■ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
http://www.mag2.com/m/0001335031.htm

人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

早朝の利根川2-1

冒頭の写真は、早朝の利根川の風景です。
場所は江戸川と利根川が分岐するところから、すこし下流に行ったところです。
昔は利根川は、関東をそれこそ暴れ回っていました。
それを江戸城開闢のときに、東京湾に注いでいた利根川を房総半島の北側の銚子へ逃がし、江戸市中には水を引くために利根川から分岐した新たな人造川として、江戸川を築いています。
写真に写っているのは、その利根川の堤防ですが、まだダンプカーも建設重機もなかった時代に、これだけ雄大ともいえる河川土木工事をやってしまった日本人、人力でそれを行ってしまった祖先達というのは、実に「すごい」と思います。


この利根川と江戸川の工事は、江戸時代に三代かけて工事が行われて、ようやく完成したものです。
埼玉県北足立郡伊奈町に、小室(こむろ)というところがあるのですが、かつてはここが小室藩で、伊奈一族が治めていました。
江戸開闢当時の藩主が伊奈忠次(いなただつぐ)で、当時、渡良瀬から、利根川とは別に江戸湾に流れる太日川(ふといがわ)という川があり、この川を利根川と接続することで、暴れ者の利根川の水を治めようとしたのです。
けれど、そういうことは、ひとつの藩が単独でできることではありません。
そこへちょうど徳川家康が江戸城を開くということになったことから、江戸を洪水から守ること、そしてまた関東一円の治水事業として、利根川と太曰川を接続し、新たな堤防工事を行うことなどを家康に進言、認められて工事に至ったわけです。
こうして現在の川の流れになるまでに、伊奈氏三代、そして堤防が洪水に耐えれるものになるまでに、さらに数代が必要だったのです。
人の一代というのは、およそ25年といわれています。
利根川と江戸川が、現在の姿になるのには、およそ8代200年の歳月がかかっています。
それを、江戸時代に、幕府や各藩藩主、武家、地域の人々が一体となって、実現し実行してしまったわけです。
利根川は、銚子方面に流されることによって、江戸中期には、千葉県の印旛沼の大干拓が行われました。
これにより、印旛の沼地が広大な農地となり、江戸庶民のお腹を満たす一大穀倉地帯となりました。
食料というものは、作っても運べなければ意味がありません。
印旛沼のお米は、船に載せられ、近くを流れる利根川まで運河で運ばれ、その利根川をさかのぼって江戸川に至り、そこから江戸川を下って江戸に運ばれたのです。
そしておいしいお米が安くたくさん、安定して得られるようになると、今度は、お米をもっと美味しく食べようと、銚子や野田に醤油屋さんが誕生しました。
銚子のヒゲタ醤油、野田のキッコーマン醤油などの創業です。
さらに、おいしいお米に醤油とくれば、酢飯に新鮮な魚を乗せた江戸前寿司
美味いシャリに、ワサビを効かせた新鮮なネタをちょいと乗せ、醤油をちょっとつけて口に放り込む。
寿司に、おいしい酢は欠かせませんが、この酢を開発したのが、文化文政年間の中野又左衛門。ミツカンの創業者です。
中野又左衛門が、酢をご飯にまぜたら寿司飯が簡単にできるよと説いてまわり、この話に乗って江戸前寿司を開発したのが、同じ時代に生きた、華屋与兵衛。
河川の護岸堤防工事が、沼の干拓、新田の開発、江戸の人口増加へとつながり、そこから酢や醤油が開発されて、寿司という文化が生まれる。
その寿司は、いまや、世界の「SUSHI」に育っています。
ひとつの河川工事が、洪水から地域を守るだけでなく、食の生産量の増大と安定的供給、そして関連商品の開発、さらに付加価値的商品の開発にまで結びつく。
治水事業は、ただただ治水だけにとどまるものではないということです。
河川をめぐる治水工事というのは、江戸時代、各藩の大名達の大きな仕事のひとつでした。
たとえば芸州広島藩では、広島という町自体が、太田川の氾濫によって生まれた三角州の上にある町で、昔は、大雨が降ればそのたびに洪水が起きて、何もかもが流される、そういう土地だったわけです。
それを福島家、浅野家の代々の藩主達が、広大な堤防を築き、洪水の心配のない町づくりをしてくれました。
おかげで江戸中期以降、広島には大規模な洪水がほとんど起こっていません。
全国どこでもそうですが、こうしたいまでは一級河川と呼ばれる大きな川に築かれた広大な堤防事業。
それを計画し、予算を組んで実行し、そこにおおくの人が働く。
私たちは、わたしたちのご祖先の努力のおかげで、いま、洪水の心配のない暮らしの安全と安心を手に入れています。
