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米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機
義烈空挺隊03

一日遅れになってしまいましたが、5月24日は尼港事件があった日であるとともに、帝国陸軍の奥山道郎大尉以下の義烈空挺隊の勇士が、沖縄北と中飛行場を強襲し、散華された日です。
昨今の沖縄では、戦時中の沖縄戦において、本土は沖縄を見捨てたのだとか、あまりにも理不尽なデタラメのプロパガンタが横行していると聞きます。
ならば、戦艦大和はどこに向かおうとして沈んだのか。
特攻隊はどこを守ろうとして、敵艦ひしめく海に散ったのか。
今回の韓国からわざわざやってきた元慰安婦などもそうですが、こういうデタラメというのは、発言の端から次々に馬脚が出てきます。
嘘はほころびるのです。あたりまえのことです。


奥山道郎義烈空挺隊大尉
奥山道郎陸軍大尉

今日ご紹介する義烈空挺隊については、末尾に動画でご紹介しますが、奥山道郎隊長の声も、いまに残っています。
けっして男前というわけではありません。
どちらかというとぽっちゃりとしたお顔に、丸めがねをかけ、顔が大きくて肩幅が狭い。
けれどお写真を見ると、ぎゅっと真一文字に結んだ口元、大きなあご、そして小さな目と、その全身から浮かぶ、まるでほとばしるような熱い命の炎を感じ取れようかと思います。
しっかりとした信念を持った若者が、沖縄を守るために、仲間たちとともに、こうして見事に散華されたのです。
沖縄戦は、昭和20年3月26日から6月23日まで、約3ヶ月続いた戦いでした。
下の写真を見て下さい。
砲撃で蜂の巣のようになった沖縄
砲撃で蜂の巣のようになった沖縄-1

写真にみえる水たまりのようなものは、すべて砲弾の着弾跡です。
写真の上の方の林も、丸焼けになっています。
米軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただの爆弾ではありません。
火薬の中に無数の鉄片が仕込んでありました。
このため爆弾の炸裂や爆風による被害だけでなく、幼子を背負って逃げるご婦人の背後で砲弾が炸裂し、飛散した鉄片がその子の肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、我が子の首がなかった、そんな光景が日々繰り返されています。
昼夜を問わない米艦隊によるこの砲撃は「鉄の暴風」といわれました。
6月だけで、撃った砲弾や銃弾は680万発です。
当時、本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり約50発です。
沖縄を守る日本の軍人さんたちは、その危険極まりない爆風の中を戦い、また沖縄の民間の人々は避難したのです。
この、まるで嵐のような艦砲射撃が昼夜をわかたず繰り返され続けた沖縄ですが、その砲撃が、まるでウソのように、ピタリと止む瞬間がありました。
それは、どういうときだったのでしょうか。
上空に、日本の飛行機が飛来したときです。
特攻機です。
特攻機がやってくると、米艦隊の砲火は地上への砲火ではなく、対空砲火一色に切り替わりました。
その間に、地上にいる人々は、急いで防空壕を出て、さらに奥地へと逃げることができました。
そのときだけは、艦砲射撃は、沖縄の地面には飛んで来ないからです。
沖縄の人たちは、特攻機が飛んでくると、逃げながら走りながら、胸の中で上空のパイロットに手を合わせたそうです。
飛行機に乗っているのは、自分たちよりはるかに年下の、まだ十代の若い兵隊さんなのです。
その若い兵隊さんが、ほんの数機、ほんの数名で、海を埋め尽くす何百もの米艦隊に挑んでくれている。
絶対に生きて帰れる見込みがないのに、それでも立ち向かっていってくれている。
その若い兵隊さんのおかげで、自分たちは逃げれる。
それはいってみれば、子に戦わせて親が逃げる、そんな気持ちです。
だからこそ、沖縄の人たちは、逃げながら、心の中で手を合わせた。
同じ日本人だからです。
沖縄戦について、様々な評価があります。
けれどひとつはっきりしているのは、日本は沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけでは決してなかった、ということです。
すでに制空権制海権を奪われていた中で、それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいました。
沖縄戦が始まった十日後には、戦艦大和が出撃しました。
大和には、沖縄の女性たちに届けるための10万個の生理帯も乗っていました。
特攻機も連日出撃しました。
その特攻機は、戦闘機に爆弾をくくりつけたもの、重爆撃で出撃したもの、赤とんぼと呼ばれる練習用の複葉機で出撃したものなど様々です。
空だけではありません。
海上からも、小さなモーターボートに爆弾を装着した攻撃邸による特攻、さらには地上戦そのものでも、自分の体に爆弾を括り付けて、敵の戦車に体当たり突撃するといった、まさに命を的とした戦いが繰り広げられました。
そのことごとくが、沖縄を、そして祖国を守るための行動だったのです。
そういう、まさに命をかけて沖縄を守ろうとしてくれた同じ血を分けた先人たち、英霊たちの前で、私は、たとえ自虐史観とはいえ、よくもウソまで交えたデタラメが言えるものだと、震えが走るほどに怒りを覚えます。
5月24日がご命日となられた奥山大尉以下の空挺隊も、そうして英霊となられた方々のひとつです。
空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を強襲し、破壊するという特種任務を帯びた部隊です。
遮蔽物のない敵の飛行場のど真ん中に飛びこむのです。
そのために、猛烈果敢な激しい訓練を連日行います。
実戦となれば、生きて帰れる可能性は皆無です。
ですから死ぬために、日々、猛烈な訓練をする。
もっといえば、空挺隊の乗る飛行機は、速度の遅い爆撃機です。鈍足なのです。
従って、敵の猛烈な弾幕の中を、無事、敵基地のど真ん中に降り立てる保証もありません。
途中で、飛行機もろとも撃墜され、搭乗している空挺隊員が海の藻屑と消えることだってあるのです。
それでも、やるときにはやらなければならぬ。それが戦争です。
空挺隊は、最初から死ぬことを予定した部隊です。
ですから、陸軍は志願兵を募り、その中で家督を継がなければならない長男などは意図的に不採用とし、最終的に身体頑健な若者136名を採用しました。
昭和19年の終わり頃のことです。
義烈空挺隊奥山隊
義烈空挺隊奥山隊

