
梅雨も開け、暑い日が続くようになりました。
夏と言えば海。海と言えば、思い出すのが日本が他国侵逼の難に遭った日本史上最大の難となった「元寇」です。
元寇といえば、なにやら「神風が吹いてモンゴルの大軍が蹴散らされた」というイメージが強いのですが、実は、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と二回あった蒙古襲来事件のうち、神風が吹いたのは、二度目の襲来事件である弘安の役の方だけです。
天は自ら助くる者を助くといいますが、日本の八百万の神々は、日本が本気で我が国を守ろうとしたときに、まさに神風を吹かせて国を守ってくださった。
まずは、なによりも私達自身が「国を守ろう」という明確な意思をもたなければならないということを、元寇は、時代を越えて私達に教えてくださっているように思います。
元寇の事件を詳しく見てみると、Chinaの影響下にあった朝鮮半島の悲哀と残虐性、いい加減な国民性、日本の中にある非戦論者と、国を守る強い意思を持つ者の決断など、さまざまな史実をそこに見てとることができます。
いま、尖閣や竹島をめぐり、日本は再び他国侵逼の難を受けようとしています。
元寇をいかにして日本が撃退したのか。
いま、そのことを学び直してみることも、なにか意義のあることなのではないか。
そんな気がします。
ちなみに、東北地方の山間部には、いまでも「モッコ」という言葉があります。
「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」なのだそうです。
実は、「モッコ」は、モーコ(蒙古)がなまった言葉です。
九州で起こった元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれている。
それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代に、人々に大きな恐怖を与えたできごとだったわけです。
文永5(1268)年のことです。
高麗(いまの朝鮮)の使いが日本にやってきました。
Chinaの元王朝、フビライの書簡を持って、九州の太宰府にやってきたのです。
いまも昔も朝鮮人は、Chinaの使い走りとして利用される。
このときも同じです。
ただ、おもしろいことに、この書簡をフビライが書いたのは1266年のことです。
その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまで、なんと2年を経由しています。
書簡は2年間もの間、高麗国で停滞していたのです。
当時高麗は元の属国です。
属国である以上、Chinaの元王朝が日本に攻めるとなれば、最前線となる高麗国は、兵員や食糧を負担しなければなりません。
これはたいへんな負担です。
高麗王朝は、この書簡の取り扱いをどうするか、これは大問題です。
なにせそれまでやったことのない、朝鮮族が他国を攻めるという大事件です。
ものすごい国費もかかる。
そこで彼らが何をしたかというと、フビライの国書を握りつぶした。
黙って大人しくしていれば、もしかしたら「忘れてくれるかもしれない」と思ったのかもしれません。
けれど、元は強硬です。
国書がどうなったのか。日本にちゃんと届けたのか。矢のような催促が来る。
だいたい、他国の、しかも支配者たる元の国書を、属国が握りつぶすということ自体が、姑息です。
しかたなく高麗は、日本にその国書を届けた。
高麗が国書を届けたのは、日本の九州にあった太宰府です。
当時、太宰府は、China・朝鮮をはじめとするアジアに向けられた日本の玄関口です。
そのときのフビライの国書です。
口語訳したものを掲載します。
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【大蒙古国・国書】
天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。
大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきた。
はるか遠方の国々も大蒙古帝国の代々の皇帝を恐れ敬い、家来になっている。
私(フビライ)が皇帝になってからも、高麗は我々に降伏して家来の国となった。
私(フビライ)と高麗王は、父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。
高麗は私(フビライ)の東の領土である。
日本は、昔から高麗と親交がある。
Chinaとも貿易をしていた。
にもかかわらず、私(フビライ)に一通の手紙を出すでもなく、国交を持とうとしない。
日本は、我々大蒙古帝国のことを知らないのか?
