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頼朝は決して強将でなかったけれど、その頼朝をみんなが担いだから源氏は勝利し、武家の時代が拓けたのです。
いま日本を取り戻そうというときに、易々と在日の工作にひっかかり、日本を守る獅子たちの微細な点をあげつらって攻撃するのは、保守ないし日本主義者たちの結束を乱す行為にしかならない。
日頃は対立点があったとしても、団結するときには団結する。
そうでなければ日本は変らない。
中心核は、そこに「ある」ものなのではなくて、みんなで「つくる」ものです。
以下は乱文ですが、趣旨ご理解いただければ嬉しく思います。
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やまと新聞の動画コラム「ねずさんの動画マガジン」
http://www.yamatopress.com/co/pg146.html
あんぱんのお話
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源平合戦で、源氏の総大将は源頼朝であったことは皆様ご存知の通りです。
けれど頼朝は、自分で行った戦のほとんどで負けています。強将、弱将でいうなら、弱将であったかもしれない。
にも関わらず、源氏方に所属した東国の武士達は、その頼朝を棟梁と仰ぎ、源氏の旗のもとで戦いました。
なぜでしょう。
なぜ、弱い頼朝(あえてそう書きます)のもとで戦ったのでしょうか。
鎌倉武士団というのは、忠義心に優れ、江戸時代においても「貴殿はまるで鎌倉武士のようだ」というのは、武士に対する最上級の褒め言葉でした。
けれどその江戸武士達は、家臣たちで集まって、主君を座敷牢に押し込めたり、あるいは隠居を迫るということも頻繁に行っています。
なぜでしょうか。
主君に忠義を尽くすと言いながら、主君に隠居を迫る。座敷牢に押し込めてしまう?
これはいったいどういうことなのでしょうか。
結論から先に申上げると、武士にとって、主君は、自然人(個人)を指しているわけではない、ということです。
武士の忠義は、もちろん主君に対する忠義だけれど、そこでいう「主君」とは、何の太郎兵衛何々という殿様個人を指すのではなく、家の長としての「役割」を指している。
そしてその役割としての長に対して、武士は忠義を捧げたのです。
徳川家康といえば、東国一の弓取り、つまり東国最強の武将でした。
けれど、晩年の家康は、ただの太った爺さんです。
おそらく、斬り合いになれば、家康よりも強い武士はたくさんいたことでしょう。
けれど、封建領主としての家康は、徳川家を代表する存在であるとともに、戦国時代を終わらせ、新たな徳川300年の平和と、民の安寧を願う主君であったのです。
そして徳川の治世によって、国内の平和を取り戻し、安定した社会を築こうとした。
それが江戸時代の始まりです。
同様に、鎌倉の源頼朝は、頼朝個人は弱将であり、戦勲のあった弟の義経を殺害してしまう非常な人物であったかもしれないけれど、鎌倉幕府という新たな政権を打ち立て、武士達の本領を安堵し、平和で安心して暮らせる社会を築くための代表であったわけです。
だから、その政治機構の役割としての頼朝に、みんながついていった。
いや、ついていったというより、みんなで神輿として担いだのです。
それが主君です。
そしてその主君に、忠義を尽くすことで世を改め、安心して暮らせる社会を築いた。
なんでもそうですが、時代を変えようとするとときは、その中心核となる者が必要です。
たとえばそれはいまなら自民党総裁の安倍氏かもしれない。
その安倍晋三氏を、みんなで担ぎ上げる。
みんなが担ぎ上げることで、そこが「核」となり、集団が中心核を持つことで、強固になり、新たな時代が開かれる。
すくなくとも、みんながバラバラで、互いに「俺が俺が」とやっているだけの社会が、新たな方向性を持って大きく時代が動いたという例は、人類史上、皆無です。
戦後の高度成長期のように、ある程度社会構造と社会の指向性が安定している状態なら、おじさんたちの愚痴の場としての「俺が俺が」でも良いのです。
あいつがダメ、こいつがダメ、あの人にはこういう悪い所がある等々、まるで芸能人の品定めのように、あれこれ評論し、評価する。
それはそれで単なる趣味の世界のできごとという範疇で、いくらあっても良いのです。
なぜなら、みんながみんな、それぞれの立場や思想に基づいて、あれこれ批判していたとしても、それ自体、なんの影響力もないからです。
