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オルガンを弾く日本兵

友人のFさんからいただたお手紙です。
ご本人のご了解のもと、転載させていただきます。
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「厚情」に生きる
65歳で父が急逝してから、母はよく父との思い出話をして聞かせてくれました。
父を懐かしむ思いで、寂しさを紛らわせるのには、誰かに話さずにはいれなかったのでしょう。
それは、この人と一緒になれたことの自慢話でもあるようでした。


終戦後、ベトナムで抑留されていた父が帰国してから、二人は結婚して、しばらくしてからの事です。
夫婦二人で、田畑の耕作仕事に精出していたときに、突然、父が鍬を放り出して、大変な勢いで駆け出したのです。
ぬかるんだ畦道を、一目散に道路の方に駆けて走って行きました。
遠くの方に人影を見つけて、向かった相手の人に、勢いよくぶつかるように駆け寄って、お互いの肩を抱き寄せて、
「オオーー」とそれは大きな声で、こちらの方まで嗚咽が聞こえるほどに、涙をながして、再会を歓びあっていました。
相手の方は、父が終戦時にベトナムで、フランス軍の占領で抑留された時に、自ら志願して「一緒に残らせてください」と申し出てくれ、常に身の回りの世話を引き受けてくれていた部下の戦友の山越さんでした。
それは、お互いに無事に帰国出来た、喜びの再会でした。
数年間を戦中に過ごし、ようやくの終戦の知らせ。
トップの上官は、様子を察知して、早々に帰国をしてしまいました。
残された部隊には、父の位より上の上官は、もはやそこには居ませんでした。
復員を待ちわびて随分月日がたちました。
やっと帰国命令が出たとき、部隊の者全員が港の桟橋の埠頭出ました。
桟橋には帰国船が横付けされていました。
皆なの心の中には、ようやく帰国できる喜びに、満ち溢れていたことでしょう。
乗船のために、鉄塔のある兵舎で、フランス軍の占領下、視察官の検閲を待っていたときです。
父は、福井師範学校での外国語選考でフランス語を少し習っていました。
「アメリカは敵国だから英語は嫌いやった、フランス語ならいいやろう」といった理由からだったようでした。
フランス軍の指揮官がなにやら、命令していました。
父には、その言葉が、はっきりと理解できました。
「今、ここにいる部隊員のなかで、最高責任者は誰だ」
暫らく沈黙が続きました。
そして、何人かの上官の名前が呼ばれました。
だいぶ後でしたが、「藤田」とたしかに聞こえました。
身体を一歩前に傾けかけようとしたとき、横に整列していた戦友が、服の裾をひっぱって止めようとしました。
小声で、「黙っていても、誰が責任者か判断できません。そのままにしていたほうがいい」とささやいてくれました。
随分、悩んだとおもいます。
刻々と時間がたつばかりです。
皆の、じっと沈黙が続いています。
父は一歩前に進み出ました。
「私が藤田です。この部隊の内で、今残っている全員の中で、私が最高責任者です。私がここに残ります。どうか他の者は乗船させてください」と申し出たのでした。
部隊員の帰還の許可は出ました。
しかし父は、戦犯の疑いが晴れるまで抑留されることとなりました。
皆の乗った船の出港を桟橋から見送ったときの寂しさは思いようもなかったことでしょう。
傍には一人だけ帰国船に乗らなかった人がいました。
「藤田さんの為に、ご一緒させてください、私もここに残ってお世話します」
それが、山越さんでした。
父はこの戦友の方の心に随分と励まされたことでしょう。
いや、父よりもむしろ、勇気のいる行動だったかもしれません。
戦犯として残るのです。
残った時点で、命はないも同然だったのです。
無常にも、船は桟橋を離れて東の方に向けて出航しました。
 かねてから
 かくあるものと 念(おも)へども
 持ち物没収(とら)れ
 囚人(とらわれ)の身となる
ベトナム抑留での監獄生活は、随分と難儀なものであったと思います。
母から聞いた話ですが、
外の方から  “チチチッ”  と小鳥の鳴く声が聞こえてきます。
それを聞いて、「ああ、もう朝なんだ」と判断したそうです。
時計もなにもなく、ゆっくりと時間が過ぎました。
父は短歌をしたためる趣味がありましたので、短歌を詠んで、退屈のないように時間を過ごしたようです。
父は母にポツリと、
「腹がへっていると、頭の記憶力が良くなって、詠んだ歌がそっくり良く憶えられるんや、そして、それを紙をもらったときに、全部書き写しておいたんや」と話していたようです。
それらを持ち帰って後に残してあったのを、私の弟によって冊子印刷製本をしたのが「紫花(チーハ)日誌」です。
この短歌集の歌の中には、父のその当時の心境が込められています。
抑留中に、よくベトナムの現地の方が訪ねて来てくれたそうです。
戦時中にも、現地の方との親交は、けっこう多くあったようです。
お陰で、随分と助かったようでした。
私の弟が聞いた話では、戦時中でもご当地のお祭りなどの日には、敵方に伝令をして停戦日を決め、休戦中は隊員も村のお祭りに参加して交流の機会を設けたそうです。
フランス軍の軍事裁判を待っているそんなある時、親しくしていたベトナム人の、部族の酋長のような方が、わざわざ訪ねて来てくれたそうです。
「藤田氏は犯罪人ではない、むしろ温厚な素晴らしい人です」と占領軍に申し出てくれました。
その酋長の証言と弁護により、無事に解放されたそうです。
日本からの引き上げ船を待つまでは、しばらくベトナムで現地の人のお世話になりながら滞在していたようです。
迎えに来てくれた船は、今は練習船になっている帆船「日本丸」だったそうです。
そして、帰国してからの戦友との再会のシーンです。
このような体験の下、後になって教職に就いてからも、ある時、校下の部落差別問題が発生して大勢の父兄が連なって学校まで寄せて来た際に、他の先生方は校長、教員共に一斉に教員室から避難しましたが、父は独りで残り、「私がお話をお聞きします」と堂々と対応して、穏便にその場を話し合いで治めました。
その後は「猟で取ってきた山鳥をあげる」と一羽まるごといただいたりして、ご父兄の方々とお付き合いが続いたそうです。
そういったようなエピソードは数多く残っています。
戦前の教育は日教組とは全く違います。
「身命を賭ける」
人は、時として、命に賭けても苦難を乗り越えなければならない事に、遭遇する事もあります。
それらを勇気をもって自分で解決し、克服して乗り越えていくのがこの世に生まれて生きていく本当の意味なだと思います。
真に、このように立派に、他の戦友の為に自我、我欲を捨てて、命を賭けた父の勇気ある行動を褒め称えて、その人生に学び、私も見習いたいと思います。
それは「人の為になろう」という、愛の姿でもあると思います。
何もしないで怠惰な人生を長く過ごすよりも、むしろ、この世でのカリキュラムを何度も経験して生きていく。
父は、65歳で突然の死が訪れました。
けれど父は、満足してあの世に旅だったと思います。
私は、そう信じます。
勲五等瑞寶賞授与。
光栄な人生を送った父の縁者であることの幸せを、あの世にいる、父に感謝の念を捧げて、二十五回忌の供養とさせていただきたいと思います。
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