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滑走路とミス・ビートル号
(ビートル号は複製)
滑走路とミス・ビートル号

青森県といえば、リンゴの産地です。
国内で生産されるなんと5割が、青森県産のリンゴなのだそうです。
世界では、リンゴ生産量は、1位がChina、2位が米国、3位がフランスです。
米国では、ワシントン州にあるウェナッチ市が、リンゴの産地として有名です。
実はこのウェナッチ市は、青森県三沢市と、リンゴ産地の姉妹都市です。
なぜ姉妹都市かというと、実は、飛行機が原因です。


ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしたのが明治36(1903)年のことです。
飛行機は瞬く間に世界に普及するとともに、性能も向上し、昭和6年ごろには、500馬力近いエンジンの飛行機が開発されて市販されるようになりました。
チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行を成功させたのは有名な話です。
この飛行は「翼よ、あれがパリの灯だ」という映画でも紹介され、世界的に有名になりました。
リンドバーグの飛行がおこなわれたのは昭和2年のことです。
リンドバーグが大西洋を征服すると、世界の冒険飛行家たちの次の目標は、太平洋にそそがれました。
けれどニューヨークからパリまでの間の大西洋横断は約6千キロなのですが、太平洋横断は約8千キロです。
しかも通信機器がまだトンツートントンのモールス信号の時代です。
途中でエンジンが不調になって海に不時着したら、まず助からない。
万一のとき、生きて帰れる見込みの方が少ないのです。
ですから太平洋無着陸横断飛行というのは、当時は、まさに命がけの大冒険だったのです。
実際、昭和7年に太平洋横断飛行に挑戦した日本機は、択捉島近郊で消息を絶ち、そのまま行方不明になってしまいました。
問題はまだあります。
飛行場がないのです。
ご存じの通り、飛行機は、離陸にも着陸にも、長い滑走路が必要です。
けれど飛行機そのものが普及していなかった時代には、その長い滑走路自体がないのです。
昭和6(1931)年、朝日新聞社は、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すと発表しました。
離陸場所は、青森県の三沢村(現在は市)の淋代海岸(さびしろかいがん)が選ばれました。
理由は、三沢が日本のなかでは北米大陸に近いこと、淋代海岸は、砂に粘土と砂鉄が混じって砂地が硬く、しまっていて、舗装しなくても滑走路に使えることに加え、南北に長い砂浜がひろがっていること、からです。
三沢村の人たちは、自分たちの村が世界記録の挑戦の場所に選ばれたことに大喜びしました。
けれど、いざ実行するとなると、それは実にたいへんなことでした。
そもそも日本語の通じない各国の飛行士の宿泊の世話をするのです。
しかも飛行場も作らなきゃならない。
飛行場へ飛行機や燃料を運ぶための道路も作らなきゃならない。
たいへんな労力です。
加えて三沢は雪国です。冬場には飛行機は飛ばせません。
といって飛行機を飛ばせる春夏は、地元の人たちにとっては、農繁期です。
人手が足りない。
それでも三沢村の前村長小比類巻要人氏の指導のもと、村の青年団を中心に、村の人たちは、に気持ちよく土方仕事の応援にきてくれたそうです。
全部、無報酬です。みんなの心だけでそれだけの大事業が行われました。
昔の、働き者の日本人の姿が、こんなところにも出ています。
さて、最初の挑戦者は、米国人の二人組が乗る「タコマ市号」という飛行機でした。
三沢村の人たちは、海岸に舞い降りる「タコマ市号」を見てびっくりしたそうです。
なにせ轟音とともに、空から大きな鳥がやってきたのです。
昭和5年9月14日、いよいよ第一号「タコマ市号」が出発しました。
二人の米国人冒険家を乗せた飛行機は、村人たちが固唾を飲んで見守る中、飛行機は見事離陸に成功しました。
ところが、です。
「タコマ市号」は、排気管から漏れた有毒ガスが操縦席に充満したため、飛行を断念してカムチャッカ沖から霧のなかを引返し、下北半島東通村尻労に不時着してしまいました。
二番目の挑戦者も米国人でした。
トーマス・アッシュ中尉が乗った「パシフィック号」です。
しかし「パシフィック号」は、搭載したガソリンの重量で、重い機体を浮上させることができず、2千Mを滑走しただけで浮力がつかずに停止してしまいました。
三番目の挑戦者は、これまた若い二人の米国人の乗った「クラシナマッジ号」でした。
けれどこの飛行機は、離陸後にガソリン漏れを起こし、出発後数日で、消息を絶ってしまいます。
そしてカムチャッカ東北端の無人島に不時着していたところを、ロシア船に救助されました。
そんな中、昭和6年9月に、ハバロフスクにいた米国人冒険飛行家、クライド・パングボーン(Clyde Pangborn)35歳と、ヒュー・ハーンドン(Hugh Herndon)26歳の二人が、この企画を聞きつけます。

