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5月3日といえば、現・日本国憲法が施行された日です。
いい日を選んだものです。なにせゴ(5)ミ(3)の日です。
占領統治下の最高法規として制定されたこの憲法を、いつまでもありがたがっていてはいけません。
一日も早く、日本国民の誇りと正義と道義を取り戻した自主憲法を制定すべきです。
そして5月3日といえば、日本人として絶対に忘れてはならないのが、この日は、済南事件(さいなんじけん)のあった日でもあるということです。昭和3(1928)年のことです。
少し時をさかのぼります。
大正六(1917)年にロシア革命が起こると、世界を共産主義支配下に置こうとするいわゆる共産主義革命の嵐が世界を覆いました。
この影響で、支那では、共産主義者でもなんでもない、ならず者たちが、共産主義革命を標榜して徒党を組み、あちこちで乱暴狼藉をはたらくようになりました。
なにせ、共産主義に共鳴するという体裁をとりさえすれば、背後にいるソ連が、銃や実弾やカネまでも供給してくれるのです。
ならず者たちにとって、これほど都合のよいことはありません。
これによって、普通に生活をしようとする、支那にいる多くの庶民が犠牲になりました。
当時の支那は、明治44(1912)年に清王朝が倒れたばかりです。
同年1月1日に、南京で孫文(そんぶん)が中華民国臨時政府を樹立し、臨時大総統職に就任するのだけれど、軍事力の弱い孫文は、結果として北京軍閥の長である袁世凱(えんせいがい)に大統領職を譲り、大正5(1916)年には、その袁世凱が、中華帝国を名乗り、初代皇帝に即位しています。
ところがその即位も、内外から総スカンを食い、失意のうちに袁世凱が死亡すると、その後の支那は長く続く内乱の時代にはいっています。
そうした中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」です。
「尼港事件」というのは、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、支那人約四千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)にいた石田領事以下約七百名余の日本人居留民を虐殺したという事件です。
その様相は、まるで映画バイオハザードでゾンビの大軍に取り囲まれた少数の人間の戦いそのものです。衆寡敵せず、日本人居留民は極めて残虐な方法で全員殺害されています。
そしてこの事件で味をしめた共産パルチザンは、日増しに乱暴狼藉を激化させていきました。
そして満州においても、共産パルチザンによる、日本人への迫害や、鉄道への侵害事件などが激化して行きました。
当時の満鉄の、奉天鉄道事務所管内だけでも、年間の鉄道被害は30万件を越えています。
電話線を切られたり、線路をはがされたり、枕木を外して焚き木にされたり、挙げ句、日本の守備隊の軍人まで拉致され殺害される事件まで起りました。
日本総領事は、その都度「遺憾、厳重抗議」という「きまり文句」を口にしました。
けれど、そのような言葉だけの「遺憾」が、なんの効果もないのは、100年前も今もまったく同じです。
けれど、いまと違うのは、その「遺憾」や「厳重抗議」を述べなければならない案件が、昭和2(1926)年頃には、未済が370件もたまっていたのです。
そのくらい、被害が多発していたのです。
当時、満州には、日本陸軍の関東軍が駐屯していました。
けれど、軍は、国の命令がなければ動けません。
命令がない限り、軍は何があっても傍観しているだけです。
ですから満州の日本人会の人たちは怒りました。
ある会議のとき、青年連盟の岡田猛馬が言った言葉が「関東軍は刀の抜き方を忘れたか。腰の軍刀は竹光か!」です。有名な言葉です。
民間人が、軍人に対して、これほどまでにきつい言葉を吐くのは、おそらく日本に武人が置かれるようになった古代の昔から、史上初の出来事だったのではないかと思います。
それほどまでに、日本では、武人への信頼は厚かったのです。
岡田猛馬のこのときの発言は、感情的なヤジのようなものではありません。
まさに、血涙を流しながらの発言でした。
ですから、このように罵倒された帝国軍人の側も、その気持ちは痛いほどわかっていました。
ところが、です。
昭和2年頃というのは、大正デモクラシーの影響で、日本の思想界、言論界、政界、財界、メディアとも、極端に平和主義で反軍的だったのです。
この時期、国際連盟の平和思想や、欧米列強の軍縮の呼びかけなどの影響もあったものと思います。
ですからいまどきの、どこかの国とそっくり同じで、日本の軍隊の存在を、存在自体を悪だと決めつけるような風潮が蔓延し、むしろ日本の軍傭を縮少して、支那や欧米に対して、萎縮外交をせよとか、内需経済にこそ、歳費を注ぐべきだといった議論が、日本国内の主流をなす言論風潮だったのです。