空挺隊は当初、サイパン防衛を目標に猛訓練を繰り返しました。
けれど、突入前にサイパンが玉砕してしまいます。
そこで次には、硫黄島に突撃しようと準備を進めました。
けれど、これも立ち消えになってしまう。
そして昭和20年5月、空挺隊は、沖縄作戦に出撃することが決まりました。
空挺隊には、「義烈空挺隊」という名が付けられました。
出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、次のような遺書を三角兵舎内の隊長室で書き遺しています。
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遺書
昭和二〇年五月二二日
この度、義烈空挺隊長を拝命。
御垣の守りとして敵航空基地に突入いたします。
絶好の死に場所を得た私は、日本一の幸福者であります。
只々感謝感激の外ありません。
幼年学校入校以来12年諸上司の御訓戒も今日のためのように思われます。
必成以って御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
拝顔お別れ出来ませんでしたが、道郎は喜び勇んで征きます。
二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。
お母上様  道郎
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遺書に、「幼年学校入校以来」とあります。
陸軍幼年学校というのは、旧制中学一年または二年で就学する超難関校です。
全国から学業優秀、身体頑健な選りすぐりの少年が集められ、徹底した英才教育が行われる学校です。
ですから当時は、陸軍幼年学校に入学できたというだけで、地元の名士だったし、地元のみんなの誇りでした。
そして幼年学校に入校した者は、その地元の誇り、地域のみんなの誇りを背負って学校に入校したのです。
このことは、親の身になってみれば、これほど嬉しいことはなかったのです。
自分の産んだ子が、日本を代表するエリート、ただ勉強ができるだけじゃない、体も心も頭脳も、すべてが飛びっきり優秀と認められたということでもあります。
親として、これほど嬉しいことはない。
ですから、入学した本人も、親も、そして地域のみんなも、陸軍幼年学校卒というのは、まさに誇りだったのです。
奥山隊長にとっても、陸軍幼年学校出身であるというこは、まさに誇りでした。
そして陸軍幼年学校入学から12年、まさに祖国を護ることだけを使命感として、心身を鍛え上げてきた、それは、まさに空挺隊として命を捧げるその日のためだったと、彼は遺書にしたためています。
でも、死ぬのです。
死ぬ前に、生きて、一度でいい。母の顔を見たい。
奥山隊長だって、人の子なのです。
けれど、そのチャンスを得れないまま、彼は出撃します。
「拝顔お別れ出来ませんでしたが、道郎は喜び勇んで征きます。二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。」
どれだけ強く母を慕っていたか。
その気持ちが、「お詫びいたします」のたったひとことの中に、万感の思いとともに凝縮されている。そんなふうに私には読めます。
奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしい若者でした。
西郷さんを思わせるような堂々たる風采です。
しかも明るい。
伸び伸びした、誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望も厚い方です。
義烈空挺隊の136名は、昭和20年5月24日の夕方、熊本の「健軍飛行場」から12機の九七式重爆撃機に11~2名ずつ分乗して飛び立ちました。
途中、4機がエンジントラブルで基地に引き返しました。
残り8機で米軍基地に突入しました。
6機が、米軍に占領されていた沖縄の読谷飛行場、
2機が、嘉手納飛行場でした。
時間は、夜の22時11分のことです。
読谷飛行場では、基地上空に突入した6機のうち、5機が、激しい対空砲火によって撃墜されました。
残る1機は、機体を対空砲火によって穴だらけにされながらも、滑走路に胴体着陸しました。
パイロットは着陸と同時に戦死しています。
何発も弾を体に浮けながら、それでも最後の最後まで操縦桿を放さなかったのです。
彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。
この強行着陸できた九七式重爆撃機に乗っていたのは、2名の操縦士と、12名の空挺隊員でした。
着陸までの間に、おそらく彼らも機体を貫通してきた敵弾のために、体の一部を吹き飛ばされていたことでしょう。
それでも彼らは、着陸した機体から飛び出すと、群がる敵兵と銃撃戦を繰り広げながら、駐機中の敵航空機33機を破壊損壊させました。
そして米兵20名を死傷させ、さらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させたのです。
たった12名の空挺隊員によって、読谷飛行場は約8時間に渡って、飛行場としての機能を完全に停止させられてしまったのです。
約2時間の戦いでした。
先日も書きましたが、銃撃戦というのは、普通1〜2分で終わるものです。実際に海外で傭兵として戦った経験を持つ人から、そのように聞きました。5分も続けば「今日の銃撃戦は長かったねえ」と後々まで語り草になる。
それだけの緊張感が続くものなのです。
それが、2時間。
空挺隊のメンバーの日頃の訓練の凄さがわかります。
戦闘が終わり、重傷で意識を失っていた一名を除き、全員が戦死されました。
空挺隊のメンバーは、出撃前、それぞれの隊員たちが乗る搭乗機の前で、ひとりひとりが、自分の故郷のある方角に向かって、深々と頭を下げています。
それは、自分を育ててくれた故郷への感謝であり、またその故郷を守るためという決意であり、育ててくれた両親へのお別れの挨拶でもあったことでしょう。
出撃前に故郷に礼をする空挺隊員たち
出撃前に故郷に礼をする隊員たち