けれど、いまの日本のように、亡国か繁栄かという大きな端境期に、同じ保守の間で、あいつがどうのこいつがどうのと批判合戦をしていても、何もはじまらないのです。
日本を変えるというなら、その核となる人が必要なのです。
そして核は、みんなで守り育てなくちゃいけない。
で、私達はその核となる人に、何を求めるのでしょうか。
高邁な人格でしょうか。
派手なパフォーマンスでしょうか。
見た目のかっこよさでしょうか。
世の中に完璧な人間などというものは存在しません。
神様じゃあるまいし、完璧な人格者など、この世に誰もいない。
派手なパフォーマンスは、往々にして結果はよろしくない。
まして見た目のかっこよさなど、芸能人のグラビアアイドル選びじゃあるまいし、政治には関係ないことです。
けれど現実にはどうでしょう。
多くの日本人が、高邁すぎる完璧な人格をリーダーに要求し、そのリーダーに足を掬われかねないような派手なパフォーマンスを要求し、見た目の評論ばかりをしている。
昔の武士が聞いたら呆れてしまうのではないでしょうか。
韓国の大統領が、日本固有の領土である竹島に勝手に上陸して、そこを韓国領だと公然と言い放つ。
Chinaの軍隊が、海底資源の宝庫とされている尖閣領海内に勝手に入り込んで我が国領海を荒らす。
国内には特アのスパイが入り込み、在日外国人のパチンコマネーが政治を壟断する。
いい加減、疲弊し、つかいものにならなくなった占領憲法だって、現在と未来の日本を守るためには変えなくちゃいけない。
そういう大事なときに、あいつはダメだ、こいつもダメだと、我が身も省みずにリーダーの批判ばかりする。
それではまるで、工作員の片棒を担いでいるようなものです。
まとまるべき大事なときにまとまらないで、どうして国難に対処できるのでしょうか。
私は、在日の通名を廃止せよと主張しています。
けれど私の尊敬する某氏は、その在日の部下を持ち、また友人も持っています。
ならばその人は尊敬に値しない人でしょうか。
ある程度顔の広い人物なら在日にも韓国人にもChineseにも沢山の友人がいるものです。
それが何か問題あるのでしょうか。
平素反米主義を唱えている人が、米国人の親しい友人を沢山持っている。
それが何か問題あるのでしょうか。
だから「信用できない人」なのでしょうか。
違うと思うのです。
大切なことは、その人の中心がどこにあるか。
そのことにブレない人なのかどうか。
それだけなのではないかと思うのです。
だから昔の武士はブレようのない家柄、血統を大事にしたのです。
これは変えようがないからです。
それでも、その主君が家を粗末にしたり、血統を重んぜず、家や血統を粗末にするなら、座敷牢に閉じ込めたりもしたのです。
いまならそれは思想と血統ということになろうかと思います。
純粋な日本人であり、日本を守るという確固とした国家観と歴史観を持ち、自らの労を厭わず国家の安寧と発展のために、その命を捧げようとしている者。
見分けるのはたいへんかもしれませんが、そういう姿勢は、何年も様子をみていたら、ホンモノかどうかは自然とわかるものです。
それ以外は、私は正直関係ないと思う。
頼朝がヌード写真を見て鼻の下を伸ばそうが、家康がゴルフに興じようが、伊達政宗が愛人をつくろうが、そんなことは国難に際してどうでもいいことです。
大事なことは、何をどうしようとしているのか。
その人の中心がどこにあるのか。
それだけです。
そもそも戦後67年間、歪みに歪んだ日本なのです。
その流れを、自ら主体的に変えようとし、そのための柱となっている活動家というのは、それ自体が、よほどの奇人、変人でなければできないことです。
もっといえば、馬鹿しかできない。
そして馬鹿だからできるのです。
ちなみに、奇人(きじん)というのは、貴人と書いても(きじん)です。
古来、貴人というのは奇人なのです。
いまは小異を捨て、大道につくべし。
そういう秋だと思います。
そうでなければ日本は変えれない。
日本を取り戻すことはできない。
そう思います。
武士が忠義を尽くしたのは、「公」に対してです。
「公」というのは、家や藩、地域を含めた家族的共同体です。
従って平時における「公」は、一家や所属する身近な共同体が「公」です。
けれど、いったん国難となれば、「公」は国家そのものを意味する概念になります。
殿様や上司個人を指すのではないのです。
ですから個人に不都合があるときは、藩士達は主君その人を座敷牢に閉じ込めたり、隠居を迫ったりした。
先般、藤田東湖のことを書きました。
藤田東湖は、幕末の志士達にとっての、まさに憧れ的存在であり、西郷隆盛をはじめ、多くの志士達が藤田東湖のもとを尋ね、教えを乞うています。
要するに、それだけ「立派な人」であったわけです。
