農林10号は、ターキーレッド(上)、フルツ達磨(中)を交配して生まれました。

小麦は、米、トウモロコシと並ぶ世界三大穀物のひとつです。
なかでもいちばん生産量(消費量)が大きいのが小麦。
パンやパスタが主食となる欧米では、小麦は、国家の食糧自給のための最重要品目です。
ですからどこの国でも小麦の生産は国が統括しています。
あたりまえです。
国民あっての政府なのです。
何よりも自国民の食を最優先する。
国が管理し備蓄しなければ、万一の際に国民が飢えてしまいます。
従っていずれの国においても国内で生産された小麦は、まず自国で消費備蓄する分を政府が優先して確保します。
余った分だけ、輸出にまわります。
凶作で余らなければ、輸出はありません。
こうなる困るのは輸入国のほうですが、ところが日本では、かつては全国どこにでもみられた麦畑が、いまではほとんど見かけられなくなりました。
自給率が百パーセントあった小麦は、いまでは年間消費量約600万トンのうちの90%を輸入に頼るようになっているのです。
輸入先は一位米国、二位カナダ、三位オーストラリアです。
なぜか大東亜戦争の戦勝国たちです。
そしていま、我が国が輸入している小麦は、実は日本生まれの小麦です。
昭和20年、戦勝国として日本に乗り込んだGHQは、日本が開発し研究してた農作物の新種の種子を大量に収集し米本国に送りました。
それはそれはすさまじいもので、根こそぎ全部持って行ったのです。
この中心となったのが米国人農学者のS・C・サーモンです。
彼はGHQの農業顧問として来日し、そして日本で開発された「農林一〇号」と名付けられた小麦のウワサを聞きつけます。
そして岩手の国立農業試験場まで、自ら出向くと、収穫前の「農林一〇号」を視察しています。
そこで彼が見たもの。
それは、これまで世界の誰もが目にしたことのない新種の小麦だったのです。
まさに驚愕の歴史がここにはじまります。
当時、世界で生産されていた小麦は、背の高い小麦です。
収穫時の高さは1m20cmくらいになります。ところが「農林一〇号」は、背丈が60cmくらいです。
そのくせたわわに稔った実は、米国産の小麦の数倍です。
実はこのことは小麦の栽培にあたって、とても重要なことなのです。
背丈が半分ということは、地面から吸い取る栄養分が、背の高い品種の八分の一ですむということです。
葉や茎に要する栄養分が少ないからです。
ところがそれまで世界で生産されていた小麦は、背が高く、大きくて、実が少なかったのです。
小麦の収量をあげるためには、とにかく密度を濃くして植えるしかない。
なので、苗から苗までを、およそ15cm間隔で植えたといいます。
すさまじいです。
稔る頃にはものすごい密度になる。
ところがこれをやると、農地の栄養分がまたたくまに吸い取られ、土地が痩せてしまうのです。
このため何年に一度は土地を休ませないといけなくなる。
つまり広大な農地が遊休地になるのです。
当然、その分、収穫高が落ちる。
ところが「農林10号」は、なんと五〇センチ間隔で植えられるのです。
しかも背が低く茎と葉が小さい。
だから余計な栄養分を地面から吸わない。
それでいて背の高い小麦より、はるかにたくさんの実を稔らせる。
つまり、土地が枯れない。
しかも単位面積あたりの小麦の収穫量は、当時の米国産小麦の三〜五倍です。
農学者のサーモンは、驚愕し、「農林一〇号」の種子を全部集めて東京に持ち帰り、米本国の農業学者たちにこの種子を「ノーリン・テン」の名前で送ってしまったのです。
この種子を受け取ったなかのひとりが、ワシントン州のO・A・フォーゲルでした。
彼は、サーモンから入手した「ノーリン・テン」を栽培し、量を増やし、新型小麦「ゲインズ」という名前で、全米の農家に売りに出しました。
この種子は全米で大当たりします。
全米で驚異的な出来高をあげたのです。
小麦の収量は、一気に4倍にも膨れ上がったのです。
「ゲインズ」が、大当たりしたことには、もうひとつのファクターがあります。
それは「ゲインズ」が背が低かったことです。
なぜ背が低いのが喜ばれたかというと、背が低くて安定しているから、たわわに実を稔らせても麦の茎が倒れないのです。
栽培途中で倒れた麦は収穫できません。
倒れないということが、いかに大事なことか、おわかりいただけようかと思います。