そして産業を発達させ、みんなの生活を向上させることができている。
Chinaにある万里の長城といえば、世界遺産としても有名です。
宇宙にある人工衛星からも見えると言われています。
総延長距離は約2万1千キロメートルですが、もっとも、よく万里の長城として紹介される建物建築としての長城は、6,259kmです。
これもたしかに偉大な建造物です。けれど日本の堤防だって負けてはいません。
日本は、一級河川だけで、河川の数が1万3,989本、その河川に築かれた堤防の総延長距離は約8万8千キロです。
日本の堤防は、なんと万里の長城の4倍、現存している長城の人口壁の14倍の巨大土木工事なのです。
しかもそれが民生用に、しかも奴隷的支配と隷属ではなく、みんなの意思と努力によって、行われているのです。
これはすごいことです。
一昨日、ご紹介したサウジアラビアの『ハワーテル・改善』という番組のリポーターのアハマド・アルシュケイリ氏は、日本を見て「すごぉい!」を連発していましたが、江戸期の治水事業によって築かれた広大な堤防を目にするたびに、私はまさに「すごぉい!」と思います。
けれど、こうして江戸時代に開発された全国の堤防も、いまだ、決壊することがあります。
ごくまれに、それこそ何百年に一度の大洪水が起きたときの対応には不十分なのです。
とりわけ近年では、「ごくまれに」と書きましたが、その「ごくまれに」が、「まれ」ではなくなってきています。
ゲリラ豪雨、爆弾低気圧などの集中豪雨です。
自動車のワイパーは、1時間の降雨量が50mmまでを想定して規格されています。
それを超える雨量になると、ワイバーを全開にしても、ドライバーは前が見えません。
ところが2006年に高知県室戸岬降った豪雨は1時間に149mmです。
1999年に千葉県香取市に降った雨は1時間に153mmです。
自動車のワイパーの規格の3倍もの雨が、いまや全国あちこちに降るようになってきているのです。
こうなると、一級河川等の堤防が、現在の様子で果たして安全と言えるかが問題となります。
そこで国が行っているのが「高規格堤防事業」の推進で、この建設には約400年の膨大な時間と12兆円を超える費用が必要とされという、壮大な計画です。
麻生内閣が倒れ、民主党内閣が誕生した4年前の選挙のとき、麻生太郎さんが街頭演説でしきりに強調されていたのが、このゲリラ豪雨被害の甚大さと、これに対する対策の強化でした。
まさに防災、減災のための具体的政策、そしてその政策は、そのまま国内の産業を活性化させ景気拡幅の起爆剤にもなる。
ところが麻生内閣は敗れ、民主党政権が誕生し、高度堤防工事事業計画は、2010年10月28日に、蓮舫女史の事業仕分けで、マスコミの大絶賛のもと、いとも簡単に廃止とされてしまいました。
ようやく保守政権にもどり、この堤防事業も、ふたたび俎上にのぼるようになったのですが、わからないのは、原発に対しては、何百年、何千年先を見据えた人々の安全な暮らしとエネルギーの安定的供給を主張する人たちが、こと治水事業に関しては、まったく何も語ろうとしないし、それどころか国の予算の無駄遣いだと否定するという点です。
この背景にあるのは、「いまさえよければいい」という戦後利権屋の思想と、自然と共生しみんなが良くなることを優先しようという日本古来の思想の対立のようにも思えます。
けれど私たちの祖先は、そういう目先の利益や損得だけに汲々とする人のことを、守銭奴といって軽蔑してきました。
そして長い目で見て、本当にひつようなことのために、たとえそれが自分ひとりの世代では実現できないようなことであっても、何代もかけて、これを実現してきたし、その証拠が、私たちの目の前に「巨大な堤防」という姿で、明確に見せてもくれています。
お子様などをお連れのときに、大きな川に架かる橋を通る機会があったら、そこから見える巨大な堤防、あれが江戸時代に「人力で作られたものなんだぜ」と、話してあげてほしい、と思います。
人間ひとりの力で、一度に運べる土砂の量なんて知れてます。
けれど、みんなで力を合わせ、何ヶ月も何年も、何十年も、何百年もかけてそれをやり続けて、あの巨大な堤防ができた。
そのおかげで、私たちの暮らしが守られている。
私たち日本人は、日本人の原点に帰って、もういちど日本を、未来を考えてみる必要があるといえるのではないでしょうか。
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。

外国から見た日本1

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ

コメントは受け付けていません。