だとすれば困ったことなので、特に使いを送る。
この国書を通じて私の気持ちを伝える。
これから日本と大蒙古国とは、国交を持ち、仲良くしていこうではないか。
我々は全ての国を一つの家と考えている。
日本も我々を父と思うことである。
このことが分からなければ、大蒙古帝国は、日本に軍を送ることになる。
が、それは私の好むところではない。
日本国王はこの気持ちを良く考えて、返事をしてほしい。
至元3年8月(1266年・文永3年)
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実に一方的な言い分です。
相互に仲良くしようというけれど、それは国と国との対等な関係ではない。
支配者と被支配者の関係でのことです。
一通の国書も送らないとケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、Chinaを父と思えと小馬鹿にしたようなことを書き、それに異存があるなら、軍を送るよ、と書いています。
そもそも「全ての国を一つの家」と考えることは、日本の八紘一宇の思想にもあるけれど、それはあくまでも、ひとり一人、互いを尊重しあうという共存共栄の関係であり、支配と隷属の関係ではありません。
ただ、当時のフビライの元帝国は、Chinaから遠く東ヨーロッパまでを支配下に置く、大帝国です。
その軍事力は膨大であり、とても日本の太刀打ちできるだけの相手ではありません。
書簡を受け取った太宰府はこの書簡にたいへん驚きました。
太宰府は、鎌倉の幕府にまず報告をあげ、幕府は、この事実を朝廷に報告します。
朝廷も書簡を見て、さぞかし驚かれたことと思います。
ニュースは、日本中を駆け巡りました。
国内の大きな寺院や神社では、蒙古が来ないように、あるいは来ても追い払えるようにと、加持祈祷祈が行なわれます。
一方、鎌倉幕府では、蒙古の書簡到着からわずか6日後に、北条時宗が執権に就きます。
このとき、時宗、わずか18歳です。
幕府内では、連日、この蒙古の書簡をめぐり、会議が行なわれました。
断固戦うべきか、それとも戦わずに何らかの和平工作を行なうべきか。
けれど結論は容易に出ません。
時宗も、この時点では、まだ執権職に就いたばかりで、積極的な発言ができる状況にありません。
鎌倉での議論は、連日続きます。
元は日本に「属国となれ」と言ってきているのです。
では「和平」とは、何を意味するのか。
結論の出ない日本に対し、フビライは、続けて何度も高麗経由で使者を日本に派遣します。
ところが、日本にはその催促の書簡は、まったく届いていません。
なぜかというと、高麗が、天候が悪いの、海が荒れたのと屁理屈をつけて途中で帰ってしまったり、日本に蒙古と通交するようにすすめたりと、フラフラとしていたのです。
まるでらちがあかない。
フビライは怒ります。
4度目(日本には2度目)の使者として、Chineseの趙良弼を日本に派遣しました。
これの事実は、実はたいへん重要です。
つまり、フビライがChineseの趙良弼を使者に立てたということは、フビライが属国である高麗王朝を、まったく「信頼に値しない国」とみなした、ということだからです。
ですからフビライは、趙良弼を使者にたてるに際して、6千人の兵を、趙良弼につけて、高麗に送り込んでいます。
人数が6千ということは、日本への侵攻、あるいは進撃、あるいは日本への外交的圧力のため、ということではありません。
もしそうであるならば、兵力は一ケタ違うはずだからです。
6千の兵力というのは、日本に対する圧力という以上に、言を左右にして言うことを聞かない高麗への圧力をかけた、ということです。
一方、6千もの兵を送り込まれた高麗は、これは大騒動になりました。
蒙古に攻められないように、早々に元の属国となると宣言し、元の属国となることで、虎口をしのいだはずだったのです。
ところが、元帝国は、実際に軍を高麗に派遣してきた。
このChina兵の派遣というのは、日本の自衛隊がPKO部隊を海外に派遣するのとはわけが違います。
なぜなら、Chinaでは、皇帝は軍の派遣は命じるけれど、派遣された軍は、食料は自前で調達なのです。
軍兵が動けば、必ず兵站(へいたん=食料)の問題が生じます。
その食料を、後方からの支援、つまり国内からの輸送で賄おうとするのは、あくまで日本人の常識であって、世界の、特にChinaにおける常識ではありません。
Chinaでは、兵站は、軍が現地で調達する、というのが常識なのです。
Chinaの代々の王朝は、兵に出兵は命じます。
