
みなさんは、小園安名(こそのやすな)という名前をお聞きになられたことがおありでしょうか。
小園安名氏は、元大日本帝国海軍航空隊の大佐です。
所属は海軍厚木三〇二航空隊です。
三〇二航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る、日本海軍史上最強最精鋭の航空部隊です。
精鋭の中の最精鋭の隊員を揃え、最精鋭かつ最強の軍人を長につける。あたまえのことです。
小園大佐が、いかに優秀な方であったかがわかろうというものです。
しかし戦争が終わり、日本が占領統治となり、サンフランシスコ講和後も実質は被占領国で居続けたことにより、小園大佐は、ある種の異常者として語られるようになりました。
要するに、終戦を境に、正が邪に、邪が正として語られるようになったのです。
けれどみなさん、私は思うのです。
政治な歪みから物事を見るということが、いかにくだらないことであり、いかに人々に不幸をもたらすか。
その良い例が、中華人民共和国です。
中共政府は、いうまでもなく中国共産党による政府です。
その中共の国家は、昨日の記事にも書きましたが、国名や国歌からして日本と多大な関係がありながら、反日を国家の柱とし、日本とChina共産党軍は、いちども干戈を交えたことはないのに、Chinese民解放軍は抗日戦線の英雄とされています。
そして、それらを推進した中共政府は、諸湯輪33年からの毛沢東の大躍進政策によって、15年で英国の経済力を抜くと豪語しながら、かえって経済を衰退させたのみならず、三千万人以上と言われる餓死者を出しています。
そしてさらに昭和40年にはじまる文化大革命では、一説によれば、一千万人以上の死者を出したとされています。
さらにチベットでは、150万人を虐殺。
そのどこが人類や国民に平和と幸福をもたらす政権、政治といえるのか、世界はもっと冷静に実情をみるべきです。
さて、今日のお話は、小園安名大佐です。
昭和20(1945)年8月15日の正午に玉音放送が流された後、海軍厚木基地では、小園司令が、三〇二航空隊隊員に総員集合を命じました。
このときの小園司令の訓示です。
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降伏の勅命は、真の勅命ではない。
ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。
日本政府はポツダム宣言を受諾した。
ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。
よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。
ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る。
今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。
小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。
しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。
自分は必勝を信じて最後まで戦う。
~~~~~~~~
そして小園司令は、全員に向かって、
「帰郷せんとする者、離れてよしっ!」と声をかけました。
全員に、自己の判断で行動しなさいと言ったわけです。
そして、戦いの継続を望まない者は、その場を離れなさいと、命じたのです。
けれど、誰一人その場を立ち去る隊員はいませんでした。
翌、8月16日、小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信し、陸軍や国民に向けて檄文のビラを用意しました。
そのビラの文章です。
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国民諸子に告ぐ。
神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。
いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在なり。
必勝国体を護持せん。勤皇護国。
皇軍なくして皇国の護持なし。
国民諸君、皇軍厳として此処にあり。
重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。
之真の忠なり。之必勝なり。
