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永久王殿下

冒頭にひとつの物語をご紹介します。
短いものです。
戦時中の小学6年生の上期の国語の教科書に書かれていたお話です。
戦前の教科書が軍国主義の象徴であるとか、戦争賛美とかいう人がいますが、ほんとうにそうなのか、以下の文をみて、考えていただければと思います。
文は、旧仮名使い(ゐる、おほひ)などと、「學」などの旧字の表記を、現代風に置き換えただけで、文章は原文のままです。


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陸軍幼年学校の制服をお召しになつた北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)は、母宮殿下(ははのみやでんか)の御前(おんまえ)にお立ちになった。
「ただ今、北海道から帰ってまいりました。
 これは、おみやげにと思いまして、
 求めてまいった黒竹の杖でございます。」
王は、お持ち帰りになつた杖を、母宮殿下におあげになった。
それをお受け取りになつた母宮殿下は、
「この杖をこうして持っていると、
 永久に手を引かれているようです。」
と仰せられ、やさしく王を御覽になつて、にっこりお笑いになった。

晴れた夏の空が、武藏野(むさしの)の上におおいかぶさっている。
陸軍士官学校予科を御卒業になつた王は、士官候補生として、今日も武藏野を縱横にかけめぐりながら、演習をなさっていた。
今まで晴れていいた空が急に暗くなって、大粒の雨が降りだした。
演習が終って、王は、一軒の農家の軒先にお立ちになった。御軍帽のひさしからは、雨のしづくがしたたり落ち、御軍服は、しぼるようにぬれていた。
「雨で、殿下には、さぞお困りになったことでありましょう。」
と、中隊長が申しあげると、王は、
「二月(ふたつき)余りも雨が降らなかったから、この雨で、農家はさぞ喜ぶことでしょう。ほんとうによい雨です。」
とおっしゃって、水晶(すいしょう)のすだれを掛けたように降りしきる雨を、いかにも気持ちよさそうにお眺めになった。

昭和15年の春。
陸軍砲兵大尉の御軍装で、王は、母宮殿下の御前に不動の姿勢でお立ちになった。母宮殿下は静かにおっしゃった。
「永久のからだは、お上におささげ申したものですから、決死の覺悟で、御奉公なさるように。」
大命を拝されて、王は蒙疆(もうきゅう)(*1)の地へ御出征になる。その最後のお別れに、母宮殿下に御挨拶(ごあいさつ)を申していらっしゃるのであった。
「陛下のおんため、力の續くかぎり戰ひぬく覺悟でございます。どうぞ御安心くださいませ。」
王は、母宮殿下にじっと御注目になり、敬礼をあそばされた。
母宮殿下も、御満足そうに王のお顔を御覧になり、心もち御頭をおさげになって、御答礼をあそばされた。
(*1) China、内モンゴル自治区中部の旧綏遠(すいえん)・チャハル両省などにあたる地域

広々とした蒙疆の原野、第一線における王の御宿舎は、粗末な蒙古の住民の家である。
軍務のおつかれで、王は、ある夜しばしかり寝のゆめをお結びになっていたが、あたりのさわがしさで、目をおさましになった。
「お目ざめでございますか。せつかくの御熟睡(ごじゆくすゐ)をおさまたげいたしまして、申しわけもございません。」
おつきの者が、恐る恐る申しあげると、
「何か起つたのか。」
とやさしくお問ひになった。
「いや、ほかでもございません。この附近の住民が病気で、今にも死にそうだと申しているのでございます。」
「病気。それは気のどくだ。」
王は、こうおっしゃって、一服の薬をお取り出しになった。
「これを飲ませておやり。」
と、おつきの者にそれをお渡しになった。
翌朝、王の御宿舎の前には、蒙古の住民たちが並んでいた。王のお情けに、心からお礼を申しあげるためであった。

「10時20分、戦闘たけなわなる時、宮機を迎えるの光栄に浴す。将兵一同感激にたえず。」
第一線から飛行機でお帰りなった王は、武官のさし出すこの電報を御一読ののち、今飛んでおいでになったはるかかなたの空を、もう一度ふり返つて御覧になった。
砲煙弾雨の間、王は、彼我の戦況を御偵察(ていさつ)になって、作戦の御指導をなさったのである。第一線の將兵たちは、この電文が示すように、ひたすら光栄に感激して、勇気百倍したのであった。

