
壇ノ浦の戦いは、旧暦ですと、元暦2(1185)年3月24日のことです。
壇ノ浦の戦いは、ご存知の通り現在の山口県下関市で行われた、源平合戦最後の戦いです。
この戦いで、栄華を誇った平家は滅亡に至りました。
このときの物語は、ねずブロの過去記事「源平桃と壇ノ浦の戦い」でご紹介させていただいているのですが、折角ですのでちょっと引用いたしますと・・・
治承4(1180)年に源頼朝が平家打倒の兵をあげてから5年、屋島の戦いで敗退した平家一門は、長門国引島(山口県下関市)まで後退し、そこで源氏に最後の決戦を挑みます。
源氏と平家は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。
平家は、弓矢を用いて離れて敵を討つという戦い方を得意としました。
これは特に水上戦で有効な戦い方です。大量の矢を射かけ、敵を粉砕するわけです。
対する源氏は、馬を多用した陸上での接近戦が得意です。
実は、こうした戦闘形態の違いは、近代戦の銃器を用いた陸戦にも似ています。
艦砲射撃やら空爆やらで、あめあられとばかり砲弾を撃ち込む米軍と、肉薄して接近戦で敵を粉砕するという日本との違いみたいなもの、とお考えいただくとわかりやすいかもしれません。
そしてだいぶ春めいてきた新暦の4月25日、平家一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべて義経率いる源氏を待ち受けたわけです。
静かに夜が明けました。
午前8時、いよいよ戦いの火ぶたが切って落されます。
源氏は潮の流れと逆ですから、船の中で一定の人数は常に櫓を漕ぎます。
平家は、潮の流れに乗っていますから、櫓を漕がなくても舵だけで、船は前に進みます。
潮の流れに乗る平家は、流れに乗って源氏の船に迫り、盛んに矢を射かけます。
なにせ漕ぎ手が不要です。全軍で、総力をあげて矢を射続ける。
一方、潮の流れに逆らう源氏の船は、平氏の射る矢の前に、敵に近づくことさえできません。
船を散開させ、なんとか矢から逃げようとする源氏、密集した船で次々と矢を射かける平氏。
こうして正午頃までに源氏は、あわや敗退というところまで追いつめられていきます。
ところが、ここで潮の流れがとまる。
追いつめられていた源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。
義経が、平家の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。
(これについては異説もありますが、それについては後述します)
堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。
ところが開戦から4時間、敵である平氏によってさんざんやっつけられ、追い落とされ、陣を乱して敗退していた源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのなんだのと言ってられない。
義経の命に従い、平家の船の漕ぎ手を徹底して射抜きます。
気の強い源氏の武将たちに、そこまでの決断をさせるために、あえて義経は流れに逆らっての攻撃命令を朝の8時に下したといえるかもしれません。
平家は、狭い海峡に無数の船を密集させています。
そこに源氏の矢が、漕ぎ手を狙って射かけられたわけです。
こうなると船の漕ぎ手を失った平家の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。
密集している平家の船団は、大混乱に陥いってしまう。
そこへこんどは、潮の流れが、源氏側から平家側へと変ります。
まさに潮目が変わったわけです。
潮の流れというのは、一見したところあまりピンとこないものですが、まるで川の流れのように勢いの強いものです。まして狭い海峡の中となれば、なおのことです。
勢いに乗った源氏は、平家一門の船に源氏の船を突撃させる。
平家一門は、ここまで約4時間、矢を射っぱなしだったのです。
すでに残りの矢は乏しい。
それを見込んでの源氏の猛進です。
船が近づき接近戦になれば、もともと接近戦が得意な源氏武者の独占場です。
離れて矢を射かける戦い方に慣れた平氏は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもない。
平家の船は次々と奪われ、ついに平家一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ります。
実は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語では、このあたりから、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。
迫り来る敵を前にした平教経(たいらの のりつね)は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。
そこに源氏の兵が迫って来る。
問題はここからです。
平教経(のりつね)は、今日を最期と肚に決めます。
教経(のりつね)は、着ていた赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧・・・豪華ですね・・・に厳物作りの大太刀を腰にして、白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘をはずすと、迫って来る源氏の兵たちの中になだれ込み、次々と敵をなぎ倒していきます。
その鬼気迫る壮絶な戦いぶりを見た、総大将の平知盛(たいらのとももり)は、ここで教経(のりつね)に使者をつかわすのです。
「教経殿、あまり罪を作りなさるな。そんなことをしても相手は立派な敵だろうか」
実は、平家物語の壇ノ浦の戦いで、ここがいちばん大事なとこです。
猛烈な戦いの最中に、平知盛は、
「雑兵を殺すことが、武将として立派な戦いでしょうか?」と疑問を投げかけているのです。
これがどういうことかというと、当時の日本は平安律令体制の国家です。
そして「雑兵」というのは、武者ではありません。
武者に従ってついてきている従者たちであり、故郷に帰ればお百姓さんたちです。
そして我が国の律令体制では、お百姓さんたちは、大御宝(おおみたから)です。
その大御宝(おおみたからは)、当時の漢字で書くと「大御百姓」です。
つまり、目の前にいる雑兵たちは、民百姓であり、天皇の宝なのだという認識が、まずあるのです。
そして武門の家というものは、天皇のもとでその大御宝を護るために存在する。
その武門の家の長が、たとえ敵といっても、雑兵たちの命を奪って良いものか、と、平知盛は、こう言っているわけです。
そしてこれを聞いた教経(のりつね)も、そのことにちゃんと気付いて、
「さては大将軍と組み合えというのだなと心得て、長刀の柄を短く持つと、源氏の船に乗り移り乗り移りして、義経殿はいずや、義経殿はいずこと大声をあげながら、敵の総大将である源義経を探し求めた」わけです。
ここも重要な点です。
教経は、知盛の言うことをちゃんと理解し、「長刀(なぎなた)の柄を短く持った」のです。
これが何を意味するかというと、普通は、薙刀(なぎなた)は柄を持って、刀の部分で敵を斬り伏せます。
ところが「柄を短く持つ」というのは、刀身を後ろにして、薙刀の柄の部分だけを使って、襲って来る雑兵たちを殴り倒した、ということなのです。
つまり薙刀で、相手を斬り殺すのではなく、薙刀の柄を使って、相手に打撃を与えるだけで命は奪わないように得物を使ったのです。
武家は、民百姓を護るためにこそ存在する。
ならば、その武家が、民百姓の命を奪ってどうする?