けれど、食料はお前たちで勝手に調達しろ、というのがChinaにおける派兵の常識なのです。
拒否する者は、殺す。
それだけのことです。
こういう軍兵が、6千人もやってきたのです。
高麗国では、たいへんな騒ぎになりました。
なにせ、China兵の軍団というのは、イナゴの大群と同じです。
通り道にある、ありとあらゆるものを食い荒らす。
食うだけではなく、女を犯し、さらに村人まで食べてしまう。
郊外の村人のみならず、高麗の首都にまでやってきたChina兵は、高麗の首都の女を犯し、食べ物をあさり、住民を煮て食べてしまいます。
高麗王は、被害が王室にまで及ばないように、朝鮮全土から食料を調達し、牛馬を集め、野菜や米を集めました。
このため、
「人々は草や木を食べて飢えをしのいだ」と、高麗史は記録しています。
一方、軍使となった趙良弼は、ごく少数の兵だけを連れ、日本の太宰府にやってきます。
(6千の兵は、高麗に残したままです)
そして、「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言い放ちます。
もちろん太宰府は、鎌倉へ、また京都の朝廷へと、連絡を取り、判断を仰ぎます。
人が動いて博多から鎌倉、鎌倉から京都へ、そして再び博多へと連絡をとるのです。
たいへんな日時がかかります。
その間、趙良弼は、待つしかありません。
けれど、4ヶ月間も滞在したのに、鎌倉からも京都からも、何の連絡もありません。
太宰府では、「いま少し、いま少し」と適当なことを言って、いっけん誠実そうに振る舞っているけれど、肝心の国書への返事がないのでは、どうにもならない。
趙良弼は、フビライへの報告のため、いったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて、それからまる一年、日本に滞在します。
趙良弼のこの滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。
軍使でありながら、敵将(この場合は日本)からの返事をもらえないのです。
それでは勤めを果たしたことにならないし、勤めが果たせないとなれば、趙良弼は、一族郎党親類縁者まで、全員、みせしめのためにフビライに殺されてしまいます。
ですから日本から返事のもらえない趙良弼としては、次善の策として、詳細な日本の国力調査書を、フビライに充てて提出するしかなかったわけです。
もっとも、この報告書は、たいへんよく書けていて、フビライは「大変よくできている」と、満足したと記録されています。
おかげで、趙良弼は、軍使不要領としての死罪を免れています。
こうして最初の使いから6年が経過しました。
そして、時は文永11(1274)年1月のことです。
しびれを切らしたフビライは、ついに「高麗に対して」日本遠征のための造船を命じます。
半端な数ではありません。
大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、あわせて900艘の大船団用の船の建造です。
「これを10ヶ月以内に完成させよ」
これがフビライの命令です。
高麗がこれを拒否すれば、高麗王朝は、たちまちのうちに蒙古に攻め滅ぼされてしまう。
高麗王は、造船のために、人夫3万5千人、その他、食糧・材料の木材をかき集め、なんとか船の建造を実現させます。
ところが、勝手に徴用された高麗人(いまの朝鮮人)たちは、突然の苦役のために、一家の主を徴収され、たちまち生活が苦しくなります。
このときも、多数の餓死者が出たと、高麗史は記録しています。
さて、期限の10ヶ月の間に、高麗は軍船900艘を整えました。
「整えた」と書くと、高麗国も「やるときはやるんだな」と思われるかもしれません。
けれど、現代社会においてさえ、韓国が請け負った橋梁工事は橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名です。
このことは、いまも昔もかわらりません。
まず高麗は、軍船を作るにあたり、頑丈なChina式ではなく、簡単な設計の高麗式の船を作りました。
外洋(大海原)向けの船ではなく、沿岸用の船としての仕様の船を建造したのです。
大きな波をかぶる外洋船と、波のない沿岸用の船では、その強度がまるで違います。
しかも、建造をしたのは、それまで船になど触ったこともない、強制徴用された農民たちです。
仕事は、まさに「やっつけ仕事」でしかなかったのです。