パングボーンとハーンドン
パングボーンとハーンドン

実は二人は、飛行機による世界1周冒険の旅をしている途中でした。
けれど様々な事情から、失敗、断念となり、落胆していたところだったのです。
二人は、この企画にとびつきました。
そして東京・立川飛行場に、愛機「ミス・ビードル号」で飛んできたのです。
ところが、急な予定変更なので、入国許可証がない。
スパイと間違われた二人は、警察に機体と身柄を拘束されてしまいます。
このとき、二人の逮捕を聞いたリンドバークが、必死で米国大使館を通じてとりなししてくらたのだそうです。
おかげで二人は、罰金だけで釈放となりました。
一方、主催の新聞社側も、二人の情報を聞きつけ、日本に滞在していた米国人たちに協力してもらって、立川飛行場に押収し保管されていた彼らの飛行機に、様々な改造を施しています。
燃料タンクを増設し、800ガロン搭載のところを、950ガロンのガソリンを積めるようにしました。
燃料節約のために、離陸後に車輪を落とせるようにしました。
車輪のない「ミス・ビートル号」が、胴体着陸できるように、補強材も装着しました。
そしていよいよ二人の乗った三沢村前村長小比類巻要人が三沢村にやってきたのです。
こんどこそ成功させたい。
小比類前村長を筆頭に、村の青年団の若者たちは、機の不寝番をしたり、二人のための宿泊所や食事の世話をしたり、ガソリンの輸送や積み込みをしたり、機体の掃除をしたり、献身的に協力します。
砂地の滑走路には、加速しやすいようにと、厚い杉板を敷き並べて傾斜をつけた長さ30mの助走台も造りました。
三本木に、英語の話せる退役海軍軍人がいるとのことで、村の青年団で迎えにいき、通訳と助言もお願いもしました。
出発に際しては、二人の飛行士のために、当時なかなか手に入らなかったパンも調達しました。
前村長の娘さんの小比類巻チヨさん(当時14歳)が、彼らのためにサンドイッチと鶏の揚げ物を作って彼らにプレゼントしています。
飛び立つミス・ビードル号
翼長14.8M、長さ8.5M、エンジン出力425馬力
ミス・ビードル号

昭和6(1931)年10月4日午前7時1分、ドラム缶なんと18本分ものガソリンを積み込んで極端に重くなった「ミス・ビードル号」のエンジンがかかりました。
エンジンの轟音がうなる中、機体に乗り込んだ二人の米国人パイロットに、小比類チヨさんが、機内食用にと、青森・三沢産のリンゴ紅玉20個を包んで渡しました。
そして村人たちが手を振って見送る中、杉板の滑走路で助走した「ミス・ビードル号」は、徐々に加速し、ながいながい滑走をしたあと、見事、大空に舞いあがったのです。
離陸に成功した「ミス・ビードル号」は、予定通り途中で車輪を捨てて飛行を続けました。
北太平洋の海原を舞うこと40時間、「ミス・ビードル号」は太平洋沿岸時間の5日午前1時に、カナダのバンクーバー島標識灯を確認しています。
そして着陸のために、予定地であるスポケーンへ向かいました。
ところが現地は霧が深くて着陸できません。
やむをえずさらに西のパスコに向かうけれど、ここもまた厚い雲に覆われて着陸が不可能です。
翼も凍り付きます。
燃料も残り少ない。
乗員の二人は、故郷のウェナッチに着陸しようと決断します。
ウェナッチなら霧も雲も心配ない。
それに土地勘があります。
飛行の模様は、アマチュア無線や新聞のニュースなどで、離陸の時点から、アリューシャン列島上空通過、米国本土での飛行ルートなどの情報がもたらされていました。
ウェナッチ着陸の報道がもたらされると、地元の人々は大喜びです。
なにせ地元の英雄の帰還です。
ウエナッチの丘の上には、地元の人々、日本の新聞社を含む全米の新聞記者達が集まりました。
その中には、飛行士たちの母親や弟、いとこたちもいました。
昭和6(1931)年10月5日の朝7時14分、みんなが見守る中を「ミス・ビードル号」はウェナッチ東部の丘から低空飛行で、小さな赤い機体を現わしました。
そして着陸体制にはいります。
車輪はありません。
胴体着陸です。
出火して、ガソリンに火がついたら、いっかんの終わりです。
機体のスピードは、失速するくらいまで下げました。
そして滑走路の端に入ります。
そこで、エンジンのスイッチをOFFにする。
機体の機首をおもいきり起こす。
胴体後部が地面をこすります。
いったん機種を上げた機体が、胴体を地面にこすり、前のめりに土煙を上げてつんのめり、テールエンドが持ち上がる。
そして持ちあがった機体が、すぐまた後ろに倒れる。
倒れながら地面をすべる。
ウェナッチの人々が固唾を飲んで見守る中、そのまま地面を滑った機体は、左翼を地面にこすりながら、ようやく停止しました。
機体の中から、土ぼこりにまみれた笑顔のパングボーンとハーンドンが降りてきます。
割れんばかりの歓声と拍手が起こります。
41時間13分をかけた、人類初の太平洋無着陸横断飛行が成功した瞬間でした。
この日、ウェナッチ市は大変な騒ぎになりました。飛行場に集まった人々は、はるか太平洋のかなたから飛んできた赤い小さい飛行機をあくことなく眺めて乾杯しました。
その飛行場の中には、真っ赤なりんごが5個残されていました。
パングボーンが「日本からのお土産はこれだけ」とおどけた調子で、このりんごを母親に渡した。
そのときの写真が、新聞社によって全米に報道されます。
ウェナッチもリンゴの産地なのです。
そのウェナッチの英雄に、日本から真っ赤なリンゴの贈り物、実に絵になる話、というわけです。
ウェナッチ市では記念のパレードが盛大に行われました。
翌日にはシアトルでもパレードが実施されています。
ニューヨークでは市長主催の歓迎会も行われました。
まさに、二人のパイロットは、アメリカンヒーローになったのです。
二人が飛行に成功した1か月前には、満州事変が起こっています。
満州の制圧を開始した日本に対し、米国政府は否定的な見解を出し、日米間には険悪な空気が漂っていた、そういう時期です。
けれど、パングボーンとハーンドンの二人の飛行士は、機会あるごとに、日本人が親切であったこと、特に三沢の人々の献身的な援助があったことを話してくれました。
そのためか、米国の新聞の論調も、「日本は近い国」、「友情の橋がかけられた」等、日本に好意的な記事がたくさん見られるようになっています。
二人の故郷のウェナッチ市では、その年の11月、商業会議所が、お世話になったお礼にと、リンゴの新品種リチャードデリシャス一箱を船便で、朝日新聞社宛に送ってくれています。
ところが、その前年から輸出入植物取締法の適用が厳しくなり、リンゴの上陸が認められません。
青森県のリンゴ試験場でも、所長の須佐寅三郎氏らが、植物検査所に、送られてきたリンゴを研究用に分けてもらいたいと要請したのですが、却下されてしまいます。
結局、日本の港まできたリンゴは、送り返されてしまったのです。
須田試験場長は、ウェナッチ商業会議所会頭あてに、今回のお詫び文を書きました。
そしてこのとき「できれば穂木を贈ってくれないか」とお願いしてみたのです。
ウェナッチ商工会議所は、快くこれに応じてくれました。
こうして昭和7年4月、リチャードデリシャスという品種の、1mほどの接穂5本が、青森県リンゴ試験場に送られてきました。
試験場では、生産者代表と関係者が68名も出席して、盛大な接木式を行いました。
リチャードデリシャスの原木
リチャードデリシャスの原木

