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学校0928

先日話を聞いたのですが、学校の先生がPTAを集め、いま生徒たちに教えていこととして、次のような話をしていたのだそうです。
びっくりです。
要約すると、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
家族というのは血縁のことをいうのではない。
親しい友達やそのときどきの仲間たちこそが家族なのである。
田舎の実家にいる祖父母などといっても、遠く離れて暮らすなら、日頃の交流ができるわけではない。
交流がないものを大切にすることこそ異常である。
従って、そういう血縁が大事なのではない。
毎日一緒にいる仲間たちこそが家族なのである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これを日々、生徒たちに教え、挙げ句の果てが父兄を集めたPTAの席上で、学校の先生が堂々と講釈したというのですから驚きです。


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■プロローグ
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■第1回 君が代のお話
http://youtu.be/7xzVE955VIQ
■第2回 日の丸のお話
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■第3回 3万年前の磨製石器が日本で発見されたということは
http://youtu.be/dcjfKdsHsN8
■第4回「何のために歴史を学ぶのか」
http://youtu.be/DKzgivml7eI

第4回「何のために歴史を学ぶのか」

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最近の日教組の言動は、まさに目を覆うべきものがあり、たとえば、
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結婚も不要である。
なぜならセックスは楽しむものである。
楽しいのだから誰とでもセックスすればいいのであって、それを結婚という縛りを与えること自体が間違っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
などという言説を堂々と披露している教師もいるのだとか。
実に驚きです。
低能もここまでくると、マンガにもなりません。
はっきり申上げて、かような教師はすでに教師の名にさえ値しない。
公職追放すべきです。
人は、重荷があるから成長するのです。
辛いことがあるから、それを乗り越えることで成長するのです。
絶えきれないような苦しみがあるから、忍耐力や思いやりの心が養われるのです。
血縁関係と、たんなる友人関係と何が違うのか。
この教師は、そこのところがまるでわかっていない。
友人関係は、簡単にリセットできてしまう。
自分が所属する集団から、出れば良いだけのことです。
ところが血縁関係は、リセットできない。
血縁関係には、電卓でいう「AC」ボタンがない。
生涯、ずっとついてまわる。
これが重荷です。
ですから昔は、何か悪いことをしでかせば、家族の恥、親戚一同の面汚しとされました。
血縁社会では、そこから逃れることができないのです。
逃れることができない重荷を背負うから、しっかり生きなければ、という心が生まれるのです。
帝国軍人が、諸外国の軍隊のような、強姦や一般人の殺戮をなぜしなかったのか。
もちろんそこには、日本人のやさしさもあるでしょう。
軍紀の厳しさもあったことでしょう。
けれど、いちばん大きな理由は、もし、そのような非道をしでかし、軍紀によって裁かれたり、あるいはそういうことをしたという汚名を着て、故郷(くに)に帰ったとき、逃れられない血縁の中で、生涯、ずっとその汚名を着たまま暮らして行かなければならない。
ずっとつまはじきになったまま暮らしていかなければならない。
それだけじゃない。
立派に生きた親兄弟にまで恥をかかせることになる。
周囲の血縁者みんなに迷惑をかけることになる。
だからこそ、非道はしない。しないというより、できなかったのです。
現代社会は、地縁血縁よりも、趣味などによる親交が優先する社会だともいわれます。
けれど、だからこそ、社会制度として、あるいは人々の心構えとして、血縁、地縁をもっともっと大切にしていかなければならないのです。
先日、フランシスコ・ザビエルの日本に関して述べた有名な言葉をご紹介させていただきました。
〜〜〜〜〜〜〜
この国の人々は今までに発見された
国民の中で最高であり、
日本人より優れている人々は
異教徒の間では見つけられない。
彼らは親しみやすく、
一般に善良で、悪意がない。
驚くほど名誉心の強い人々で、
他の何ものよりも名誉を重んじる。
大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も
貧しいことを不名誉とは思わない。