ちなみに在日朝鮮人、在日韓国人の二世、三世の方とお話していても、仕事でありながら彼らの口癖で「とりあえず」という単語が、会話の中に、気になるほど沢山出て来ることに気付かされます。
なんに対しても、「とりあえずやっておこう」というわけです。
心がこもっていない。体裁だけ整える。
それで仕事が「とりあえず」できたことにしてしまう。
それが高麗王朝の昔から続く、コリアンの伝統的な仕事の仕方です。
文永11(1274)年10月3日、いよいよ日本に向けての出兵がはじまりました。
China兵6千人、高麗兵2万4千人、合わせて3万の大軍団が、900艘の船に分乗して、高麗の合浦を出港しました。
軍団は、10月5日には対馬を襲い、14日には壱岐に襲いかかりました。
島の人口は、老若男女合わせて、数百人です。武装すらない。
そこに完全武装した兵、3万がいきなり襲いかかったのです。
武装がなく、抵抗できない相手に対して、何十倍もの兵力で襲いかかり、ありとあらゆる暴虐を尽くす。
戦前の通州事件や、尼港事件、終戦直後の半島人やChineseの残酷さを考えれば、壱岐対馬の方々が、このときいかなる惨状となったのか、推して知るべしです。
実際、日本側の記録にも、博多湾にやってきた元の船団は、壱岐、対馬の人々を、男女とも素裸にしたうえで、男は手に穴を開けて船縁に吊るし、女は髪の毛で船縁から吊るしてあったとされています。
およそ人間のすることじゃないです。
900艘の軍船は、10月19日には博多湾に集結します。
そして10月20日、彼らは、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津への上陸を開始する。
迎え撃つのは、太宰府の防人たちです。
鎌倉からも、防衛のために多くの武士たちが終結していました。
ちなみに当時の日本の武士というのは、まだ専業化はされていません。
つまり、全員が兼業農家です。
武士というのは、馬上の鎧武者で、言ってみれば、比較的裕福な農家の男の子が、鎧兜に身を包み、馬に乗って出兵していました。
農家の長男坊や次男坊が「いざ鎌倉」の掛け声で、馳せ参じたのです。
当然のことながら、家にいる親は子供が心配だから、出兵する子には、小者を4~5人をつけて出征させ、身の回りの世話をさせます。
武者絵などでも、おおむね、馬上に武士が描かれ、その武者の周囲に4~5人の雑兵が描かれていますが、これが、その武士の家人の小者たちです。
この時代の日本のいくさは、両軍が対峙すると、双方の陣地から腕自慢の者が名乗りをあげて前にでます。
そして、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申す者なり。腕に自慢のあるもの、おであえそうらえ」と声をあげる。
すると、相手陣営からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申す者。いざや尋常に勝負、勝負~~」とやる。
そして互いに一騎討ちをはじめます。
小者を含めた、両軍の全員が見ている前での、まさに真剣勝負の一騎打ちが行なわれるのです。
しかも、中央で一騎打ちしているのは、両軍の中でも名だたる勇者です。
一騎打ちする武者の一挙手一投足に、両軍の兵士たちが、まさに熱狂する。
これはいまでいったら、K-1や、ボクシングのビック・タイトルマッチみたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は両軍の武士や小者たち)にとって、これは大興奮の見物です。
しかも、いまの日本武道館のプロレスや、ボクシングの試合どころではない。
まさに真剣勝負そのものです。
こうした一騎打ちが、何人か続きます。
両軍とも、興奮の絶頂に達する。
いまでも、相撲の興行などで、ひいきの力士が負けたりすると国技館に座布団が舞いますが、これと同じです。
ただし、場所は屋外です。
座布団の代わりに、そこらに落ちている石が飛んでくる。
つまり、両軍入り乱れて、敵軍に向けて、石投げをはじめるのです。
石だって当たれば痛いし、打ち所が悪ければ大けがします。
ちなみに日本の鎧かぶとは、矢は通すし、槍や刀に突かれたら、刺さります。
けれど、兜もよろいも、投石は、実によく防ぐ。
つまり、一騎打ち興行で、大興奮し、石投げ合戦で、熱くなった両軍が、最後になって衝突する。
そして最後に、敵の大将首をあげたら、それで戦は終わりというのが、日本古来の伝統的いくさなのです。
これが戦法として強いとか弱いとか、そういうことではありません。