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このビラは、零戦が首都圏に散布し、月光が関東東北に、彩雲が中部に、銀河が北海道・中四国に散布しました。
同日、厚木の小園司令のもとには、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられます。
けれど、小園司令はこれを拒絶しました。
米内海軍大臣は、横須賀鎮守府三航艦司令長官である寺岡謹平海軍中将に小園司令の説得を命じました。
寺岡中将は、厚木基地に向かいました。
寺岡中将と小園司令は、30分ほど会見しました。
そして会見は「決裂」しました。
8月17日、小園司令の問題は、深刻な事態となります。
米国から、マッカーサーが8月30日に厚木基地に降り立つと連絡があったからです。
ところが厚木基地には、小園司令らが徹底抗戦を主張して立て籠っている。
武装も解いていません。
いまだ戦時体制のままです。
やむをえず海軍上層部は、陛下にこれを上奏し、陛下に直々に「隠忍自重の勅語」を発していただくことにしました。
同時に米内海相は、横須賀鎮守府に厚木基地の「強硬鎮圧」を命じました。
ところが、命じられた横須賀鎮守府の寺岡中将は、断固としてこれに抵抗しました。
寺岡中将の心は、むしろ小園司令とともにあったからです。
しかし日本は、広島・長崎に原爆まで落とされています。
すでに本土防衛線も突破され、日本中の都市は空襲で焼け野原です。
陛下の大御心は、常に民の安寧にあらせられます。
このうえさらに日本の大都市部に、次々と原爆を投下されたらどうなるか。
だからこそ、陛下は日本はポツタム宣言受諾をご英断されたのです。
日本という国家が、終戦という選択をしたのです。
軍は、国家の意思によって動くものです。
たとえ納得できないことであったとしても、軍人は国家の意思に逆らうことは許されるべきことではありません。
8月18日、小園司令はその心労からか、突然40度もの高熱を出してしまいます。
南方戦線在任中に感染したマラリアが再発したのです。
しかし高熱を発していても帝国軍人です。
彼は床に伏せませんでした。
8月の酷暑の中を、軍服をしっかりと着たまま、床にも伏せずに満々とした闘志を揺るがせません。
これだけでも常人には真似のできないことです。
いかに小園司令が気迫のひとであったかがわかります。
8月20日になると、海軍兵学校で小園の一期後輩でもある高松宮宣仁親王海軍大佐、 第三航艦参謀長・山澄忠三郎大佐らが厚木基地にやってこられました。
小園司令を説得するためです。
そして小園以下、厚木基地に立て篭もる隊員たち全員を集め、「陛下の大御心」を伝え、抗戦体制を終結させようと説得しました。
みなさん、厚木基地は、どうなったと思います?
誰も説得に応じなかったのです。
彼らは猛暑の中を正装して滑走路に整然と整列し、親王殿下と参謀長の話に聞き入りました。
けれど、誰ひとり、その闘志を迷わせることはなかったのです。
8月21日になりました。
この日、さしもの豪傑の小園司令も、高熱のために意識が混濁を始めます。
このままでは司令の命が危ない。
山澄参謀長らは、軍医長の少佐に命じて、小園司令に解熱のための鎮静剤を打つことにしました。
けれど、小園司令は、これを拒みます。
みんなで小園司令を押さえ込んで、注射しようとするのだけれど、そうすると小園司令は、暴れてまでしてこれを拒まれました。
ようやく全員で取り押さえて注射をすると、小園司令は軍刀を抜いて、抵抗しました。
普通、40度を超える熱を出していたら、人間、そうそう動けるものではありません。
まして鎮静剤まで打たれたら、人間、もはや体は動かなくなるものです。
にもかかわらず、小園司令はモウロウとしながらも、断固その意思を貫こうとしたのです。
その気迫たるや、まさに鬼気迫るものがあります。
やむなく付近にいた全員で小園司令を取り押さえました。
そして革手錠まではめて、海軍病院に搬送しました。
当然、基地にいた誰もが、司令の療養のためと思いました。
ところが小園司令が搬送された先は、野比にある海軍の精神病院(現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)、しかも収容先は精神科病棟への強制収容だったのです。
司令が何処かに連れ去られた厚着基地では、三〇二空の航空隊員たちが、一部の仲間たちの制止を振り切り、零戦・彗星・彩雲など32機に分乗し、基地から脱出しました。
