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二本松城
二本松城

日頃尊敬している佐久間先生のFacebookでの投稿から、その一節を、まずご紹介します。
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おはようございます。
会津の「白虎隊」は全国的にも有名だが、我が故郷二本松の「少年隊」の悲劇や武勇を知る者は少ない。
会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳。


二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。
「忠臣蔵」の浅野内匠頭が吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主丹羽光重が、「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを」とひどく悔しがったという。
以来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊の一人、成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったという。
連日の戦いで満身創痍の身体ながら「必ず敵将を斃してやる」と潜んでいたところ、敵将が一隊を率いてやってくるのが見えた。
長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。
才次郎は隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ」というところで、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。
歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。
「子どもじゃ、手を出すでない」と、白井は突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。
だが、それが徒となり、才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。
白井の落馬に驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ず、鉄砲を使い応戦。
才次郎、14歳。
「会津白虎隊」が会津武士道の昇華なら、正しく「二本松少年隊」は二本松武士道の昇華だろう。
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敵将の白井小四郎の墓は二本松市内の「真行寺」に在ります。
少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将の墓前には、今でも参詣者からの香華が絶えることはないといいいます。
二本松には武士道精神が未だ残っているのです。
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幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談(近世国民史)で二本松藩との戦いを、
「兵数不詳の敵兵は地物を利用して、一時我軍は全く前進を阻害された。
我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と論じています。
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大壇口から退却して来た二階堂と岡山篤次郎(13)は大隣寺近くで狙撃され、腹部貫通の重傷を負った。
篤次郎は、その狙撃した土佐藩の兵によって野戦病院だった称念寺に運び込まれるも短い生涯を閉じた。
土佐藩隊長広田弘道は篤次郎の勇敢さに感動し、最期まで決して屈しなかった魂に感激を熱くすると、反(かえり)感状を少年の遺骸の枕元に残した。
その反感状の全文が、蓮華寺という寺の石碑に刻まれている。
 今年十三才にて戦死岡山篤次郎
 敵ながらも甲斐々々敷美少年一色残し置次第
 薩州土州の者憐みいたはりしかども蘇みかへらず
 依てさしおくる一首
 岡山尊公の名は幾世残れかし
 
  君がため 二心なき武士は
  命はすてよ 名は残るらん
事実、篤次郎は眉目秀麗な美少年だったという。
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城中にあった大城代・内藤四郎兵衛は西軍が城下に迫ったと聞くや、
「我は城の主将たり、むなしく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出、奮戦激闘の中、最期を遂げました。
四郎兵衛の最期は、二本松藩士の鑑と称されています。
丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたといいます。
家老・丹羽一学は、
「敗戦は必定なれど、三春に倣うべからず。
二本松は、城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも、武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め、丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎、城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げました。
丹羽一学の辞世、
 風に散る
  露の我が身は いとはねど
 心にかかる 君が行末
は大好きな句です。
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会津藩に比べれば、極小さな藩ですから落城するのは時間の問題だったでしょうが、野津道貫が回顧談で語っている様に、
「兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。
我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。
我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」というのが真実だと思っています。
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二本松藩というのは、いまの福島県二本松市のあたりにあった藩です。
もともとは室町時代に、足利幕府から遣わされた畠山氏が、ここに居城を構え、七代当主のときに、名を二本松氏と改めたことから、このあたりが二本松と呼ばれるようになりました。
江戸期にあっては、戦国時代において、信長の当初からの譜代の武将として有名な丹羽長秀の子孫がこの城に入り、明治維新の戊辰戦争へと向かいます。
冒頭の佐久間先生のお話は、その戊辰戦争のときのエピソードの数々です。
ひとつひとつのエピソードが、たいへん心に迫る歴史の挿話です。
ところで、このお話をみなさまにご紹介しようと思い立った背景は、実はWikipediaの記述にあります。
そこにはこう書いてある。
「1868年(慶応4年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。」
文章自体に、非常に不快感を禁じ得ません。
なぜならそこに、愛がないからです。
みなさんは、冒頭の佐久間先生の文と、このWikipediaの文を読み比べて、何をお感じになるでしょうか。
私は、ここに、戦後の唯物史観に毒された歴史者の、証拠と証拠を見比べ、評価して歴史を淡々と記すという、たいへんに「間違った」歴史との接し方のある種の代表を見るように思えてなりません。
なるほど戦いは一日で決したかもしれないけれど、その戦いは、他の誰でもない、人が行なった戦いです。
そしてひとりひとりの戦った武士たちには、ひとりひとりに忘れ得ぬ物語と感傷があるということを、すっかりと忘れている。
だから、ひとりひとりの武士たちの、その感傷から、何事かを学びとろうとする佐久間先生の文章と、唯物史論的な人間不在の歴史観には、そこに大きな違いが生まれているのだろうと思うのです。
学校の歴史授業がツマラナイ、とよく聞きます。
けれど、歴史というものは、民族のアイデンティティを構築する価値観を学ぶものです。
アイデンティティ(identity)というのは、米国の心理学者のエリクソンが提唱した概念です。
そのエリクソンは、
「アイデンティティが正常に発達すると、人は社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事ができるようになる。
他方、青年期においてアイデンティティが正常に獲得されないと、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごしたり、時に熱狂的なイデオロギー(カルト宗教や非行など)に傾いてしまう」と説いています。
まさに、いまの日本そのものです。
歴史、特に国史を学ぶということは、自分が何者であるかを学ぶ、ということです。
そして日本人が、ほんとうの日本の国史に気付き目覚めたとき、日本は変る。
そして日本が目覚めたとき、ほんとうの意味での正義が世界に開かれるのだと、私は思います。
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