日本では、たとえ戦といえども、人の命を大切にする。
それが日本人の日本的感性というものです。
こうした日本の戦い方法に対し、Chinaや高麗の兵たちの戦いは、伝統的に奴隷を使った集団戦です。
奴隷には、人権などないし、奴隷の命は、伝統的に使い捨てです。
ですから最前線に立つのは、いつも奴隷です。
奴隷が何人死のうが構うことではない。
China、高麗の連合軍が博多湾に上陸したとき、日本の武士団は、日本の伝統にのっとって、一騎打ちをしようと、「やぁやぁ我こそは」と声をかけます。
けれど、そもそも言葉が通じないところに加えて、前線にいるのは、奴隷である高麗兵です。
いきなり矢が飛んでくる。
ちなみに、ここにも戦いをめぐる双方の文化の違いが明確に出ています。
凝り性の日本人は、弓も矢も、凝りに凝って作りますから、なにせ弓も矢も、いわば芸術品のレベルにまで達した貴重品です。
ですから弓矢を持つのは、馬上の武士だけですし、使われる矢は、名のはいった高級品です。
いくら戦場とはいっても、敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいなくてできない。
雑兵相手なら、小石で充分。
なにせ小石なら、日本の地面には、無料で、しかもいくらでもあるのです。
ところがChina、とりわけモンゴルの戦法というのは、基本的にゴビ砂漠で育った戦い方です。
地面に石なんて落ちていません。
あるのは黄砂だけです。
これでは投げるわけにもいかない。
ですから、いきなり矢を射ます。
矢は、粗製濫造品です。
矢を射るのも奴隷たちです。
その矢を、まるで黒雲が湧いたみたいに、大量に敵に対して射かける。
それが大陸流の戦い方です。
しかも最前線にいるのは、高麗の奴隷兵です。
日本の武士のような名誉もないし、名乗りをあげるなんていう習慣もありません。
上陸したChina、高麗の連合軍の前に、日本の勇者が、「やぁやぁ我こそは・・・」と前に出ると、返ってくるのは、雲霞の如き大量の矢です。
さしもの日本の武士団も、こりゃたまらんと、引きに引いて遠巻きにする。
ただし、上陸してきた兵に対しては、その中の将校クラスの者に対して矢を射ます。
これが実に正確無比。
China、高麗連合軍は、次々と前線を指揮する将官を失い、海辺裏で大混乱に陥る。
夜になると、高麗船めがけて、日本の武士たちが、夜襲します。
ただでさえ、もろい高麗船であることに加え、無理な海洋航海をしてきたばかりの軍船です。
槍で突いたり、斧で舷側に穴を開けるだけで、船は面白いように浸水し、乗員たちは大混乱に陥る。
そこへ武士団が火を放つ。
船はあっという間に燃えていきます。
やむなく、China、高麗兵たちを乗せた軍船は、その夜のうちに沖合に引き上げます。
こうして一夜が明け、翌日の朝を迎えると、あの博多湾を埋め尽くすようにいたChina・高麗連合の軍船が、一艘もいなくなってしまったのです。
要するに、壱岐、対馬のように、島民たちが無抵抗で殺されるままとなったところでは、暴虐の限りを尽くすことができたけれど、いざ、日本に上陸しようとしたら、日本の武士たちによって、驚くほど強い抵抗を受けた。
それで沖合に船を避難させたけれど、そのまま怖くなって朝鮮半島に引き上げてしまった、というのが、実は、文永の役の史実です。
このことについて、高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれているのですが、これはどうやら、いがいな抵抗を受けて逃げ帰ったChina・高麗連合軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説です。
かれらの捏造史観は、いまにはじまったことではない。
実際には、日本側の八幡愚童記などの記録を見ても、嵐のことは一行も触れられていません。
それどころか、「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いてあります。
文永の役は、嵐が来た(神風が吹いた)のではなく、意外な抵抗を受けて驚いたChina高麗軍が、怖くなってそくさくと帰ってしまったというのが真相なのです。
実は、こうした事件の流れは、昭和12(1937)年7月29日に起きた「通州事件」とそっくりです。
通州事件では、数百人しかいな日本人居留民に対して、Chinese、朝鮮人数千人が襲いかかり、きわめて酸鼻な方法で日本人を大虐殺しました。
