
海外旅行をして驚かされることのひとつに、トイレがあります。
たとえばChinaの場合、まずトイレそのものを見つけるのが困難なころに加え、あってもそのトイレに間仕切りがあることはほとんどありません。
もちろん一流のホテルは除きます。
しかしその個室トイレのある一流ホテルですら、Chineseは扉を閉めないで大をする方が多いです。
ひとつ申し上げたいのは、Chinaが好き、Chineseにも良い人はいる等という方に、是非、伺っていただきたい、ということです。
なにをかと申しますと、なぜChinaのトイレには、扉がないのか。
どうしてそうなったのか、と質問していただきたいのです。
なるほど日本のトイレは、古来、個室になっており、中にはいって鍵を閉めれば、そこは完全個室となります。
これはいわゆる昔ながらの汲取式ボットン便所であろうと、今風の水洗であろうと、江戸の昔であろうと、奈良、平安の昔であろうと、変わることのない日本の風習です。
なぜ日本のトイレには、扉があり、個室なのでしょうか。
なぜ、Chinaのトイレには、扉がなく、出しているところが丸見えなのでしょうか。
そこには理由があります。
日本では、個室トイレに入っていても、そこをいきなり襲われて、扉の外から槍で突かれて死んでしまうなどということは、まず起こりえなかった、ということです。
仮に犯罪者か何かで、追っ手に負われて見つかったとしても、追われる方の人が、たまたまトイレにはいっていれば、追っては用事が済むまで、ちゃんと表で待っています。
もちろん、敵討ちなどで追われる人を殺さなければならない場合でも、です。
義経記をはじめ、奈良平安の昔から、いわゆる戦記物の物語や歴史書はたくさん遺されていますが、その中で、ただのひとりも、武将がトイレで用をたしている最中に扉の外から槍で突かれて殺されたなどという話は、まったく、なにひとつとして出てきません。
でも考えてみていただきたいのです。
相手を殺害する意図を持っているのなら、その相手が用便中に襲撃するのが、いちばん手軽で簡単なのではないでしょうか。
なぜって、トイレで用を足している最中というのは、人間がもっとも無防備な瞬間だからです。
にも関わらず、です。
日本では、古来トイレが完全個室として造られたということは、日本がそれだけ安心、安全な国だったこという、これはひとつの証(あかし)なのです。
このことは、Chinaなどの大陸におけるトイレが、なぜ大のほうもオープンスなのかの裏返しの答えとなります。
その最中に襲われそうになったとしても、扉がなくてオープンなら、ある程度身構えることができる。
つまり誰が来ても、扉さえなければ、迅速に対処ができて安心だ、ということです。
扉があるほうが安心という日本の文化と、扉がないほうが、外敵がきたときにすぐにわかって安心という文化、人が人を殺すことがあたりまえの文化と、そうでない文化の違いがここにあります。
ちなみに、日本では、人を殺すということは、記紀の昔から悪しきこととして忌み嫌います。
それらは古来「穢れ」として忌み嫌われました。
実は、戦国時代でさえ、日本の武将たちはできる限り人を殺さないように勤めています。
信長、秀吉、家康の三代の時代をみると、信長だけがやけに残虐性の高い人物として描かれていますが、これもどうやら秀吉の時代に、秀吉の善政を強調するために、信長を意図的に魔王のような残虐性を持った人物として意図的に描かれたにすぎないという歴史があります。
実際にはどうだったかというと、最近になって発見された蜂須賀小六の部下の日記などによると、信長は実はお酒に弱くて甘党で、団子や干し柿が大好物、宣教師が持ち込んだコンペイトウなど大好物で、宣教師におねだりまでしていたといいます。
そして体を壊して参上できなかった家臣には、大丈夫かと気遣う手紙を送ったり、家臣から諌められたときなども、素直に非を認める。
最近になって第六天の魔王などと呼ばれる信長ですが、実像は、やさしくて気配り上手で、みんなから愛され、尊敬されるタイプの人物だったようなのです。
またこの時代の戦記によく見られることですが、戦に敗れた側の大将は、クビを跳ねるという習慣があったというのですが、実際には、いくさの最中に死んだ雑兵のクビで間に合わせ、大将そのものは、出家させて命を長らえさせたというのが、一般的なならわしだったといいます。
また、一節によれば石田三成は、最後、処刑されたのではなくて、地位を放棄して坊さんになったという話があります。
江戸時代の吉良上野介も、ある説によれば、赤穂の浪士によってクビを跳ねられてなどいなくて、内蔵助によって命を助けられ、その後長生きして天寿をまっとうしたという。