このうち、零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は、陸軍児玉飛行場へ降り立っています。
残る一機は、消息不明です。
おそらく単機、敵艦船を求めて太平洋をさまよい、ひとり太平洋に散華されたのだと思います。
その心を思うと、私などは泣けて泣けて。
小園司令がいなくなり、航空兵が飛び立ったあとの厚木基地は、8月22日、軍の命令によって、残る士官全員が、強制退去となりました。
そして8月23日、厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいり、飛行場の片付けと整頓にはいます。
そして8月26日、米軍先遣隊の輸送機13機が厚木に着陸し、8月30日連合軍最高司令官マッカーサーが厚木に降り立っています。
以上が、終戦直後の厚木事件の顛末ですが、小園司令はその後どうなったのでしょうか。
司令はそのとき、精神病棟にいました。
病院内での小園司令に対する処置は、それは酷くて苛烈なものだったそうです。
なお闘志をあきらめない小園に、最重要危険人物に対するもっとも峻烈な後ろ手を十字に組ませた手錠をかけ、食事さえも与えなかったといいます。
もっとも後ろ手に拘束された小園司令自身が、むしろ食事を与えられても断固それを口にしなかったのかもしれません。
けれど、病棟は、水さえ一滴も与えませんでした。
これは史実です。
小園司令は、猛暑の中で、喉の渇きを潤すために、床を転げて自分の小便をすすられたといいます。
10月15日、巣鴨拘置所で厚木航空隊騒擾事件の横須賀鎮守府臨時軍法会議が開かれました。
軍法会議出席のため、小園司令は巣鴨に移送されました。
つい二ヵ月前までは、鎮守府参謀として執務した、懐かしい司令部の建物です。
けれど、こんどはその建物が、今おのれの裁きの庭になる。
この日、小園司令の目には、そんな感慨めいた光が宿っていたという話もあります。
小園司令が巣鴨に到着したとき、遠巻きに小園を取り囲んだ輪の中から「小園参謀!」と声をかけた者がいます。
それは若い、情報係の山梨少尉でした。
山梨少尉は、8月11日の朝、日本がポツダム宣言を受諾したとの海外放送を、小園司令に伝えた男です。
山梨の方を見た小園の口元に、かすかな微笑みが浮かび上がりかけたそうです。
けれど、それはほんの一瞬の出来事でした。
小園司令は、MPにせかかれて、建物の中に姿を消してしまわれたのです。
山梨少尉は、拘束衣に縛られ、見る影もなく痩せた小園司令の姿に、「あの参謀長が・・・」と絶句し、涙がとまらなかったそうです。
小園司令は、かって横須賀鎮守府の名参謀として知略をふるい、戸塚長官や幕僚たちまで震え上がらせた猛将です。
厚木基地では、敵戦闘機や爆撃機をなんと120機も撃墜、そのうち80余機は、あの空の要塞B29の撃墜です。
若い士官たちは、小園司令を心から尊敬していたのです。
その小園司令のあまりにも変わり果てた姿に、山梨少尉は、青年らしい怒りと、同時にその理不尽な姿に、悲憤の涙を流したのです。
小園司令に対する裁判は、その日のうちに判決が出されました。
判決は、「党与抗命罪」です。
そして失官し、無期禁固刑が言い渡されました。
これが昭和20年8月から10月にかけての出来事です。
昭和27年、サンフランシスコ講和条約が発効しました。
けれど、小園司令が刑務所から出所となったのは、昭和28(1953)年になってからのことでした。
出所した彼は、生まれ故郷の鹿児島県加世田(かせだ)市に帰り、そこで農業をしながら、静かに余生を過ごされました。
そして昭和35(1960)年11月4日、家族に看取られて57年の生涯を閉じられました。
中田整一さん書いた「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」という本があります。
いまは講談社文庫にもなっています。
その本の中に、淵田美津雄氏が戦後、小園司令に会われたときのことが書いてあります。
その日、小園元司令は、「あの時降伏などするのではなかった」と、快活に語っていたとのことです。
たしかに客観的に考えてみると、終戦当時日本をさんざん悩ませていたB29は、終戦後まもなく戦場の第一線から姿を消しています。
なるほど、終戦までの時点では、B29は世界最強の空の要塞でした。
高度8000メートルで飛来するB29に対し、零戦などの旧型戦闘機は、どんなに頑張っても高度6000メートルがやっとであり、まるで勝負にならなかったのです。
これを小園大佐は、作戦をもってB29の高度を下げさせ、さらに飛行機の銃頭を斜め上に向けることによって無理矢理弾を届かせるように工夫し、B29を撃墜していたのです。