ところが、事件を知った日本軍が現場に急行すると、Chineseも朝鮮人たちも、まるで蜘蛛の子を散らすように全員が逃げて、消えてしまっています。
相手が武器を持たない無抵抗な民衆なら、ありとあらゆる暴行や強姦、殺戮をするChina朝鮮人は、相手が正規軍であり「強い」とわかると、手のひらをかえしたように、逃散してしまう。
通州事件と文永の役では、663年の時代の開きがありますが、それぞれの民族性は、いまも昔も何も変わっていない、ということです。
さて、こうして文永の役をなんとか乗り切った日本ですが、元帝国のフビライが、この一度きりの戦いで日本をあきらめるとは到底考えられません。
一度侵攻して失敗したなら、こんどはその何倍もの兵力をもって日本に再び攻めかかることは、誰しも簡単に予期できることです。
当時の日本の武門の長は、鎌倉幕府の執権、北条時宗です。
世界最強、遠く欧州までをも勢力圏に収めた元の大軍の前に、日本は戦うべきか、それとも恭順すべきか。
彼は悩みに悩みます。
そしてある日のこと、彼は、敬愛する蘭渓道隆和尚に面談します。
蘭渓道隆は、日本に禅宗を伝えた宋のお坊さんです。
蘭渓道隆は、時宗に次のように語ります。
「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまったのです」
また蘭渓道隆の後継者である無学祖元は、
「莫煩悩(ばくぼんのう)」=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいの意、と時宗に教えます。
時宗の腹は固まります。
日本を護るために断固戦う。

文永の役の翌年の4月15日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を届けます。
「文永の役は、蒙古の恐ろしさを知らせるのが第一の目的であり、早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送る。恭順するなら今のうちである」という内容です。
しかし、ひとたび決意を固めた時宗は、竜の口で、杜世忠一行5名全員を処刑します。
そして見せしめとして首を晒しました。
本来、軍使というものは、斬り殺さないのが原則で、斬り殺すときは、捨て身覚悟で、戦うぞというメッセージのあるとき、となります。
まだまだ、恭順論、不戦論の濃厚だった鎌倉政界において、時宗は「軍使を斬る」ことによって、内外に戦う決意を明確に示したのです。
ところが、ちょいとばかり、やり過ぎてしまった。
軍使をひとり残らず全員殺してしまったので、肝心の元の側は、軍使が死んだという事実が伝わらなかったのです。
元にしてみれば、いつまでたっても軍使の杜世忠が帰ってこない。
やむなく元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。
ちなみに杜世忠も周福もChineseです。
北条時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てます。
こんどばかりは、先の失敗に懲りて、周福だけを殺害しました。
そして前回の軍使である杜世忠も、すでに馘首していることを、噛んで含めて、周福の部下たちを帰します。
軍使が実は、とっくの昔に首を刎ねられていた。
そのことを知ったフビライは、激怒します。
「日本討つべし」
フビライの腹は固まります。
一方、開戦を決意した北条時宗は、全国の御家人に命じて、博多に防塁を築きます。
このとき、工事への参加に関して、時宗は一切の妥協も反論も許しませんでした。
未曾有の国難に際して、一切の反論も妥協も許さない。
ここにも、時宗の固い決意がみてとれます。
政治が「断固たる決意を示す」というのはこういうこだろうと思います。
こうしていよいよ弘安4(1281)年、元は、范文虎を総大将とする大軍を博多に差し向けます。
今回の軍勢は、合計14万です。
前回の4倍以上の兵を、日本に向けて差し向けたのです。
対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人です。
武士だけなら、1万2千です。
兵力でいえば、14倍対1万の戦いとなったのです。
まるで博多湾を覆い尽くすかと思わせるほどの大軍船団です。
上陸してきた蒙古の大軍は、黒雲のような矢の雨を降らせ、さらに爆竹を鳴らして武士たちの乗る馬を驚かせます。
けれど、上陸してきた蒙古の軍団は、堡塁に阻まれ、なかなか前に進めない。