さて、このゲインズの噂を聞きつけたのが、メキシコで農業研究をしていた米国人農学博士ノーマン・ボーローグです。
彼がどうしてメキシコで小麦の研究をしていたかというと、メキシコは高温多湿で地味が肥えているから、小麦の栽培に適していたからです。
ところがメキシコには小麦にサビ病という風土病があります。
これが発生すると収穫が激減し、その都度メキシコは飢饉に見舞われていたのです。
ボーローグは自らメキシコに出向き、伝染病に強い小麦を研究していました。
そしてようやく病気につよい品種を完成したのです。
彼は狂喜しました。
けれど、ダメだったんです。
彼が完成した小麦は、背が高くて、病気に強く、稔りが多いのです。
これだけ聞くといっけん完璧なようですが、稔りが多くて背が高いから、麦が収穫前に倒れてしまうのです。
倒れた小麦は育たず、収穫できません。
結果ボーローグの開発した新種の小麦は、肝心の収穫高がむしろ「減ってしまった」のです。
これではなんのために開発したのかわかりません。
ボーローグは困り果てていました。
そこに飛び込んできた情報が「ゲインズ」の大成功のニュースだったのです。
ボーローグがワラをも掴む思いだったことは容易に想像がつきます。
彼は、メキシコに「ゲインズ」を取り寄せると、さっそく自らが開発した品種と掛け合わせ、ついに、「稔りが多くて、背が低くて、収穫期に倒れず、土地を痩せさせず、病気に強い」という「理想の小麦」を完成したのです。
なんとこの功績で、ボーローグは国連農業機関員にまで出世している。
彼は、国連の機関員として、発展途上国各地の農業を視察するとともに、各国から農業研究者をメキシコに呼び寄せて技術指導をし、指導を受けた者たちに、この新種の麦の種子を持ち帰ることを許可するという制度を開始しました。
「制度を開始」したのです。
冒頭申し上げたように、小麦は大切な国内食材です。
だからメキシコでも、米国以外への種子の持ち出しは厳禁だったのです。
このことは逆にいえばS・C・サーモンが日本から種子を根こそぎ持って行ったということが、いかに横暴な出来事であったかということでもあります。
さて、ボーローグがメキシコの法まで改正して、ようやく世界にむけて新種の小麦の普及が図られ出した昭和四〇年頃のことです。
この年から翌年にかけて、インド、パキスタンで、冷害による大凶作が起こりました。
数千万人が、飢えて死亡する事態になったのです。
ボーローグは、インドに数万トン単位で、この新品種の種子を送り込みました。
そしてこの種子が稔ると、なんとインドの小麦の収量は、全土で二倍になり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルにまで食が安定したのです。
この事件をきっかけにボーローグの小麦は「奇跡の麦」と呼ばれるようになりました。
そして世界に普及し、世界の小麦収量を激増させています。
いま世界全体で生産される小麦は年間6億トンです。
けれど農地(作付)面積は1960年から変わっていないのです。
そして当時の小麦収量は、全世界で2億トンです。
つまりボーローグの「奇跡の麦」は、世界の小麦収量を3倍に増やしたのです。
これは「緑の革命」と呼ばれています。
今から二百年ほど前、英国の経済学者トマス・ロバート・マルサスは、世界の人口はまもなく食糧栽培能力を上回り、人口はそれ以上に増えることはない」と主張しました。
当然です。人間は食い物の量以上に増えることはできない。
ところが奇跡の麦は、世界の食糧事情を好転させ、おかげで世界の人口は、200年前の3倍に増えました。
おかげで世界の人口も、3倍に増えたのです。
ボーローグは世界の食糧不足の改善に尽くしたとして1970年に、ノーベル平和賞を受賞しています。
ところが、長い間ボーローグの「奇跡の麦」が、なぜできあがったのか、謎に包まれていたのです。
それが明らかになったのは、彼が講演のために来日したときで、本人の口から、日本で生まれた「ノーリン・テン」を親として開発された小麦であることが明らかにされました。
いま世界の人類の生存を支えている小麦の品種は数百種類に及んでいる。けれどそれらは、ことごとく日本で開発された「農林一〇号(ノーリン・テン)」の子供たちです。
そしてその「農林一〇号」を開発したのは、日本人農学者稲塚権次郎博士です。
ちなみに稲塚権次郎博士は「農林一号」も開発しています。