けれど、その「立派な人」というのは、藤田東湖の「教え」そのものを言います。
藤田東湖という個人の人格を云っているのではない。
すこしまぎらわしいですが、要するに、幕末の志士達は、藤田東湖の説いた教えを学び、藤田東湖という名前に代表される人そのものに憧れ、直接教えを乞うために、はるばる水戸や江戸まででかけているのだけれど、だからといって、いちからじゅうまで、全部をただ素晴らしいと思っていたわけではない。
人間なのです。
人であれば、失敗もするし、大ポカもする。誰かに不愉快な思いをかけてしまうこともある。
要するに人間は、不完全な生きものです。
けれど不完全ながらも、人は何事かを為したり、あるいは他の多くの人々に良い影響を及ぼしたりすることができる。
その思想や行動、またそれを成し遂げようとする人柄、そういうものに対して、武士達は教えを乞い、学び、自分を成長させようとしたのです。
もちろん、そうやって慕われる藤田東湖の側も、多くの志を持った人々の前で、より一層自己を研鑽し、自分を清め、高め、成長させようと努力します。
つまり、教える側も、教えられる側も、ともにそうして成長していこうとする。
そこに忠義や正義、誠の本質があるのです。
いささかむつかしい話になっているかもしれません。
ただ、ご理解いただきたいのは、たとえばいまをときめく大物といわれる立派な尊敬に値する人であっても、必ずしも、高潔な人格者とばかりはいえない、ということです。
それこそ雑誌のヌードグラビアを見て、鼻の下を伸ばしていることもあるかもしれない。
けれどだからといって、その人が尊敬に値しない人かというと、そうではない。
その人の思想や行動に、自分が学ぶべきものがあるのなら、そこから積極的に学ぶ。
そして自分自身をより成長させる。
それが日本の武士一般の、普通のものの考え方だ、ということです。
くどいようですが、思想や行動や役割、そうしたものが尊敬に値するものなら、尊敬し、教えを乞い、ときに命をかけてそれを守る。
それが武士です。
こんなことを書くのは、昨今、政治家や保守系の思想家、行動家、団体等について、様々な誹謗中傷が飛び交い、それに惑わされてしまう人が、以外にも多いからです。
言葉尻を捉えてみたり、言ってもないことを言ったとしたり、あるいは真実めかしたデタラメを流したり等々。
とりわけ、日頃立派と思っている人について、「実はあの人は、こうこうこういうところがあって」などと耳打ちされると、いわゆる認知不協和に陥って、ついつい「そうなんだぁ!」と同調してしまい、結果としてその人を潰してしまうというケースが多々あります。
認知不協和というのは、広告CMなどではよく使われる技法です。
いわゆる「権威あるもの」を、思い切って貶める。
そうすると、見ている側はびっくりして、そのCMを見入ってしまう、という心理ケースをいいます。
たとえば保守の重鎮として、あちこちの街宣や、講演会でマイクを持ち、著書も沢山出しているような大物が、たとえば、「どうやら女性問題を起こしているらしい」などと聞くと、「ええっ!そうなの?」となって興味津々となる(あくまでも例(たとえ)です)。
挙げ句の果てが、あの人は、たいした人物じゃない、ああいう下半身にだらしない人は、保守とはいえないなどとエスカレートする。
あげく、調子に乗って言いたい放題の中傷が始まる。
右を向いても左を見ても、そういう中傷だらけになると、気がつくと、ついつい自分まで一緒になって、中傷の仲間入りをしている。
よくある話です。
しかし「屁は嗅ぎ出しがモト」です。
たいていの場合、その噂話のもとの出所は、在日工作員です。
その在日の工作に、まんまと多くの人が嵌められ、片棒を担いでしまう。
そして大事な保守の核を潰してしまう。
根本が間違っているのです。
その人の、思想や行動、あるいは日頃の主張ないし「教え」が大事なのであって、そこに学ぶべきものがあるならば、それを学べば良いだけのことなのです。
私は、いま、日本を変えよう、日本を取り戻そうと立ち上がった人達を、平成のサムライと読んでいます。
そしてサムライ達はいま、我が世の春を謳歌している民主党や左翼、あるいは在日と言う名の平氏一門を打ち倒し、新たな皇道日本を打ち立てようとしています。
そして大戦(おおいくさ)ならば、その大将が必要です。棟梁や侍大将たちです。
要するに源頼朝や、梶原景時などの武将たちが必要です。
私は、そういう平成の武将達と、それを守る武士達をこれからも応援し続けて行こうと思っています。

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