おかげで4000円で仕入れたお札が、1万円に大化けしました。
坊主丸儲けとはこのことです。
善次郎は、巨万の富を得、明治13年にはそのお金をもとに、安田銀行を創立します。
これが後の安田財閥であり、富士銀行であり、いまのみずほフィナンシャルグループです。
安田善次郎は、東京大学の安田講堂、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などの寄贈をしていますが、当時はそれが安田善次郎の寄贈とは、誰も知りませんでした。
それが知れるようになったのは、善次郎が死んでからあとのことです。
「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」
善次郎の言葉です。
ちなみに、
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」という言葉も、安田善次郎の言葉なのだそうです。
時代の端境期には、価値観が変わり、そのなかでかつて繁栄を誇った様々なものが崩壊する一方で、新たに時代を担う人や組織が登場します。
明治維新の際の、三菱財閥、安田財閥などは、まさに明治新政府とともに、巨大な財をなしました。
戦後、こうした財閥が解体される中で、新たに台頭したのが、日教組(別称:朝鮮教組)であり、在日パチンコ利権であり、ソン・テジャクのソウカ学会であり、孫正義財閥(ソン・テジャクと何か関係?)なのかもしれません。
売国憲法のもとで、売国勢力が羽根を伸ばす事ができたという、日本の歴史始まって以来、初の異常事態が起こったわけです。
けれど、今月の参院選後、日本は大きく変わります。
というか、変えなければなりません。
その変える力は、みなさんのおひとりおひとりが持っています。
私は、中山恭子先生を応援します。
(21日は、護衛艦に乗せていただくことになっていますので、昨日、投票を済ませてきました。)
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【愛国者・中山恭子先生】後輩・黒田総裁にエール 平成25年3月28日

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