昭和15年9月6日、防空演習で帝都は夜のやみにとざされていた。その中を、王の御なきがらを奉安する御ひつぎの車は、儀仗隊の護りもいかめしく、立川飛行場から、静かに高輪(たかなわ)の御殿へお進みになっていた。
午後八時ごろ、御ひつぎの車は、御殿にお着きになった。正門の前には、お四つでいらつしやる若宮道久(みちひさ)王殿下が、喪章をつけない日の丸の小旗をお持ちになつて、父宮の御凱旋(がいせん)をお迎えあそばされていた。
「名譽の御凱旋をなさるのですから、心の中で万歳を唱へてお迎えするのです。」
とおっしゃった祖母宮殿下のおいいつけ通りになさったのであろう。
御ひつぎは、表玄関から、母宮殿下の御居間、桜の間にまずおはいりになった。
王が幼年學校の生徒でいらつしやつた時、北海道からお歸りになつて御挨拶をなさつたのも、蒙疆へ御出征の時、最後の御対面をなさったのも、この同じ桜の間であった。
その御居間で、神におなりになった王に、母宮殿下は、母君としての御慈愛に満ちたお迎えのおことばを、親しくおかはしになったのであった。
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いかがでしょうか。
冒頭のお写真は、その北白川宮永久王の在りし日のお姿です。
また下の写真は、北白川宮永久王が昭和10年に徳川祥子さまとご結婚なされたときのお写真です。

永久王殿下のご成婚-1

永久王殿下は、日頃からたいへんなスポーツ青年だったそうです。
しかも昭和9年に陸軍砲工学校高等科を卒業し、昭和14年には陸軍大学を第52期生として卒業されている、秀才でもありました。
ロサンゼルス五輪で馬術で金メダルを獲得した西竹一大佐とも馬術を通じて親交があり、御薨去される2年程前には、仲間の一人と部屋に招かれ、水入らずで色々と話をしたのが懐かしい、と西大佐も後に語っています。
スポーツマンらしく、飾り気のないお人柄であらたのです。
文中にある母、房子内親王は、明治天皇の第七皇女です。
父は陸軍砲兵大佐、祖父は陸軍大将北白川宮能久親王です。
まさに名門中の名門であられたわけです。
その名門の永久(ながひさ)王殿下も、満蒙の地へご出征されていたのです。
そして肩書きは陸軍駐蒙軍参謀でありながら、常に最前線に立たれていました。
ご薨去されたときの事件は、昭和15年9月4日の午前11時過ぎのことで、張家口での演習中に、不時着して来た戦闘機の右翼の先端に接触したというものです。
厳しい戦闘から満身創痍で帰還した飛行士を、一秒でもはやく収容しようとして、永久王殿下は、着陸してくる戦闘機のすぐ近くに出ていて、不時着に巻き込まれてしまいました。
右足膝下切断、左足骨折、頭部に裂傷という重傷です。
すぐに病院に搬送されたのですが、同日午後七時過ぎに薨去されています。
享年31歳という若さでした。
祖父の能久親王(よしひさしんのう)は、明治28(1895)年の日清戦争によって割譲された台湾に、最初に平定のために向かわれた近衛師団の師団長でした。
ところが不幸にも現地でマラリアに罹かり、台南で御薨去されています。
これが、御皇族初の、外地での御戦没者です。
この能久王殿下は、幕末の戊辰戦争では幕府側に立ち、一時は彰義隊の隊長となられ、さらに奥羽越列藩同盟の盟主になられた方でもあります。
畏れ多いことではありますが、ウチも幕臣だった関係で、とてもありがたく感じています。
そしてその家柄の永久王殿下の、出征の物語が、上にある戦時中の国民学校(現・小学校)の国語の教科書の教材になっていたわけです。
そこに書かれている物語は、子を愛する母君の慈愛と、外国人であってもわけへだてのない永久王のお人柄、そして悲しみを乗り越えて、真っ直ぐに生きようとする幼子の姿です。
戦時中の日本の教育を、軍国主義教育という人がいます。
なるほど戦時中ですから、戦争に関連したお話が教科書でたくさん扱われているのは事実です。
これは当然のことです。
戦争というのは、国家の一大事なのです。
扱わない方がどうかしています。
けれど、各学年の教科書を実際に読んでみると、そこにあるのは、勇猛果敢な戦う兵隊とか、勇ましい忠君愛国の道だとかなどよりももっとはるかに深い、人としての愛情や親子の絆といったものが、身近な話題の中で、ひとつの大きなテーマとして綴られていることに、あらためて気付かされます。
以前、知覧航空基地の鳥濱トメさんの記事(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1683.html)をご紹介した際に、勇敢に戦ってくださったひとりひとりの日本人の兵隊さん・・・そのおひとりおひとりが、みんな今を行きている日本人と血のつながった人々であるわけですが・・・たちが、なんでそこまでして戦ってくださったのかといえば、それは「思いやりの心」があったからだ、と書かせていただきました。
その思いやりとは、祖国に残してきた家族であり、友人であり、地域社会であり、日本であり、そして後年のいまを生きている私達日本人の弥栄を願う心です。
そういうやさしさをもった、人としての心を、戦前も戦時中も、学校で教えていたのではないでしょうか。
だからこそ、生徒たちも父兄も、そういう先生方をとっても尊敬していた。
いま、学校でそのような「人としての心」は教えられているのでしょうか。
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台湾蘭嶼島の長老が語る日本統治時代(昭和天皇+北白川宮能久親王)

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