明智光秀も、光秀としては死んだことにされますが、実は僧となって生き延び、家康の幕府開設の際には、新しい国家作りに寄与した、実は光秀は天海僧正だったともいわれています。
それらひとつひとつが、どこまでほんとうのことかはわかりませんが、ただ正史においては、厳しい処分を下したと表向き「書いて」おいて、その実、できるだけ命を奪わぬようにした、というのが、現実の日本社会の出来事としては、可能性が高い。
ヤクザの喧嘩でも、古来日本では、相手の命を奪うことは、滅多にしていません。
喧嘩は、ある意味「こらしめ」であり、敵が「マイッタ」といえば、それでオワリ。
刃物を使う場合でも、いきなり首を狙って命を奪うのではなく、腹や腿を狙って「痛い目」にあわせ、相手に改心を誘うというのが、喧嘩の一般的セオリーです。
要するに、いいたいことは、日本人は古来、命を大切にしてきた民族である、ということです。
そういう国だったからこそ、トイレも安心して個室でゆっくりとくつろげた。
考えていただきたいのです。
古来大陸では、敵となった城塞都市は、徹底的に殺戮と破壊の限りをつくしています。
幼児は塀から投げ捨てて殺し、奴隷として使えない老人は皆殺し、若い女性は強姦したうえで殺害し、若い男は、奴隷として次の戦の先陣を勤めさせられる。
ですから、戦いは常に、女房子供や親兄弟に至るまで、全員皆殺しになるか、生き残るために戦い抜くかという、究極の選択だったわけです。
これに対し日本では、戦国時代でさえ、城を攻滅ぼしたあと、その城にいる全員、それだけでなくその国(藩)に住む農民、町民、老人、子供、婦女にいたるまで皆殺しにしたなどという記録はありません。
負けた方は、大将クビを差し出せば、それでオシマイ。
その大将クビさえも、多くの場合は代役だった、というのが実際のところです。
そして戦いの最中に、失われた命に対しては、戦のあとには、敵味方を問わず、ねんごろに弔いを行なっています。
どこまでも命を大切にする。
それが、日本という国なのです。
歴史小説では面白さを出すために、何万の兵力が結集し、なんとかヶ原で丁々発止の大決戦が行なわれ、残虐が行なわれたようなことが、よく書かれています。
けれど、みなさん、ご自分が、勝った方の大将だったとして、そういう振る舞いをみなさんならされるでしょうか。
あるいは、そういう残虐な振る舞いを平気でするような大将に、みなさんは大人しくついていかれるのでしょうか。
答えは、NOです。
日本で、中世のイクサの際、全部が全部、命を大切にし、敵を殺さなかったと言っているのではありません。
ときに殺しあいの大イクサがあったことも、事実であろうと思います。
ただ、基本的なマインドとして、人をそうやすやすとは殺さない、そういう国であったからこそ、日本のトイレは大昔から、扉のついた個室になっているのだ、ということを申し上げたいのです。
なんだか歴史教科書をみると、百姓一揆なども、打ちこわしや商家を襲って皆殺しにしたかのような記述が多く見られますが、実際にあった百姓一揆は、いまでいったら、日の丸の旗をたてて保守のみなさんがデモを行なう、あれと同じで、日の丸の旗の代わりに、ムシロ旗を立てて行進したにすぎません。
現実問題として、もし百姓一揆が、年中、打ちこわしや、商家を襲う殺人集団だったのなら、当然のことながら、一揆の集団に対し、藩主は戦支度の武士軍団を差し向けて、これを皆殺しにしていたはずです。
けれど、そういう武士軍団が一揆の集団を襲ったなどという記録は、江戸時代を通じて、ただの一件もありません。
日本の歴史は、共産主義者や反日左翼が宣伝するような、階級闘争の歴史ではないのです。
だからこそ、その共産主義者や反日左翼主義者でさえ、トイレにはいるときには、安心して個室で用をたしているのです。
私達は、毎日、トイレにはいります。
そしてどのご家庭のトイレも、会社や学校のトイレも、みんな大の方は個室です。
昔の朝鮮半島のように、毎朝男も女も、家の外に出て、路上で大用をたすなんて習慣は、日本中どこを探したってないし、Chinaのように、時間のかかる大は、扉がない丸見えの環境でするもの、という習慣もありません。
なぜ日本のトイレが個室になのかというと、要するに私達の先祖は、平和を愛し、人を殺したり争ったりすることを「穢れ」として忌み嫌い、人と仲良くし、自分も安心してトイレを使える、そういう文化を、古代から作り上げてきてくれたおかげ、なのです。
Chinaがお好きなら、どうぞ、トイレは個室ではなく、オープンスペースで。
朝鮮がお好きなら、どうぞ、トイレは、家の前の大道で。
それが嫌なら、日本という国に、日本の先人達に感謝しなさい、と申し上げたいのです。
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