ところが同じ頃、日本の長崎の工廟では、ジェットエンジンの開発が行われていました。燃料は麻油です。
これが量産段階にはいっていれば、日本は戦争に勝ってしまったかもしれないのです。
なぜなら、当時世界最強だったB29は、大東亜戦争終結後まもなく戦場から姿を消していますが、速度が早く、上昇高度が高いジェット戦闘機の前では、ただの空に浮かぶ速度の遅くて的の大きいただのネタにしかならなくなったからです。
このエンジンを搭載した戦闘機や爆撃機が登場していたら、おそらく戦況は一変していたことでしょう。
なぜなら、ジェットエンジンを搭載した航空機の前には、当時のいかなる戦艦も航空機も、まるで歯がたたなかったからです。
けれど、陛下の大御心は、戦争の終結を望まれました。
なぜなら、日本が戦況を一変させる前に、もうあと2〜3発の原爆を日本は投下された危険があったからです。
そうなれば、何十万の無辜の民が死ぬ。
陛下は、戦いに勝つことよりも、無辜の民の命を守ることを選択されたのです。
そのおかげで、私達は生きている。
そのご恩を、やはり私達は、しっかりと感じ取る必要があるのではないかと思います。
それともうひとつ。
今日、どうしてもお伝えしたいことがあります。
それは、日本の社会では、実績があり誰からも慕われる偉人が、必ずしも幸運な晩年をすごしてはいないということです。
小園司令は、数々の武勲をたてた空の勇者であり、大東亜戦争末期には帝都上空を守る最精鋭航空隊の司令に任ぜられるという優秀さに加え、部下からもたいへんに慕われる、まさに「立派な帝国軍人」です。
にもかかわらず小園司令は、戦争が終わると、こんどは逆に精神病患者という扱いを受け、拘束着を着せられ、刑務所に入れられ、日本がサンフランシスコ講和で独立を回復してもなお1年、刑務所から出してもらえず、晩年は細々と農業を営み、静かにこの世を去っています。
歴史をたどれば、土佐藩の改革に見事な実績を残した野中兼山、治水事業で実績を残した水戸藩の松波勘十郎、関宿藩の船橋随庵も同様に、さみしい晩年を迎えています。
これはいったいどういうことでしょうか。
ひとつ思うのは、人生の最後がどうあれ、民衆のために、そして国のために藩のために、誠意をもち、勇気をふるい起こして人生を捧げ抜いたという意味において、小園司令もまた、まさに「我が人生に悔いなし」という誇りを胸にお亡くなりになったのではないかということです。
そしてそれは、何にも替えがたい、至高とさえいえる人生の勲章なのではないかと思います。
さみしい晩年を送りながら、なぜ、それが至高といえるのか。
それは、彼らが日本人であり、日本人としての価値観を濃厚に持った方々であったからです。
人生の目的や価値を、名聞名利においたのではない。
人生の目的や価値を、立身出世や経済的成功においたのではない、ということです。
日本人は、古来、肉体は滅び、形あるものはいつか壊れても、魂は連続し、永遠に営むと考えてきました。
いいかえれば、心は不滅なのです。
一年草の雑草が、生えては枯れ、また翌年にはつぼみを出して花をさかせるように、人もまた、生を繰り返す。
人は、繰り返し産まれ、生き、そして死んで行く中で、自己の持つ魂をより至高なものに成長させていく。
そして、より多くの人々の幸せのために生きることが価値あることとするならば、今生の名聞名利や経済的成功などよりも、やるべきことをやりぬいた、という人生にこそ、価値があるといえるのではないか。
それが、日本人の日本的考え方であったように思うのです。
小園司令については、いまでは、賛否両論、さまざまな評価がなされていると聞きます。
けれど私には、そのような他人の評価など、なんの関心もありません。
それ以上に、小園安名という人が、この日本にいて、国土防衛の柱として、見事その人生を捧げられた。
そのことに、私は最大限の感謝をし、また小園安名司令という人が、私達日本人と同じ日本人であったことを、心から誇りに思うのです。
小園大佐の半生については、明日、続きの記事を書きます。
【ご参考】
◆野中兼山
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1089.html
◆松波勘十郎と船橋随庵
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1569.html

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