だからこそ、教経は、薙刀の歯を使うのをやめにしているのです。
戦いですから勝敗は大事です。
けれど、どんなに厳しい戦いのさなかにあっても、何のために戦っているのか、自分たちの果たすべき役割は何なのか、そういう明確な意識が、知盛にも教経にも、ちゃんと備わっていたということが、この短い一節の中に、込められている。
教経は、義経を探すわけですが、残念なことに教経は、義経の顔を知りません。
そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を義経かと目をつけて走り回ります。
ところが義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵わないと恐怖を持ちます。
他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。
そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにしました。
ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。
教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。
義経は、あわてて長刀を小脇に挟むと、二丈ほど後ろの味方の船にひら〜り、ひら〜りと飛び移って逃げるわけです。
これが有名な「義経の八艘飛び」です。
教経は早業では劣っていたのか、すぐに続いては船から船へと飛び移れない。
そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、
「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひとこと言わんと思ふぞ。寄れや、寄れ!」
(われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる。我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)とやるわけです。
ところが、丸腰になっても、教経は、猛者そのものです。
さしもの坂東武者も誰も近づけません。
みんな遠巻きにして、見ているだけです。
そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)が、名乗りをあげます。
安芸太郎は、土佐の住人で、なんと三十人力の大男です。
そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。
太郎は、
「いかに猛ましますとも、我ら三人取りついたらんに、たとえ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべきや」
(いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であっても屈服させられないことがあろうか)
と、主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。
そして刀を抜いて、いっせいに打ちかかる。
ところが教経は、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海に蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、
「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」
(さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ)
と言って、海にさっと飛び込んで20歳の若い命を散らせます。
まさに勇者の名にふさわしい最期を遂げたわけです。
平家物語といえば、その冒頭の言葉、
======
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ
======
という書き出しがとても有名です。
けれど平家物語は、権力に驕った清盛や、「平氏にあらずんば人にあらず」と暴言を吐いた平時忠などを描く一方で、勇敢に戦い散って行った平教経のような若武者、「雑兵を殺すでない」と激しい戦いのさなかでさえも、庶民の命を大切にしようとした平知盛など、その心根の素晴らしさを描いています。
そうした素晴らしい人たちさえも、風の前の塵にと同じように散っていく。
その無常観を通じて、平和でいることのありがたさ、権力の虚しさ、勇敢な若者の美しさなどを描いているわけです。
ややもすると、このシーンでは「義経の八艘飛び」、義経の身軽さばかりが強調されるようですが、実はそうではなくて、平家物語は、知盛や教経を通じて、武門の長と民百姓の関係を、見事なまでに描ききっているわけです。
こうして壇ノ浦の戦いで、平家は滅び、壇ノ浦の戦いで命を救われた建礼門院を、後白河法皇が大原にお訪ねになり、昔日の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。
琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
その公演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
二時間分の話し言葉というのは、だいたい2万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい24万字、つまり、いまならちょうど本2册分くらいの分量です。
そしてそこに描かれる世界は、美しさと儚さ(はかなさ)が同居する、とても感動的なストーリーで、それだけの文芸作品が、なんと13世紀頃にはできあがっていたというのだから、これまたすごい話です。
平家物語は、戦後もたいへんに日本人にとっては親しまれていて、NHKの大河ドラマでも、昭和47(1972)年に仲代達矢が主演した「新平家物語」、平成24(2012)年に松山ケンイチが主演した「平清盛」なども放映されています。
ただ、戦後に小説化された平家物語は、これまたたいへん不思議なことに、原文の平家物語にある、上に述べたような知盛や教経の、天皇の民をどこまでも大切にしようとした武将たちの葛藤や、美しさのようなものが、なぜか華麗にスルーされています。
むしろ教経などは、平家方のただの暴れ武将のような扱いになったりしていて、物語の通底する一番大切な日本的心が、なぜかどこかに飛んで行ってしまっているかのようです。
(とりわけ平成17年のNHKの「平清盛」に至っては、もはや平家物語ではなく、韓流ドラマになってしまっているかのようです。下に動画を掲示しますので、ご覧になってみてください。)
先にご紹介した、義経記の静御前や、枕草子、あるいは平家物語など、どうもいまのままでは、そこにある日本的心が、加工され修飾されていくうちに、どんどん削がれていってしまうような気さえもします。
時間がかなり厳しいのですが、近々、「ねずさんのわかりやすい『小説・平家物語』」なんてのを書いてみたいなと思ったりしています。

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