上陸部隊を指揮する指揮官には、日本の武士が、正確無比な矢を射かけ、これを倒します。
将校を失った上陸部隊は、算を乱して海に逃げる。
これを追いかけて、斬り殺す。
一方、搦め手から上陸した蒙古の一軍は、博多の市内にまで侵入し、街に火をつけ、町民を殺戮します。
これを見つけるために、武士団の一軍が、街中で市街戦を挑む。
その日の夜になると、日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦う。
戦線は膠着状態となります。
そうしてやってきたのが、運命の7月1日です。
旧暦の7月1日というのは、いまでいうなら8月16日です。
この日、北九州方面を、季節外れの大暴風雨が襲ったのです。
China、高麗の連合軍が、港を埋めつくしていた軍船は、合計4千艘でした。
それらの船が台風の暴風雨によって、ひとたまりもなく破壊されたのです。
もともと、手抜きの高麗船です。
普通に浮かんでいるだけでも、浸水が激しいのに、台風がきたらひとたまりもない。
船は大破し、乗員たちは海に放り出される。
一夜が空け、暴風雨が去った翌2日、船の残骸と無数の死体が博多湾を埋めつくします。
当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記している。
「高麗史」もまた、「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。
つまり屍体が海を埋め尽くし、その上を人が歩けるほどだった、というのです。
どれだけの被害が出たのか、想像に難くない。
高麗史によれば、このときの生存兵は、わずか19,379名です。
14万の兵力が、一夜にして2万弱になったのです。
すっかり戦意を無くした范文虎ら蒙古軍の将校たちは、残った船で、さっさと高麗へ引きあげてしまいます。
このあたりの、責任者がいの一番に逃げ出すという習慣も、China朝鮮独特のものです。
近代の南京事件においても、日本軍が来るとわかるやいなや、蒋介石は、10万の兵力があったにも関わらず、サッサと南京から逃げ出しているし、南京城守城の責任者であった唐生智も、日本軍強しとみるや、兵を残して自分だけサッサと逃げ出しています。
凡そ、今も昔も、軍は将の命令によって動きます。
将を失った軍は、もはや軍の名にさえ値しない。
しかも、Chinaや高麗の残兵というものは、盗みはするし女は犯す、とんでもない連中です。
おそらく、蒙古兵であるChina、朝鮮兵たちが、正面での上陸戦を挑んだだけであったのなら、日本は生き残った彼らを、捕縛し、一定の取り調べのあと、本国に送り帰したであろうと想像できます。
ところが、彼らは、部分的に上陸し、博多の町で、さんざんな暴行、殺人、放火、強姦を働いています。
かくなるうえは、見つけ次第、彼らを殺すしかない。
日本の武士団は、やむなく残兵掃討を行ないます。
掃討戦は7月7日まで続きました。
捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねたと記録されています。
残虐な殺し方はしません。
いっきに首を刎ねています。
殺害したということに抵抗のある人もいるかもしれないけれど、壱岐対馬での彼らの残虐行為、あるいは博多の市街での彼らの暴虐ぶりを考えれば、これは自業自得というものです。
むしろ、できるだけ苦痛を少なく首を刎ねたというところに、日本の心を見て取れるのではないかと思います。
今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っています。
これは当時蒙古軍兵士たちの首を埋めた場所です。
そして日本は、暴行、生涯、殺人、放火、強姦致傷犯であったとはいえ、彼ら自身も、無理矢理徴兵されてきた者たちにすぎず、しかも人は死んだら仏さんと考えます。
いまでも、博多には、踊り念仏がありますが、これはもともとは、亡くなった蒙古兵たちの霊を慰めるために始められたものです。
さて、元寇については、もうひとつ書いておかなければなりません。
学校の教科書などでは、二度にわたる元寇のあと、鎌倉幕府は、文永、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった・・・外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がない・・・ことから、
「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと記述しているものがあります。
