
まず、上の図を見てください。
(図はクリックすると拡大できます)
これが大東亜戦争開戦前の東亜の姿です。
戦前の外務省に、「調査官」という制度がありました。
今風にいえば「スパイ」ということになるかもしれません。
けれど、陸軍中野学校などでもそうなのですが、日本における調査官というのは、欧米のスパイ映画に出てくるような、いわゆる「工作」を行うスパイとは、かなり様相が異なります。
現地の人にまじり、現地の人と一体となって信頼関係を築き上げ、その土地土地のさまざまな状況を調査する。
そういう機関でした。
なぜそうなのか。
簡単にいえば、当時の東亜諸国は、いわゆる「工作」をするようなところではなかったのです。
「秘境西域八年の潜行」(中央公論社)という本があります。
戦前、まさにホンモノの外務省調査官だった西川一三(にしかわかずみ)さんという方が書かれた本です。
氏は、三巻にわたって大東亜戦争当時の東亜諸国についての詳細なレポートを書き綴っています。
西川氏は、昭和18年、外務省の調査官として、Chinaの内蒙古に入り、ラマ僧に扮して、そこから寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、西康、シッキム、インドをめぐり、チベットの古都、ラサで終戦を迎えました。
ラサでは、市内近郊にあるレボンという寺に修行に入り、ラマ僧として2年間生活しています。
寺を出たあとは、再びヒマラヤを越えてインドに向かい、インドの仏教遺跡巡りをはじめました。
昭和25年6月、彼はインドからビルマに足を延ばそうとした矢先に、インド政府に拘留されて、日本に送還されました。
日本に上陸した彼は、上陸と同時にGHQによって逮捕され、6ヶ月間にわたる取り調べを受けています。
取り調べにおいて、彼は8年間の行状について、詳細な報告をしています。
すべて記憶だけで報告しているにも関わらず、日時、場所、人名、地名、建物や街の状況について、あまりにも報告内容が正確であったため、取り調べにあたった米国の調査官が、その記憶力の確かさにおどろいたと伝えられています。
この本は、彼の行脚の模様を、そのまま本にして綴ったものなのですが、その中にこんな記述があります。
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旅の途中、漢族のバトという少年がついてきた。
チベットで、少年は、当時流行した天然痘を患った。
少年は、全身に発疹ができ、最後には顔の何処が鼻だか口だかわからないほど変形し、死んだ。
この時代のチベットに、薬などはない。
天然痘にかかったバド少年は、ラマ僧によって悪魔払いの儀式を受けたのである。
これが当時の唯一の治療法だった。
バドは、9歳の若さで亡くなった。
そして村はずれの死体置き場に置かれ、翌日には鳥につつかれ狼に食べられて骨だけになった。
世界はそれほどまでに貧しかった。
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戦前の世界を、いまの価値観、世界観で把握したら、大きな間違いをします。
東亜諸国は、植民地として収奪され、餌食にされ、教育を奪われ、私有財産を奪われ、何もかも失った「貧困が支配」していたのです。
ではみなさん、その「貧困」から脱出するためには、何が必要でしょうか。
すこし考えていただきたいのです。
まず、働いても収入を支配者たちに持って行かれる。これをなんとかしなきゃなりません。
では、白人たちの支配から脱却するためには、何が必要でしょうか。
まず「教育」が必要です。
このことには議論の余地はないと思います。
民衆が無学文盲では、新国家の建設は不可能だからです。
「教育」のためには、そのためのインフラとしての学校が必要です。
「学校」に通うためには、子供達が安心して学校に行ける通学路の整備と子供達の安全の確保のための警備が必要です。さらに警備する人たちの訓練が必要です。
学校を作ったら、学区を編成しなくてはなりません。
そのためには、行政制度の整備が必要です。
行政制度の整備のためには、行政官の育成と行政組織の整備が必要です。
また育成された新しい現地の行政官たちが、旧支配者やその同調者たちから襲われることがないよう、現地人の教練が必要です。
そしてそれらを行うためには、莫大な投資費用を提供してあげる必要があります。
その全てを、ごく短期間の間に、日本の軍人さんたちは、東亜諸国で実施したのです。
