
5月12日 沖縄県宜野湾市で開催されました「沖縄祖国復帰40周年記念大会」(主催:日本会議沖縄など)が開催されました。
この日、壇上に立たれた平沼赳夫先生は、その挨拶の中で、次のお話をなされました。
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中川一郎先生がお元気であった頃、中川グループで沖縄に研修旅行に訪れました。
その中川先生が、旧海軍司令部壕跡を見学された際、
大田実少将の
「沖縄県民斯ク戦へり。後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
の電文を読まれました。
その途端、中川先生の顔色が変わりました。
そしてその場で、自由民主党総裁選への出馬を決められたのです。
大田司令官の電文に込められた思いが、北海の羆と言われた政治家の魂を揺さぶり、託された責任を果たすために立ち上がらせたのだと思います。
その瞬間に現場に居た石原慎太郎先生や私、平沼に強烈な印象を遺した出来事でした。
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大田実少将が、海軍次官宛にこの訣別電報を打たれたのが、昭和20年6月6日のことです。
そしてその7日後の6月13日に、太田少将は豊見城の海軍司令部壕内で自決されています。
このときの電文の全文です。
口語訳したものを掲載します。
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沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告があったものと思います。
沖縄県には既に通信力がありません。
三二軍司令部もまた通信の余力なしと認められますので、私は県知事の依頼を受けたのではありませんが、現状をみすごすことができず、これに代わって、緊急で御通知申しあげます。
沖縄島に敵攻略が開始されて以来、陸海軍は防衛戦闘に専念し、県民についてほとんど顧みる余裕がありませんでした。
けれど、私の知る範囲において、沖縄県民は、青壮年の全部を防衛行動にささげました。
残る老幼婦女子たちは、相継ぐ米軍の砲爆撃のために、家屋と財産の全部を焼却され、わずかに体だけを軍の作戦に差支えのない小さな防空壕に避難させていました。
そして砲爆や空爆や風雨に曝されながら、乏しい生活に甘んじたのです。
そんな苦しい情況のなかで、沖縄県の若いご婦人たちは、率先して軍に身を捧げてくれました。
けが人の看護や炊事はもとより、砲弾運びなどの重労働さえも行なってくださったのです。
なかには、挺身斬込隊すら申し出るものありました。
敵が来れば、老人子供は殺されてしまいます。
婦女子は後方に運び去られ、敵兵の毒牙に供せられてしまう。
親子が生別れ、娘を軍衛門に捨てる親もありました。
看護婦に至っては、軍の移動に際して、衛生兵が既に出発して身寄りがなくなった重症者を助けてくれました。
その行動は、生真面目な心からのものであり、決して一時の感情に駆られたものではありません。
さらに軍が作戦の大転換をしたときも、自給自足のために、敵弾の落ち着く深夜に、遠く遠隔地方の住民地区へ、輸送力がまるでないなか、徒歩で黙々として雨の中を移動してくれました。
沖縄県民のみなさんは、我が陸海軍が沖縄に進駐してきて以来、終始一貫して勤労奉仕をしてくれ、物資が乏しく、節約し続けなければならない苦しい情況のなかにあってさえ、ひたすら彼らは日本人としての御奉公の誇りを胸に抱きつつ、我々と行動をともにしてくれたのです。
本戦闘の末期、沖縄島は地形が変わってしまうほどの酷い状態となりました。
一木一草さえも、燃えて焦土と化してしまいました。
もはや、食べ物も、6月一杯を支えるのがギリギリという状況です。
沖縄県民は、ここまで戦ってくれました。
なにとぞ沖縄県民に対し、我々が死んだあとも、後世、特別な御高配を賜らんことを。
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今年5月12日、沖縄で330余名の日の丸パレードが行なわれ、沖縄祖国復帰40周年記念大会には会場の定員をはるかに超える、約1350名が参加参加してくださいました。
大会は盛況のうちに、最後は会場一杯の日の丸小旗を打ち振り、全員で万歳三唱をして閉会となりました。
けれどその模様は、大手メディアからは、まったく無視され、報道の世界においては、まるで「なかったこと」とされています。
そして不思議なことに、テレビでは、保守系の大会のわずか10分の1以下しか参加者がいなかった左翼反米反基地集会だけが全国ニュースとして報じられています。
しかも沖縄のマスコミは「日本に復帰して40年、何一つ良いことはなかった」を繰り返しました。
中共や、それと歩調を合わせる韓国、北朝鮮、そして反日左翼による沖縄離反工作は、ここまで進んでいます。
けれど、思い出していただきたいのです。
知覧を飛び立った特攻隊員たちは、いったいどこの戦場に向かって飛んで行ったのかを、です。
彼らは、沖縄の海に群がる米艦隊をめがけて、特攻を行ないました。
当時、米艦隊が沖縄に向けて行なった艦砲射撃は、砲弾のなかに数多くの鉄片をしのばせた爆弾でした。
その爆弾は、地上に激突すると同時に、内部に仕込んだ鉄片を四散させました。
赤ちゃんを背負って砲撃から逃げる若いご婦人が、気がつくと、背中におぶった子供の頭がちぎれていた、そんな悲劇もたくさん生まれました。
沖縄では、そんな酷い艦砲射撃が、毎日毎日、絶え間なく続けられていたのです。
けれど、その砲撃が、一斉に止むときがあります。
米粒のような日本の特攻機が、遠くの空から表れる。
すると米艦隊は、特攻機めがけた対空射撃一本になり、その間、沖縄本島等の地上への艦砲射撃が止むのです。
特攻機に乗っているのは、まだ10代の若者です。
そんな若者が、命を捨てて、沖縄県民を守ってくれる。
機体に日の丸を描いた、その友軍機が現れる都度、沖縄の人たちは、心の中で手を合わせたといいます。
そしてそのわずかな時間に、みんなで逃げた。
重症のけが人を背負い、仲間を助け、ご近所のお年寄りを背負って、より奥地の防空壕へと逃れたのです。
沖縄は、たしかに激戦の地となりました。
けれどその激戦は、沖縄をあくまで守りきろうという、若き日の私達の父祖や、沖縄の人々の願いの中に行なわれたものです。
中共や北朝鮮にとって、歴史は、プロパガンタです。
韓国にとっては、歴史はファンタジーでしかありません。
けれど、日本人にとっての歴史は、事実でありヒストリーであり、私達日本民族の価値観の源泉です。
「おきなわ」は、漢字で「沖縄」ですが、語感からすれば「おっきな和」です。
大きな和、すなわち沖縄は「大和」です。
沖縄は、日本です。
絶対にChinaなどに渡してはならない。
今日は私は、断じてそのことを申し上げたいのです。
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