■ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
http://www.mag2.com/m/0001335031.htm

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

金原明善(きんぱらめいぜん)という人がいました。
静岡県浜松市の人です。
生まれは、江戸時代、天保3(1832)年です。
6歳から寺子屋に通いました。
惻隠の心は 仁のはしりなり
仁をなすには 身を殺すべし
義をみてなさざるは 勇なきなり
と暗誦しました。
当時は意味なんてわかりませんでした。
意味がわかるようになったとき、その言葉は生涯の座右の銘となりました。
明治元(1868)年5月、天竜川が大雨で決壊しました。
下流にある浜松、磐田(いわた)一帯が水没し、たいへんな被害となりました。
金原明善、36歳のときのできごとです。
住んでいる村を一瞬で流され、沈められてしまった金原明善は、この年誕生したばかりの新政府に希望を抱き、京都に上って天竜川の治水事業を民生局に陳情しました。
黒船来航以来、日本がひとつになるために、たいへんな乱が起き、ようやく新政府が発足したのです。
ところが、新政府はまったく相手にしてくれませんでした。
浜松は徳川家のお膝元です。
だから敵国視されました。
応対は木で鼻をくくったようなものでした。
8月に明治天皇の東京行幸が決まりました。
けれど浜松、磐田一帯は、まだ災害復旧もままならない状態でした。
そのため新政府は、突然手のひらをかえしたように、水害復旧工事に着手してくれました。
かつては、まさにこういうところが、日本の古くからの制度のすばらしいところでした。
天皇が行幸されたとき、地元がみっともない状態になっていれば、それはその地を治めている行政(施政者、権力者)の能力がないということを露呈したことになります。
そして当時の地方行政官、つまりいまでいう県知事は、中央からの派遣でした。
つまり、陛下が行幸なさるのに、瓦礫の山がそのままになっていたり、復興工事が未着手だったり、被災者の仮設住宅がみすぼらしい状態になっていれば、それはそのまま、県知事が無能を晒すことになり、更迭を免れないものだったわけです。
ですから、天皇行幸となれば、地域をあげて、道路も景色も、ピカピカに手入れされました。
東日本大震災後、陛下は何度となく、被災地入りをしておいでになります。
そこまで陛下にしていただきながら、瓦礫の山をそのまま手つかずにしている。
していて、それを恥とも思わない。
そういう、陛下を敬うという心のない者が、一人前の顔をして政治や行政を行えば、何年経っても、被災地はいっこうによくならないし、何も変わらない。
そういうことです。
戦前の日本を、ひたすらに悪し様にいう学者などがいますが、すくなくとも、被災地に陛下が行幸されるというだけで、官民あげて、必死になって被災地の復興努力をした昔の日本と、陛下が被災地に何度もはいられているのに、被災地を担保にして国からカネを引っ張り出し、そのカネが被災地復興とはまったく関係のないことに使われてしまう昨今の日本。
はたしてそのどちらが、私たち国民にとって良い国といえるのでしょうか。
さて、話を戻します。
天皇行幸を前にした復興工事で、金原明善は優れたリーダーシップを発揮しました。
その年の10月には工事の大略を終わらせてしまったのです。
その功績によって、明治天皇行幸の浜松行在所時に、金原明善は、苗字帯刀を許される名誉をいただいたのです。
さらに翌、明治2年には、静岡藩から水下各村の総代又卸蔵番格を申付けられ、明治5年には、浜松県から堤防附属、戸長役・天竜川卸普請専務に任命されています。
そして明治7年、金原明善42歳のとき、天竜川通堤防会社を設立し、オランダ人の河川技術者を招いて、天竜川上流の森林調査を行いました。
天竜川というのは、その名の通り、まさに天の竜があばれるかのように、ひとたび雨が降れば、下流の平野部を大洪水にしてしまう暴れ者でした。
なぜそうなってしまうのか。
川下の堤防建設もさりながら、そもそもどうして、雨が降ったらすぐに大水になるのか。
つまり、その原因を追及しなければ、抜本的解決にならない。
果たして、天竜川上流の山々は、まさに森が荒れていました。
「緑のダム」という言葉があります。
良く整備された森林は、降った雨を森林内に蓄えて、それを徐々に流す働きがあることを指した言葉です。