これは、とんでもない言いがかり、もしくはウソというべきものです。
そもそも鎌倉幕府の滅亡は、1333年です。
これは弘安の役の52年後にあたります。
幕府は源(実権は北条氏)家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続きます。
鎌倉幕府は滅んだけど、征夷代将軍が交替しただけで、武家政治は、その後500年続いたのです。
弘安の役から、鎌倉幕府滅亡まで半世紀を経由しているということは、元寇と鎌倉政権の滅亡には、それほど大きな因果関係はない、ということです。
そしてもっと大切なことは、鎌倉幕府以降も、日本では武家政権が続いた、ということです。
これはつまり、「武家が施政者となることを認める社会風潮が我が国に定着した」ということをあわらします。
いいかえれば元寇によって、世間では、武家に対する信用が増した、ということなのです。
なぜなら、もし、元寇で日本が戦わずしてChina朝鮮の軍門に下っていたら、いまの日本はなかったからです。
文永の役と弘安の役、この2つの日本史上の大事件、そしてわずか1万の武家で14万の大軍と対峙したという事実は、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが、国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件だったのです。
さて、一般に「神風」が吹いたとされる元寇ですが、実際に神風が吹いたのは、文永の役、弘安の役と二度あった元寇のうち、あとのほうの弘安の役だけです。
これはきわめて象徴的な出来事であろうと思います。
なぜなら、文永の役の時点では、日本は、まだ戦う決意はしっかりと固まっていませんでした。
たまたま、高麗船舶という、手抜き船舶であったことに加えて、太宰府の御家人たちの奮戦で、文永の役は乗り切ることができましたが、フビライが本気を出した弘安の役では、そうは問屋がおろしません。
けれど、文永の役のあと、ここが極めて象徴的だと思うのですが、武家の棟梁である北条時宗が、明確に「戦う意思」を固め、「断固として国を護る」と方針を明確に決めました。
そして彼は、幕府の閣僚に対し、元の軍使を切り捨てることで、明確に「戦う意思」を示しました。
いまも昔も、人の心は変わりません。
おそらくは当時の鎌倉政権内においても、多くの「護憲九条派」から、彼は、反対と怨嗟の声を浴びたことでしょう。
けれど、リーダーである北条時宗が断固として「戦う意思」を固め、実際に鎌倉武士たちが勇敢に戦いを挑んだとき、日本の八百万の神々は、神風を吹かせ、日本人が私達の国を護ろうとする活動を扶けてくださった。
もっというなら、元寇における真の「神風」は、台風による暴風雨ではなく、「北条時宗の決断」そのものこそが、「神風」だったのではないかと思います。
いや、北条時宗そのものが「神風」だったのかもしれない。
そしてその決断に、日本の八百万の神々が、台風をもって答えてくれたのではないか、と思うのです。
いま、中共は尖閣と沖縄に、韓国は竹島に、領土的野心をむき出しにしています。
そのいまの日本に一番必要なのは、戦う意思を明確に示した北条時宗なのではないか、と思います。
ちなみにその後の歴史は、非常に面白い歴史をたどります。
元は、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、結局は明に滅ぼされます。
高麗は、高麗の将軍であった李成桂が、祖国を裏切り、Chinaと手を組んで李氏朝鮮王朝を築きます。
そして李氏朝鮮は、その後400年間、朝鮮半島の国民にとって、ただの収奪国家として、その後の半島の発展を阻害し、半島の人口も半減させています。
日本に手を出した国は必ず滅びるのです。
そして、元寇にあたり、ほんとうの神風は、実は、圧倒的な軍事力を持つ元の大帝国に対し、祖国を護る意思を明確にした北条時宗の決断そのものにあった。
そして我が国を護るために立ち上がった鎌倉武士団の断固たる戦いの前にこそ、神風は吹いたといえます。
天は、自らを助ける者を助けるといいます。
他国侵逼の大難にあたり、なによりも大切なことは、私達自身が、国を護る断固とした意思を示すこと。
天は、そのときにこそ、力を与えてくれるものなのだと思います。

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