〜〜〜〜〜〜〜
この言葉には、大切なポイントが3つあります。
ひとつは、ザビエルがこの言葉を述べたのは、日本が、日本史上、もっとも国が荒れた戦国時代だったということです。
日本人にとっては、まさに最悪といってよい戦乱に明け暮れた戦国時代にザビエルはやってきて、九州鹿児島から京都まで上り、日本人の生活をつぶさにみて、彼は「この国の人々は最高で、日本人より優れている人々を見つけられない」と述べているのです。
もし、ザビエルが、いまの日本にきたとしたら、同じ言葉を吐くでしょうか。
いまの日本を、日本の社会を、日本の政治を、日本の教育を見て、「日本が最高だ、日本人より優れた民族はいない」と感じるでしょうか。
もし「感じない」なら、豊かなはずの現代日本は、
「戦国時代より荒んでいる」
ということです。
なぜでしょう。
どこが違うのでしょう。
こたえは、やはりザビエルの言葉にあります。
二つ目のポイントです。
それは、
「彼らは驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる」
です。
その「名誉心」はどこから生まれてきているのでしょうか。
「他の何ものよりも」「重んじ」ているのです。
それは「決して逃れられない自己の帰属先」があるからこそ、「他の何よりも」となるのではないでしょうか。
そしてその「決して逃れられない自己の帰属先」こそが、血縁というものなのではないでしょうか。
三つ目のポイントは、ザビエルが日本を指して「国」といっていることです。
このブログで何度となく申上げていることですが、当時の世界にあっては、白人諸国からみれば、東洋やアフリカに「国」はありません。
そこは蛮族の支配するテリトリー、もしくはエリアです。
何度も繰り返し申上げているように、当時の概念では、異教徒は「人」ですらありません。
簡単にいえば、人の姿に似ている猿です。
ですからたとえば朝鮮半島などは、李氏というボス猿がいる朝鮮族という猿が生息するエリアです。
そんなことはない。李氏朝鮮という立派な国だったというのなら、では、当時の李氏朝鮮に、住民登録はあったのでしょうか。
土地の所有を明確に示す登記の制度はあったのでしょうか。
地方行政のシステムはあったのでしょうか。
何もないです。
どこからどこまでが、李氏朝鮮の国かすらわからない。
白丁と呼ばれる一般の民衆は、名を名乗ることすら許されない。
つまり、野良猫と同じです。
死んでも、誰も振り向かない。
そこに汚いゴミがあるだけです。
飼い猫なら、死んだら飼い主は手を合わせるし、中にはお葬式までしたり、埋葬までされるし、なかには法事さえも行われることがあるかもしれません。
けれど、そういうやさしい猫好きな人でも、道路に車に跳ねられた猫の死骸を見つけたとき、せいぜいハンドルをきって自分の車が猫の屍体に触れないようにするくらいです。
猫より、自分の車が大切なのです。
おそらく手を合わせる人さえ、ほとんどいないことでしょう。
名前がないというのは、その野良猫と、飼い猫の違いと同じです。
李氏朝鮮の時代の朝鮮半島では、女性に至っては、国王の実母でさえ、名前がありません。
ミンピなどというのは、伊藤博文がその名をつけてあげただけで、それまでは名前がない。
国王の母というのは、国でいちばん尊貴な女性です。
そのいちばん尊貴な女性ですら名前さえなかった。
つまり、野良猫と同じとみなされていたのです。
その朝鮮に、Chinaから毎年、貢ぎ物の女を貰い受けに督使がやってきます。
そのとき朝鮮族の王はどうしたか。
南大門で、国王は督使を迎えます。
そしてChinaのその女をもらいにきた督使に対し、毎度、恒例で行っていたのが、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」の礼です。
「跪(き)!」という号令で、ひざまずき、一叩、二叩、三叩の号令で、手を地面について頭を地面に、ガン、ガン、ガンと打ち付ける。
これを三回繰り返えす。
ですから、都合9回、額を地面に打ち付ける。
ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン。
ガン、ガン、ガン。
Chineseからすれば、甘やかすとすぐに自己肥大に陥る朝鮮族という猿に対しては、国王(ボス猿)にそうやって膝まづかせて、どちらが上なのかを、毎度、明確にしてやらなければ、コイツら何をしでかすかわからない、くらいの思いがあったのかもしれません。
この端から見れば、あまりにも露骨で卑屈な「三跪九叩頭」が、Chinaの属国としての李斯朝鮮で、なんと400年もの間、毎年続けられていたのです。
もっとも、肝心の朝鮮族の方は、その400年の間に、そのあまりにも馬鹿にされた礼法が、かれらにとっては、世の「常識礼法」となったようで、明治16(1883)年9月に李氏朝鮮王が米国に対して派遣した朝鮮全権大使一行が、米国アーサー大統領公式訪問した際に、ホワイトハウスで、まさにこの「三跪九叩頭」をしています。
要するに400年の歳月で、恥を恥とも思わなくなったということです。
けれど、私には、下の図は、東洋人の恥さらしにしか見えない。
朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問
朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問
(News Paper 1883/9/29)

要するに、当時の李斯朝鮮というのは、国ですらない。
李氏一族と、両班が仕切っているだけの朝鮮族という猿の一族が生息するエリアでしかなかったということです。
その猿の一族のひとりひとりに、名前をつけ、背広を着せ、世界ではじめて猿を人間として扱ったのが日本だったわけです。
ところがいまでは、その日本に対して、猿は「創氏改名を強要された」という。
冗談じゃあないです。
文字をみてください。
「創氏」です。
「氏名」の「氏」を創ったと書いてある。
逆恨みもいいとことです。
問題は、そこです。
「創氏」つまり、「氏」がないということは、「氏」の名誉もなかった、ということです。
「氏」の名誉がないということは、血縁の重さを名誉心に結びつける道徳的規範さえもなかった、ということです。
その原始的な猿社会に、冒頭の教師は、日本を誘導しようとしている。
ひらたくいえば、この教師は、日本人を猿にしようとしている。
なるほど猿なら、血縁はないし、氏もないし、遠く離れた親戚を思う気持ちもない。
結婚という習慣もなく、性は乱交です。
日本は、国が荒れた戦国の昔ですら、猿ではなく人であるという誇りと名誉の心をもって人々が生きてきたのです。
それを、子の教育を委ねられた教師自体が、日本人の猿化の一翼を担っている。
正気の沙汰とは思えません。
私はいつも身近な人に申上げ、また心がけていることがあります。
それは、
「それを百年続けたらどうなる?」
ということです。
血縁関係という家族の紐帯を失わせ、国民のひとりひとりから家族という血縁を解いて、バラバラにする。
それを百年続けたら、どうなるのでしょう。
みんながバラバラ。
親でもなければ子でもない。
国民全員が、ただの個人として生きる。
それは自由かもしれません。
けれど、その先になにがある。
そんな状態を百年続けたらどうなる。
人は、重荷を背負うから成長するのです。
血縁の重さを失うということは、無責任とわがままな社会を招くということです。
私達日本人は、私達の子や孫の時代をよりよくするためにも、教育を冒頭のようなボケた教師たちから取り戻す必要があります。
というか、取り戻さなければならない。
あたりまえのことです。
ここは日本なのです。
この日教組と、本気で戦おうとしたのが、第一次安倍晋三内閣、中山成彬文部大臣(当時)、義家弘介参議院議員です。
今回、安倍自民党総裁が誕生しましたが、なんとしても次の選挙では、中山成彬先生に政界復帰していただかなくてはなりません。
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