板の上の水は溜まって流れるけれど、スポンジがあれば、水を含んで溜めてくれる。
それと同じ理屈です。
森は、スポンジの役割をしてくれるのです。
ところがこのスポンジがスカスカになって荒れ果ててしまえば、森は貯水能力を失い、雨が降れば山の斜面の土砂まで一緒に、下流にこれを流します。
これが土石流です。
「この荒れた森をなんとかしなければ、天竜川の氾濫は止められない。」
明治10年、金原明善は、自分の全財産を献納する覚悟を決めて上京し、内務卿の大久保利通に、築堤工事実現のための謁見を求めました。
金原明善は、旧幕府方の農民です。
方や新政府のリーダーです。
身分は月とスッポンくらいの違いがあります。
ところが、大久保利通は、この会見に実に快く応じてくれました。
幕府領であることや、旧農民であることとは関係なく、長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している金原明善の噂を聞いていたのです。
こういうところも、まさに日本だと思います。
肩書きの如何にかかわらず、精進努力していれば、会うべき人は必ず会ってくれる。
それが日本社会です。
大久保利通は、明治新政府として、金原明善の全面的な後押しをしてくれることになりました。
近代的かつ、総合的な治水事業が始められることになったのです。
堤防の補強・改修、流域の全測量、駒場村以下21箇所の測量標建設、山間部の森林状態調査等々。。
さらに金原明善は、自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行いました。
森と水の事業は、世代を超えた大事業になるからです。
次の世代を育てなくちゃならない。
ところが治水事業が安定稼働しはじめ、ようやく堤防などが完成し、水害の問題が解決に向かい出した頃から、別な問題が発生しました。
人間です。
天竜川流域の住民たちが、利水権をめぐって争いだしたのです。
ようやく対処療法としての堤防建設が進み、いよいよこれから根治療法としての森林保護に乗り出すところでした。
まだ、天竜川対策は、道半ばです。
堤防工事だけでは治水事業は完成していないのです。
大雨が降って、万一堤防が決壊したら、ふたたび大水害が襲うのです。
けれど、住民の調整困難とみた金原明善は、明治16(1883)年天竜川通堤防会社を解散してしまいました。
争いを生むために治水事業をはじめたのではないのです。
明治19年、54歳になった金原明善は、たったひとりで、現在の龍山村の山奥にある、大きな岩穴で寝泊まりをしながら、山の調査を続けました。
どうしても、山間部の荒れ地に植林を行わなければならないからです。
そして山間部の750ヘクタールに、スギとヒノキ、あわせて300万本の植林計画を作成したのです。
植林事業は、苗木づくりから始まります。
つまり300万本の苗木つくりからスタートです。
そのために土を耕し、苗畑にスギやヒノキの種をまく。
苗ができるまでに2年です。
さらに、苗木を植えやすいよう、荒れた山を整地します。
そのあとに、いよいよ植林です。
苗畑で育てた苗木を植える。
手間のかかる作業です。
金原明善は、この植林のために全私財をなげうちました。
作業員の人たちと一緒に山小屋で暮らし、率先して苗木を担ぎ、急斜面に一本一本植えていきました。
利水権をめぐって争っていた人たちも、そんな金原明善の姿に、自分たちの争いの醜さに気付きました。
そして金原明善の姿を見た多くの人と浄財が、金原明善の元に集まりました。
たったひとりではじめた植林事業は、3年目には8百人を越える人で、山は大変活気に満ちるようになりました。
この間、雨で山が崩れることもありました。
暴風に叩きつけられ、育ちつつある苗木が根こそぎ倒れてしまうこともありました。
植えただけでは苗木は大きくなりません。
雑草を刈るための下草刈り、つるきり、枯れた箇所への補植など、次から次へと、息つく暇もない。
しかし「良い森林を作ることが、多くの人々の生命と財産を守るんだ」という金原明善の信念は、多くの協力者たちと、ひとつひとつ困難を克服していきました。
とくにこの、みんなの目先の利害が対立し、ものごとの本質、つまり水害そのものの起こらない町づくりという事業の本質が見失われたとき、すでに50歳の坂を越えていた金原明善が、たったひとりで森の調査に入り、たったひとりで300万本の苗木作り、その苗木を植えるための山の傾斜地の整備をはじめた、というくだりは、子供の頃の私にも、たいへんな感動でした。