おそらく、そこにはスパイ工作もあったものと思います。
実際、そうした日本国内の風潮を、日本の「弱味」とみた英米ソは、その魔の手を支那に差し伸べ、支那人をそそのかし、日本に対する露骨な排日侮日運動が行われていたのです。
もちろん、軍隊内部からも、また政友会や一部の新聞においても、満蒙の邦人擁護のために日本は軍事力を行使すべし、という主張する者もいました。
もはや平和外交では満州問題は解決しない、正義は力を振るってこそ正義となり、力なき正義は、悪徳に他ならないという主張もあったのです。
けれど、国論の主流は、相変わらず、尼港で700余名の邦人の命が、極めて残虐な方法で奪われたにも関わらず、腰が定まらない、でくのぼうのような平和主義が主流派をなしたままだったのです。
そんな時代背景の中で起ったのが、昭和3(1928)年5月3日の「済南事件」です。
済南というのは、山東省にある商業都市です。
日本人をはじめ、多くの外国人が居住していました。
その斉南で、支那の軍閥同士での、大規模な内戦が起こったのです。
日本は居留民保護のために、同年4月下旬に出兵しています。
派遣軍は城外の商埠地に戦いが波及しないよう、バリケードを築いたのです。
このとき南軍の総司令が蒋介石です。
蒋介石は、「治安は国民党軍が確実に確保するので、日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本に要請してきました。
目の前で戦いが行われているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、軍事的にはあり得ません。
けれど、現場は、中央の指示によってこれを受入れ、5月2日に、バリケードを撤去したのです。
そして事件は起こりました。
ことのおこりは、蒋介石の国民党軍の暴兵が、満州日報取次販売店を襲撃して掠奪を働いたことにはじまりました。
ここで注意したいのは、昨今の支那の反日デモのような「暴徒」ではなく、当時済南であったのは、武器を持った兵であったということです。
武器がなくても、あれだけ暴れ回るのが支那人です。
それが武器を手にしていたら、どうなるか。
暴兵たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
すると支那兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきたのです。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで、一斉に国民党兵による乱射や掠奪、暴行がはじまったのです。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
現に、そのすこし前の日に、国民党の総統であり、最高司令官である蒋介石みずからが日本軍の司令の前で、「済南の治安は国民党が守る、日本人は一切を国民党に任せて、バリケードも解いてよろしい、安全は自分が保証する」と約束しているのです。
ところが白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、支那兵は銃撃を加え、一方的に射殺しました。
市内全域は、たちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されたのです。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。

この事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が、凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けました。
当時の外務省公電にある公式文書です。
=======
腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
======
現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
======
予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
======
ちなみに上にある女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件の支那人被害者として流用し、展示しています。

731部隊記念館では蝋人形になって展示

デタラメもたいがいにしろと言いたくなります。
泥棒や強盗が好き放題に暴れ回っているなら、それが国内なら警察力を強化して防犯と取締にあたるのは当然のことです。
けれど警察というのは、日本国内の日本の国内法が及ぶ範囲でしか活動できません。
事件の起きているのが国外なら、そこに日本の法は適用されませんから、軍隊が治安を維持する他ないのです。
その軍隊の軍事力を、政治的に行使できなくしたらどうなるか。