経費はもちろん、全部、日本のお金です。
当時、東亜の人々を支配していた白人にとっては、黄色人種は「人」ですらありませんでした。
若い白人女性が部屋で素裸になっているところに、掃除のためにと東洋人男性が入ってきても、騒ぎにもならない。
それはまるで犬や猫が部屋にはいってきたのと同じものでしかない。
もちろん、白人男性がそんなところに入ってきたら、これはもう大騒ぎになります。
白人女性が、庭先に出て、地面にお菓子をまく。
そこに東洋人の子供達が、まるで鳩の群れのように、大勢たかってくる。
それが東洋人の姿でした。
支配者と、被支配者。
とりわけ肌の色の異なる人種間におけるその関係と落差は、まさに天と地だったのです。
これに近い状況は、戦後、GHQに占領された日本においても、その片鱗を見ることができます。
当時の上野の駅は、旅費がなくて故郷に帰れない浮浪者の宿泊施設と化していました。
私などがまだ小学生だった昭和30年代でも、街のあちこちで、ボロをまとった乞食の姿をよく見かけたものです。
ただ、日本人が6年8ヶ月の占領を経由してもなお、人としての矜持を保つことができたのは、ひとえに、戦前の高井レベルの教育と、古くからある道徳を重んじる日本人の気質が、その後の国家の再生を支えたのです。
大東亜戦争は、日本が起こした侵略戦争だと言う人がいます。
けれど、それはねつ造されたデタラメの史観であり、プロパガンダです。
日本は、明治の開国以来、日本人の自主独立のために戦い続けました。
そして同時に、日本の自主独立のためには、日本だけでなく東亜諸国の自主独立も必要だったのです。
そして世界でただ一国、自主独立を果たし、欧米列強と並ぶ地位を築いた有色人種国日本には、アジア解放のための期待が集まり、同時に白人諸国にとっては、日本は世界最大の敵となったのです。
黄文雄さんの著書に「捏造された日本史」という本があります。
そこには、次のような記載があります。
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日本がアジアから白人を追い出し、日本の国益を確保するには、アメリカと対決するしかなかった。
日米決戦(太平洋戦争)は日清、日露戦争と同じようにもともと無理な戦争だった。
しかし、日米戦争は、日露戦争と同じようにアジア諸民族に大きなインパクトを与え、東亜の諸民族を覚醒させ、ナショナリズムを形成させたのである。
数百年にわたる西洋植民地体制が日本側の一撃でもろくも崩壊したのである。
アジア諸民族からすれば、神にも近い位置に君臨していた白人が、遂に負けたのである。
シンガポールが陥落したとき、イギリスに亡命していたド・ゴールも、「アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した」と日記に書き記したほどだ。
日本の敗戦後、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは再び東南アジアに舞い戻ってきたが、時代は既に変化していた。
かつて支配下に置かれていた有色人種はいつの間にか変わっていたのである。
日本軍によって編成され、訓練された独自の軍隊が東南アジア各地にあり、しかも人々はナショナリズムに燃えていた。
再来した欧米の支配者にはもう押さえる力が無かった。
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日本の勇敢な戦いによって、世界は変わったのです。
小室直樹氏の「日本の敗因」には、次の記載があります。
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大東亜戦争は、アジア解放戦争である。
何よりの証拠に、戦後、帝国主義諸国の植民地が次々と独立した。
大東亜戦争の結果、国際法ががらりと変わった。
戦前には、被保護国、属国、植民地などが国際法上、認められていた。
治外法権を課せられた国や関税自主権がない国、主権を持たない国もあったし、半独立国、半主権国もあった。
つまり、大東亜戦争までは、世界は帝国主義の時代が長らく続いたのである。
戦後直ちに、それら旧来の制度を一掃する動きが始まった。
植民地は続々と独立した。
全ての国は主権を持つ独立国であるという大原則が確立されたのである。
第二次世界大戦には世界中に広がっていた植民地は、たちまち、ほとんど全部が消滅した。