そしてその感動のために、多くの人々がその植林に参加し、「ウチのひいおじいちゃんもやったんだって!」などという話がクラスの中で飛び交う。
教室は、そのとき感動の渦につつまれた記憶があります。
先般の国会予算委員会のときの中山成彬先生の慰安婦や南京問題に関する質問もそうですが、たったひとりでも正しいことのために立ち上がり、粛々とそのために努力をし続ける。
日本人は、右見て左見てとコミュニケーションをとても大切にする民族だといわれますが、そのコミュは、こうしたひとりひとりが精進努力して生きる、その精進と努力の総和であるということも、私たちは忘れてはならないことだと思います。
逆にいえば、そうしたきれいな心のつながりという土壌に、悪辣な自分の利益しか考えないような蛮族のケモノがはいっていくると、国はおおいに乱れる。
金原明善は、大正12(1923)年、92歳でお亡くなりになりました。
金原明善の行った治水・植林事業は、今もなお、遠州平野の水害を食い止め、浜松市の発展に寄与しています。
金原明善の治水事業の基本方針というものがあります。
ざっとご紹介しますと、以下のようなものです。
========
(1) 身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
(2) 事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。
そしてその事業が大きくなるに従って、資本は共同出資方式にならねばならぬ。
(3) 事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に俟たねばならぬ。
========
人と人。
権力や財力ではなく、人がその信念と努力によって人と結びつき、大きな事業を成していく。
その浜松市では、こうした金原明善の事績を含む、市の歴史を、「のびゆく浜松」という小冊子にまとめ、もう半世紀以上も、小学校高学年の副教材に活用しています。
私も子供時代を浜松で過ごしましたので、この「のびゆく浜松」で金原明善を学びました。
郷土を学ぶことは、郷土への愛とアイデンティティを育みます。
いまにしてみれば、とてもありがたいことだったと思います。
「のびゆく浜松」
http://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/shikyoi/1sosiki/shido/shidouka-jigyou/kyoiku-shido/nobihama/mokujisyou.html
ちなみに昔の「のびゆく浜松」は、まだ保守的愛国心がたくさんのこっていた時代だけに、この金原明善について、たくさんのページを割いていましたが、いまでは、本そのものは豪華になったけれど、中味が総花的になり、本全体を流れる思想も、故郷を知り愛郷心を涵養するという人間形成よりも、他の市町村よりもここが優れているんだといった闘争的な内容に変化してしまっているように思います。
おそらく編集者の姿勢か人柄、あるいは各方面からの圧力によるものだろうと思いますが、郷土愛というものは、土地同士の競争関係や上下関係を争うものではありません。
むしろ郷土を愛するという心が、人を愛し、街を愛し、国を愛する、人としてのやさしさや豊かな人間性を涵養するものです。
そういう意味では、「のびゆく浜松」がいまでも「ある」ということは、たいへん嬉しく思いますが、現在の「のびゆく浜松」は、内容的にたいへん残念なものに感じています。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

日心会メールマガジン(無料版)
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

拡散しよう!日本!
ねずブロへのカンパのお誘い
ねずブロで感動したら・・・・
よろしかったらカンパにご協力ください。
【ゆうちょ銀行】
記号 10520
番号 57755631
【他金融機関から】
銀行名 ゆうちょ銀行
支店名 〇五八(店番058)
種目 普通預金
口座番号 5775563
【問い合わせ先】
お問い合わせはメールでお願いします。
nezu@nippon-kokoro.com