この接木は、すくすくと成長し、昭和10年頃からは、青森県内各地に接穂として配布されました。
昭和16年には、5本だった穂木が、なんと1万227本のリンゴの木となっています。
栽培面積も22ヘクタールに拡大しました。
このりんごの評判はたいへん高く、りんご試験場の樹から枝が盗まれることもあったそうです。
昭和16年、大東亜戦争の開戦によって、青森のリンゴ試験場と、ウェナッチ市商工会議所の交流は中断してしまいます。
けれど、リンゴ試験場では、ウェナッチ市からいただいたリンゴの接木から、次々と品種の改良を実現し、そしていま栽培されている、甘くておいしい青森リンゴとなっています。
昭和56年、ウェナッチ市と三沢市はふたたび姉妹都市となりました。
また、三沢市の淋代海岸には、この快挙をたたえる「太平洋無着陸横断飛行記念碑」が建てられました。
そして2003年には、近くに、「ミス・ビートル号」の復元機が展示されました。
けれどこのビートル号の復元機は、先の東日本大震災のときの津波で、粉々になってしまいました。
太平洋無着陸横断飛行のときの、三沢村の青年たちの献身と、少女チヨさんが贈ったリンゴという、あたたかな心の連鎖が、いまわたしたちの食卓に並ぶ、おいしいリンゴとなっているわけです。
けれど思うのです。
もしいま、わたしたちの地元で、こうした飛行イベントがおこなわれるとしたら、どうなるでしょうか。みんなが無報酬で頑張るなんてことはあるのでしょうか。
震災の瓦礫の撤去ですら、国からの補助金頼み。
そして国はその補助金を、他の全然震災と関係のないものの費用に流用する。
そして政府自体が被害をあおり、全国から反日運動家を集めて、原発反対のオダをあげる。
空港を建設するとなれば、滑走路建設反対のデモや集会が行われ、今年度予算からの凍結・廃止のための行政作新会議の事業仕訳がおこなわれ、少女がプレゼントしようと持参したリンゴは、生ゴミとして廃棄されてしまうかもしれません。
それらは民主党政権下の日本で、まさに現実となったことだけれど、ひとつ断言できるのは、そのような日本では、誰からも信頼されないし、心の交流なんて、およそ不可能だ、ということです。
世界初の偉業の達成のために、村のみんなで力を合わせて無償で貢献した日本人、そういう公徳心を持ち、みんなのため、地元のため、お国のために力をあわせた日本人は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。
日本の素晴らしさ、日本の美しさというのは、カタチではなく、思いやりの心にこそあると、思うのです。
そういう日本を取り戻したい。
私は、そう思います。
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