この事実を高く評価するアジア、アフリカの人は多い。
それどころか、侵略側である欧米の国際法学者もこの事実を否定できない。
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昭和32(1957)年5月に、岸信介首相がインドを訪ねた時のことです。
インドのネール首相は、歓迎挨拶の式典で、次のように述べました。
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私がまだ若いとき、日露戦争がありました。
その頃、東洋人は西洋人に敵わないというのが普遍的な考え方だったのです。
いわんや、西洋の大国と東洋の小さな島国が戦えば、負けるのが当たり前です。
ところが日本が勝ってしまった。
これが私の一生を決定しました。
それまでイギリスには絶対に敵わないと思っていた東洋人の私が、インドの独立のために生涯を捧げることになったのです。
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下にあるのが、大東亜戦争開戦後の東亜の様子です。
(図はクリックすると拡大できます)

開戦後、わずか半年で日本はこれだけのエリアから白人帝国主義者たちを追い出し、それぞれの現地において、各民族自立のための、立法、司法、行政の各制度を整え、子供達に教育を施し、青年たちに独立のための軍事教練を施しました。
そしてそれらすべてが、日本の経費で賄われた。
もちろん、食料等、軍票(軍用貨幣)によって現地調達したものもあるけれど、終戦まで、日本軍の軍票は、東亜でもっとも信頼される通貨のひとつであったことも、特筆すべき事柄です。
このことは、日本が行った占領統治が、欧米が行った植民地政策とは、まるで内容の異なる者であったことを示しています。
なぜなら、欧米における植民地政策は、現地から教育を奪い、立法、司法、行政権のすべてを奪い、現地の各民族をまるごと奴隷として支配するものであったからです。
そして、東亜諸地域で高まった独立の気運は、日本の終戦後(注1)も燃え盛り、上の地図にない、インドや中央アジアの諸国までをも民族の独立に至らせました。
そのきっかけを作ったのは、間違いなく日本です。
(注)最近、「日本の敗戦後」という表現をよくみかけます。
これは昭和20年8月15日、または9月2日のことを言っているのでしょうか。
この年日本は、あくまで戦闘行為を自主的に終結させたのです。
従って、終わったのは「戦闘行為」であって、「戦争」が終わったのではありません。
戦争状態は、その後、昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効のときまで続いています。
連合国と日本は、その間ずっと戦争状態にあったからこそ、日本は連合国の軍政下(占領統治下)におかれたのです。
もし日本がその前に、つまり昭和20年の段階で「敗戦」していたとするならば、その時点で戦争は終結しており、終結しているならば、連合国による占領統治もありえません。
なぜなら日本が占領統治の「軍政下」におかれたということは、日本が交戦状態にあったからこそ正当化されることだからです。(戦争が終わっているなら、軍政はありえない)。
従って、「敗戦」ではなく、あくまで「終戦」と呼ぶのが正しい呼び方です。
せっかくですので、もうひとつ書いておきます。
上の図で、朝鮮半島は、台湾や千島、樺太同様「大日本帝国」となっています。
このことをもって、現代朝鮮人は日本による侵略であったと言い立てていますが、それは違います。
日本は朝鮮の「依頼によって」、朝鮮半島を「属国」とし、さらに「日本」にしたのです。
そのおかげで朝鮮半島は、他のどこの地域よりも多額の日本からの援助を得、産業を振興させ、人々は教育を受け、女性はまるで野良猫のように名前すら与えられない状態から脱皮して、ちゃんと名のある人間となり、さらに生涯乳を露出しなければならないという不都合から脱することができたのです。
現代韓国人が、日本による統治が気に入らない。日本統治以前の李氏朝鮮の時代が恋しいというのなら、どうぞ、韓国人女性は、両方の乳を露出した「民族服」姿を取り戻してください。
もしかしたら、世界中の男性が、歓迎してくれるかもしれませんよ。
すくなくとも私は、吐き気がしそうで見たくありませんが。


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