彼らは出撃前に、血の出るような猛訓練を重ねました。
訓練して、訓練して、それでも足らずにまだ訓練しました。
それでも飛行中に7機が墜落し、4機はエンジン不調で帰投し、突入できたのは、わずか1機です。
訓練を重ねても、途中で飛行機そのものが撃墜され、敵陣に突入さえできないままに死を迎えることもある。
そのことを知っていながら、彼らは猛特訓を重ねました。
そして最後の最後まであきらめず、ようやくパイロットを含めた14名が米軍に占領された敵基地に突入し、およそ2時間の壮絶な戦いの上、基地を使用不能に破壊してました。
彼らは、なんのために戦ったのでしょう。
私は、沖縄戦の是非論を議論する気はありません。
そうではなくて、必死に戦い、散華された人たちの心を、歴史を、私たちは同じ日本人として、決して忘れてはならないと思います。
世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰します。
「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。
硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。
硫黄島は、米国領ではありません。
自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。
国防だけではありません。
永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。
戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐ。
それが、世界の常識です。
けれど、日本だけがそれをしていません。
その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。
日本を取り戻す。
戦後68年、反日であることを国是とした日本が、再び誇りある日本に生まれ変わるためには、まだまだ長い年月がかかるのかもしれません。
あきらめず、毎日コツコツと、それを積み重ねていく。
ウソは100万回重ねてもウソです。
けれど、真実はひとつです。
奥山隊長以下、英霊のみなさまに黙祷を捧げます。
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