
今日のタイトルは「薙刀(なぎなた)と娘子隊(じょうしたい)」です。
慶応4(1868)年8月23日、会津藩若松城下に新政府軍がやってきました。
その数、なんと7万5千の大軍です。
迎え撃つ会津の武士たちは、正規兵が約3500人、客員兵と呼ばれる幕軍崩れの参加兵が1800名、合計わずか5300名です。
しかも会津藩正規兵の主力は、いまだ国境にいます。
城下に残っているのは、少年で構成される白虎隊だけです。
銃を持った者は百名たらず、兵糧米と弾薬はまったく備蓄がありません。
激しい雨が降る中、城下に敵襲来を知らせる激しい半鐘が鳴り響きました。
城下にいる武士の家族や町民たちに避難を知らせる早鐘です。
一方、大隊ひとつ繰り出せば早々に城を落とせる状況にあった新政府軍は、若松城下に殺到したばかりで、城下の状況がまだつかめません。
そこで城に向けて砲撃をはじめました。
そんななか、若松城に駆けつけた女たちがいました。
中野竹子(22歳)以下、6名の娘たちです。
彼女たちは、城下にある薙刀(なぎなた)道場、田母神塾の門下生です。
田母神俊雄さんのご先祖の道場です。
彼女たちは、混乱する城下において、髪を切り、男装して婦女隊となって、城主松平容保の2歳年上の義姉、照姫様をお守りしようとしたのです。
けれど彼女たちが城に駆けつけたとき、すでに城門は固く閉ざされていました。
彼女たちは入城させてもらえません。
同じ道場の仲間たちも集まってきました。
人数も二十余名になります。
日ごろ鍛錬を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。
中野竹子らは、娘たちだけでその場で「娘子隊(じょうしたい)」を結成しました。
みんなでお揃いの白羽二重の鉢巻きを頭にしめました。
このとき竹子の着物は青みがかった縮緬、妹優子(16歳)の着物は紫の縮緬だったそうです。
依田まき子は浅黄の着物、妹菊子は縦縞の入った小豆色の縮緬、岡村すま子は鼠がかった黒の着物です。
そしてそれぞれ袴(はかま)を穿き、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。
集まった娘子隊に、藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされます。
「照姫様をお守りしなければ!」
娘子隊二十余名は、会津坂下の法界寺に向かいました。
砲弾の雷鳴が響く中、ようやく寺に着いたのだけれど、照姫様はいない。
彼女たち一行は、やむなくこの日、法界寺に宿泊しました。
そして翌日朝、会津坂下の涙橋と呼ばれる城近くの橋付近の守備隊長である萱野権兵衛に「従軍したい」と申し出ました。
いくら薙刀の遣い手といっても、うら若い乙女たちです。
敵(新政府軍)は銃で武装している。
萱野権兵衛は、
「ならん!、絶対にならん!、お前たちは城へ帰れ!」と拒否します。
けれど、中野竹子らは、去ろうとしません。
「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」という。
敵を目の前にして困りきった萱野権兵衛は、とりあえず一晩寝かせて、翌日帰宅させようと、彼女達をいったん衝鋒隊に配属します。
ところがその翌日(8月25日)、涙橋に新政府軍(長州藩・大垣藩兵)が殺到してきたのです。
近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は必死の突撃を繰り返しました。
戦いは白刃を交えた白兵戦となります。
敵は圧倒的多数なのです。
最後尾に配属されたはずの娘子隊も、前線で戦うことになりました。
薙刀を振り回して善戦する彼女たち。
けれど、いかに袴を穿いて男装しているといっても、彼女たちはどこからみても女です。
これに気付いた新政府軍の攻撃隊長は、部下に「生け捕れ!生け捕れ!」と命じます。
ちなみに、この場面について、本によっては「新政府軍は娘子隊の女性たちを強姦するために、生け捕れと命じた」と書いているものが多数あります。
馬鹿にするなといいたい。どこの国の歴史を書いているのだ!と、怒鳴りつけたくなります。
そうではない。
娘たちなのだから、殺さずになんとかして生け捕り、命を助けようとしたのです。
だいたい白刃のさなかに、呑気に強姦などできるわけがない。
まして相手が武家の娘ともなれば、強姦などしようとすれば舌を噛みきってでも命を絶ってしまう。
女性とHしたければ、街娼がいくらでもいた時代なのです。
まして、周囲の目だってある。
攻める新政府軍側にしてみれば、捕らえて強姦しようなどどいう気持ちは、毛ほどもない。
あたりまえのことです。
けれど、戦う娘子隊にしてみれば、自分たちは女ではなく、武家の娘であり兵士です。
相手に生け捕りにされようなどとは、露ほども思わない。
しかも後に書きますが、薙刀というのは、乱戦においてめちゃくちゃ強い武器です。
娘子隊二十余名は、大善戦します。
隊長の中野竹子は、会津城下において、美しい才女として誰もが羨む女性でした。
当時、会津の銭湯はどこも混浴だったのだそうです。
竹子は、1、2度、銭湯にいったことがあり、その美貌と美しいふくよかな体が、男たちの目を釘付けにしたといいます。
その竹子に、乱戦の中、一発の流れ弾が、彼女の額に命中します。
竹子がドウと倒れる。
額の血が、草を真っ赤に染めます。
息も絶え絶えに竹子は、それでも気丈に妹の優子を呼びました。
そして「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼みます。
妹の優子は、16歳です。
とまらない涙をぬぐいながら、それでも気丈に、姉の首を打ち落としました。
優子は、姉の首を小袖に包むと、坂下まで落ち延びます。
そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼みました。
中野竹子が、長刀(なぎなた)に結びつけていた自詠の短冊です。
武士(もののふ)の
猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも
竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し、最後まで戦い続けました。
会津藩は、幕末から明治にかけて多くの偉人を輩出しましたが、その教育は江戸時代においても群を抜いていたといわれています。
その会津にあった教えが、「什(じゅう)」です。
会津では、子供たちは、毎日これを大声で復誦したといいます。
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一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬ事はならぬものです
~~~~~~~
人の道というのは、まさに「掟」なのだと思います。
西洋ではこれを「ルール」といいます。
そして「ルール」は、神が人に与えたものとされます。
つまり、西洋では「ルール」を守れるのが「人」であり、守れないものは、たとえ人の姿をしていても、それはバーバリアン(人獣)です。
殺人罪というのは、人を殺すから「殺人」なのです。
獣を殺して罪になる「殺獣罪」というものは、世界中、どこを探しても、いくら時代を遡ってもありません。
(唯一あるのは、江戸時代、綱吉の生類憐みの令くらいです。もっともこのお布令を出した綱吉は、犬公方と呼ばれ、後世に汚名を残しています)
教育は、人を強くもするし、猿にも落します。
昨日の記事で、ザビエルがいまの日本にやってきたら、何と言うだろうかと書きましたが、日本人が荒廃したというのなら、それは、なにより日本的精神が荒廃したということであり、道徳観、価値観が失われたということを意味します。
そして道徳観、価値観は、教育によって培われることを考えれば、戦後教育の歪みが、あらゆるいまの日本の諸問題の原因となっているということなのではないかと思います。
なぜなら、精神そのものが、あらゆる豊かさの根幹を担うものだからです。
日本人として、日本の教育を取り戻すこと。
そのためには、最低限、昭和22年に廃止された教育勅語の精神を取り戻すことであると、私は思っています。
さて、せっかく娘子隊のことを書きましたので、薙刀(なぎなた)のことを少し書いておこうと思います。
薙刀というのは、先端部の刃が厚くて重く、柄が長いために、遠心力が働き、非力な女性でも大きな破壊力を得られる仕様となっている武器です。
もともとは奈良平安の時代に、主に僧兵たちの武器として発達したとされています。
僧兵というのは、もちろん男たちです。
江戸時代に至り、これが女性たちの柄物(武器)となったことには、背景があります。
ひとつには、江戸幕府が大薙刀を男たちが持ち歩くことを禁じたという理由もあるのですが、それ以上に、女性たちに好まれたのには、大きな理由があります。
実は、義経に愛された静御前が、薙刀の名人だったと伝えられているのです。
静御前は、神に通じる舞を舞える当代随一の白拍子です。
そして同時に、薙刀の名手でもありました。
その静御前は、千人以上もいる敵のど真ん中で、義経を恋う歌を唄い、舞を舞います。
有名な歌です。
~~~~~~~
♪しづやしづ
しづの苧環(をだまき)繰り返し
むかしを今に なすよしもがな♪
吉野山 嶺の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
~~~~~~~~
いつも私を、静、静、
苧環(をだまき)の花のように美しい静
そう呼んでくださった義経さま
幸せだったあのときに戻りたい
吉野山で雪を踏み分け
山に去って行かれた愛する義経様
残されたあのときの義経様の足跡が、
いまも愛しくてたまらない。
これを義経を追う鎌倉御家人たち、そしてその将である頼朝の前で、堂々と唄い、舞った。
場所は桜満開の鶴岡八幡宮です。
いや、その情熱というか、愛の深さというか、情景の美しさというか。
もう、すべてが美しい。
おそらく、日本の歴史上の女性の中で、最高に美しい女性として描かれているのが、まさに静御前なのではないかと思う。
なので、江戸時代の武家の女性たちが薙刀を習ったのは、単に幕府が男たちの得物として禁じたとか、そういうことからではなくて、江戸の日本人の武家の女性たちにとっての、最高の憧れの女性が静御前であり、その静御前への憧れが、武家の女性たちの薙刀稽古に至ったのではないかと感じます。
ちなみに、この薙刀、他の武道と試合しても、ほとんど最強です。
江戸時代、剣術道場で免許皆伝となった若侍が、何かの弾みで薙刀道場で、女性たちと試合をすることになり、ボロボロに負けて、悔し涙を流しながら、
「あいつら汚い!足は払うし、投げ技まで使う!」と言ったとか。
柄が長くて振り回す形の薙刀は、集団戦としての戦いの場では、その機能として槍に一歩譲ります。
なぜなら、集団で密集しているときに、薙刀を振り回したら、周囲にいる味方を傷つけてしまう。
けれど、集団の乱戦や、一対一の戦いでは、薙刀はある意味、最強といえるのだそうです。
すごくおもしろいと思うのですが、江戸時代、武士は大小二本の刀を腰に差しました。
大刀は、もちろん相手を斬るためです。
けれど小刀は、相手を斬った後、自分の命を絶つためです。
人を斬る権限を与えられた武士は、同時に人を斬ったら、自分の腹を斬らなければならないという覚悟と行動を与えられていたのです。
そして男たちが相手を倒すと同時に自らの命を絶つ大小二本を腰に指す一方で、敵を倒す、敵を斬るということにかけて、もっとも強い力を発揮する薙刀を「女性のための武器」とした。
この精神性、文化性の格調の高さというのは、ある意味、ものすごい凄味を持って、いまの私達に迫って来るように思います。
そうした極めて高い文化と精神性をもっていた日本文化。
私達はそれを取り戻すことで、あらためて日本主義として、私達自身が世界に誇れる日本文化の担い手として成長してきたいと、思うのです。

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