泥棒や強盗などの凶悪犯の前で、警察官に丸裸になれと言っているのと同じです。
そして現実に起こった事件が、済南事件だったわけです。
尼港事件から斉南事件までの流れは、もし当時の日本が早期に徹底した武力を用いて支那の反日勢力に対して徹底的な弾圧と報復を行っていたら、事態はここまで深刻にならずに済んでいたものです。
なぜそういえるのかといえば、同じ時期、英米仏蘭独伊などは、支那人に襲われていません。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
彼らは、たったひとりでも自国民にケガ人が出ようものなら、徹底的な反撃と打撃を支那人たちに与えていたのです。
要するに、それ以前に尼港事件という凄惨な事件を経験していながら、さらに済南事件を招いたという日本の最大の失敗の原因は、「腰の軍刀は竹光か」とまで揶揄されながらも、平和ボケして悪を誅する心を失っていた日本政府の姿勢にこそあったといえます。
歴史はただ何年何月に何があったかという事実を知識として得るだけでは、意味がありません。
もし~だったらと、想像力を働かせて考える。
一度あった過ちを二度三度繰り返すのは、バカのすることです。
歴史にIFは禁物だといいますが、実はまったく逆で、歴史は想像力を働かせてIFを考えるから、そこに学びがあり、現代を生き、未来に間違いを起こさない知恵が生まれるのです。
済南事件は、事件そのものの悲惨さもさりながら、大正9年の尼港事件、昭和3年の済南事件という流れの中で、「同じことが二度繰り返された」という大失態を、なぜ日本は防ぐことができなかったのか、という大きな課題を私たちに投げてくれているように思います。
さらにいえば、済南事件のさらに9年後の昭和12年には、「通州事件」が起こっているのです。
ひとつの仮説として、清朝が完全に倒壊して、支那国内の治安が最悪の状態となったとき、日本政府は、支那にいる在留邦人全員の引き揚げを命じるべきであったのではないか、という考えもあります。
無政府状態の危険地帯なのです。
なるほど、当時、すでに支那で経済的基盤を築いている人や企業もたくさんあったことでしょう。
けれど、危険地帯であることを知って、なお、そこに居続けようとするなら、その人たちまで無理矢理日本に連れ帰る必要はありません。
現地で無惨に殺されても、それは本人の選択でしかないからです。
日本は、終戦時にほんとうに貧しい状態の中で、外地にいる邦人の帰還促進事業を行いました。
すでに日本に国力のなくなっていたときでしたから、そのとき多くの日本人が、朝鮮半島や支那で強姦や略奪の被害に遭いました。
けれど、それが終戦時ではなく、昭和のはじめの時点で先に行われていたなら、どうだったのでしょうか。
すくなくとも、尼港事件や済南事件は起こらず、その後の支那事変さえも起きていなかったかもしれません。
いま、支那国内では、さかんに反日暴動が起き、日本の商店や工場が襲われるという事件も起きています。
しかもその支那は、たいへんな公害状態にあり、空気も汚染されていれば、土地や河川、地下水までも汚染され、人が住める環境そのものが破壊された状況にあります。
いかに愚民政策をとり、支那人たちにデタラメな教育をほどこそうが、現実に生命の危険を支那の多くの庶民たちが感じ出してもいるわけです。
そして支那共産党政権自体が、いまや崩壊の危機にあるともいわれています。
もし、その共産党政権が倒壊したらどうなるのでしょうか。
あれほどの圧政を行った支那共産党です。
支那人の気質からみても、その倒壊時の反動もまた、凄まじいものとなることでしょう。
そしてその後に、安定した政権が誕生するまで、支那国内は完全な無政府内乱状態に陥る危険性さえ大いにあると言われています。
そのような支那に、日本人が工場を出し、あるいは商店を出店する。
そんな必要が、いったいどこにあるのでしょうか。
私にはまったく理解できません。
すでに人件費も高騰しつつある支那に工場を出すくらいなら、友好的な東南アジア諸国に工場や商店を展開した方が、よっぽど経済的だし、現地の人々も働き者だし、安心です。
なるほど上海の街並などを観ると、まさにそこは経済力のある大都会に見えます。
けれど、林立するビル群のほとんどが、外国資本です。
そして、よく見ると、工事途中で放置された高層ビルがたくさんあります。
その放置ビルのほぼ100%の施主は日本企業です。
米国資本のビルなどでは、そうしたケースはまず見られません。
上海の100階建てのヒルトンビルは見事完成していますが、なぜかといえば、米国企業は万一の場合、米軍という後ろ盾を持っているからです。
《参考記事》
出ました! 支那のお家芸!
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-23.html

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