「農林一号」は、コシヒカリ、ササニシキの親です。
いま、小麦の生産高はChinaが世界第一位になっています。
けれどChinaはもともと世界第一位の生産国だったわけではありません。
これまた戦時中に「農林一〇号」を開発した稲塚権次郎博士が、北京の華北産業科学研究所に農業指導のために招かれ、小麦の改良と指導を行った結果です。
稲塚博士は、終戦後も国民党政府から「帰らないでくれ」と懇願され、終戦後二年もChinaに留まり、本土に復員されたのは昭和22年になってからのことでした。
おかげでChinaの小麦収量は3倍になり、当時5億だったChinaの人口は、いまでは15億になっています。
さて、ここから先は、こうした経緯を振り返って、私が個人的に感じたことです。
あくまでも感じたことなので、失礼があればお赦しください。
先の大戦で、日本が前半戦において、まさに破竹の快進撃をしたのはご存知の通りです。
当時の帝国陸海軍は、まさに神に近い強さを持っていました。
米英濠仏、いずれも日本軍に敵う軍隊はなかったのです。
フィリピンを守っていたマッカーサーも、強大な陸軍を誇りながら、一瞬にして制海権、制空権を日本軍に奪われ、陸戦においても我が陸軍の前にまるで歯がたちませんでした。
しかも我が軍はハーグ陸戦条約を遵守し、あくまで戦地の民間人が退去するまで、その地への攻撃をしかけなかったし、攻撃するのも敵の軍事施設のみに焦点をあてた精巧な攻撃を行っています。
日本軍は、まさに世界最強の神にも通じる皇軍の兵士だったのです。
ところがある日を境に、我が軍は敗退につぐ敗退となりました。
まるでツキが落ちたかのようです。
打つ手打つ手が裏目にでています。
で、思うのです。
もしかすると日本の八百万の神々は、未来を見据えていたのではないか、と。
もし日本があの戦争に勝つか、あるいは昭和十八年の時点で米英と講和条約を結んでいたらどうなったか。
おそらく米英との敵対関係は継続されます。
インドもパキスタンも、英国領のままです。
日本にはすでに「農林一〇号」はあったけれど、三大穀物の種子は友好国以外輸出禁止です。
であれば昭和四〇年に起こったインド、パキスタンの凶作時、英国領である同国に「農林一〇号」は行き当たらなかった可能性がある。
そうなると、インド、パキスタンは、億単位の餓死者を出した可能性があるのです。
日本が戦争を終わらせ、GHQが日本で開発された「農林一〇号」を米本国に持ち帰ったことから、米国の小麦収量は劇的に上がり、メキシコで病気に強くなり、奇跡の麦が誕生し、それが世界に普及しました。
おかげで世界の人口は三倍に増えました。
インド、パキスタンも、餓死者を最小に止めることができ、それどころか今ではインドは小麦の輸出国でさえあります。
一方戦の序盤から中盤にかけて日本が勝利を連続させなければ、その後の東亜諸国の独立はなかったであろうし、世界の人種の平等も確立されてなかった、これも事実です。
日本の八百万の神々の御心は、我々凡人には計り知れません。
けれど、もし未来を知る八百万の神々なら、どう判断し、どう行動したであろうかと想像してみると不思議なのです。
日本を最後まで勝たせて世界の飢餓を招くか、それとも日本を敗戦に導いてでも世界の民衆の幸福を図ろうとするか。そのような選択肢を前にしたら、神ならずとも、後者を選択します。
そして日本で開発された小麦はたしかに世界を飢えから救ったのみならず、世界の人口を三倍に増やしているのです。
さらに日本が掲げた人種の平等、植民地支配の終焉という壮大な目的も、日本は国土を焼土としたけれどたしかに実現しています。日本は戦争の目的を達しているのです。
しかも焼け野原となったはずの日本は、終戦直後の世界の最貧国状態から、ほんのわずかな期間で、世界有数の富める国となっています。
おかげで国を守るべき政治家までが「平和ボケ」するくらいの平和と繁栄を手に入れています。
言い換えれば靖国に眠る236万柱の英霊は、世界に人種の平等を実現しただけでなく、世界を飢えから救い、戦後日本の平和と安全と繁栄を実現したのいえるのかもしれません。
そしてそういうことを我々日本人が謙虚に学び、英霊への感謝を捧げるとき、日本と世界は再び大いなる発展のときを迎えるのではないかと思うのです。

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