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第一次国会(仮)議事堂(明治23年)
第一次国会(仮)議事堂(明治23年)

国会議事堂が火事で全焼したことがあります。
明治24年のことです。
当時の国会議事堂は、いまの永田町ではなく、東京・霞ヶ関にありました。
いまでは経済産業省が建っているその場所に、明治23(1890)年11月に国会(仮)議事堂が建設されていたのです。


それが冒頭の写真です。
この霞ヶ関の仮議事堂で、日本初の国会である「第一回帝国議会」が開催されました。
ところがこの議事堂、翌年1月に火事で全焼してしまうのです。
原因は、「漏電」でした。
いまでは、多くの日本人は、電気は空気のように「あたりまえにあるもの」と思っています。
けれど、明治半ばのこの当時、まだ電気はたいへんめずらしいものでした。
なにせ、日本人がはじめて電気を見たのが、明治15(1882)年のことです。
この年の11月1日に、銀座2丁目に、アーク灯が点灯したのが最初です。
下の絵は、当時の模様の錦絵ですが、学校の教科書の文明開化のページでご覧になられた方も多いかと思います。

東京銀座通電気燈建設之図
東京銀座通電気燈建設之図

この街灯は、それまで行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)しか夜の証明がなかった日本にはじめて、ローソクにしたら4000本分の明るさの明かりが灯ったわけで、銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになったそうです。
この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置されています。
もっともこの電気街灯は、送電線で電力が供給されるのではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給するものです。
バッテリーではなく、電力会社から電力の供給が始まったのが、明治19(1886)年のことです。
そして日本で最初に「室内の電灯」が灯されたのが鹿鳴館で、これが明治20(1887)年1月のことです。
そして皇居に電灯が点いたのが明治22(1889)年1月6日。
日本ではじめて営業用に電力供給が行われたのが、明治23(1890)年11月の、浅草、凌雲閣。
その後、朝日新聞や、時事新報といった新聞社が電力の供給を受けるようになっていきます。
そして翌年(明治24年)の1月、電力によって夜間も明かりが灯る設備を整えた国会議事堂が、漏電による出火で、大火災となり、全焼し、焼失したのです。
おかげで日本全国から、「電気は危ない」、「電気は危険だ」、「電気は人々の生活を破壊する」、「電気のない安全な生活を!」、「電気は大災害をもたらす」、「電気は経済的に非効率だ」、「電気は明かりの灯る者と灯らない者との間に差別をつくる」等々と、電気反対の大合唱が起こります。
この当時、電力会社の発電は、もっぱら外国製の火力発電に頼っていましたから、火力発電所のいかにも恐ろしげな猛火の前に、多くの人々が「電気は怖い」と思ったのもうなづけます。
さらに、発電所から伸びる送電線は、並んでいる電柱にコードが架かっています。
ものめずらしさもあったのでしょう。
なんとかと阿呆は高い所が好き、とばかりに、この電柱に登って電線に触り、感電して落下する者もあとを絶たなかった。
おかげで、ますます「電気恐怖症」が巻き起こり、猛然と電気反対の運動が巻き起こります。
この流れ、何かに似ていませんか?
そうです。昨今の原発反対運動と、じつはそっくりです。
当時は、多くの市町村が電気の供給を拒否しています。
おかげで、日露戦争(明治37ー38年)で捕虜になって日本に連れてこられたロシア人が、日本の街並の夜が暗いことに驚き「日本はなんと貧しい国だろう」と書き遺したりもしている。
けれどその一方で、江の電などの路面電車が整備され、街灯が並び、商店なども夜間の店内照明用に電灯を受け入れます。
そしていつしか電気は、人々の生活に欠かせないものとなる。
東京に電灯が普及したのは、はじめて銀座に街灯が灯ってから40年後の大正11(1922)年のことです。
そして翌年、関東大震災が起こった。
人々は火事や家屋崩壊に恐怖しました。
そして当時の人々は、それ以上に、電気がない、真っ暗な生活におびえました。
電気に反対し続けた日本人が「文明」に負けた瞬間でした。
原発は、多くの方々がご指摘されるように、たしかに危険を伴うものだと思います。
けれど、すでに日本人の生活に、電力は欠かせないものとなっているのです。
とりわけ、日本の底力といわれる製造業では、電気がなければ、そもそも事業そのものをやっていくことができない。
鋳物や鉄鋼だけじゃありません。
日用品や、食品加工まで、すべて電力頼みで仕事をしているのです。
石油が枯渇への恐怖から、ものすごい勢いで価格上昇して行くなか、日本の産業の維持発展のために、どうしても電力の供給は欠かせない。
そしてその電力供給量は、太陽光発電や、水力発電程度では、とても賄いきれるようなものではないのです。
私たちが明るい光のある生活、モノ作り大国日本の維持発展ができる国を支えるためには、どうしても原子力による発電が不可欠です。
ならば、いま大切なことは、いかに安全で安心な原子力発電を実現するかを、官民あげて考え実現していくことなのではないでしょうか。
原発そのものを頭ごなしに反対するということは、日本の産業と経済を根本から破壊する行為です。
日本の製造業がダメになり、日本の夜の街並から灯りが消えたら、喜ぶのはいったいどこの国なのでしょうか。
日本産業を破壊したいのは、自称大国のお隣の国でしょう。
日本の夜の街並から街灯の灯りが消えて喜ぶのは、斜め上の国のご出身の在日強姦人たちなのではないでしょうか。
「原発は危険だ」、もちろんそうでしょう。
けれど、それを言うなら、水力発電だって火力発電だって、風力発電だって大きな事故は起きています。
さらにいうなら、人間生活を豊かにするものは、自動車でも電気でも船でも飛行機でも、どれもすべて危険と隣り合わせです。
大切なことは、その危険といかに上手に付き合うか、ということのはずです。
そうした冷静さを欠き、いたずらに原発は危ないと言っている人たちのご意見は、私には、明治の中頃に電気は危ないと、街灯建設にすら反対していた方々と同じに見えます。
すこし冷静になって、日本の産業と私たちの生活と電力について、考えていただきたいと思います。
ちなみに、冒頭で申し上げた国会議事堂は、全焼した後、第二会帝国議会の開催に間に合わせるため、いったん、帝国ホテルを貴族院、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあてて、急場をしのいでいます。
その後、焼失した跡地に、第二次仮議事堂が再建されるのですが、明治27(1894)年の日清戦争で大本営が広島に移された際に、国会議事堂も広島に引っ越しています。
この広島の国会議事堂では、明治28(1895)年に第七回帝国議会が開催されています。
広島に永田町があったんですね。
いまの永田町の国会議事堂は、大正8(1919)年に一般公募によってデザインが決まったもので、大正9(1920)年には竣工するのですが、途中、火災に見舞われたり、関東大震災が起こったりと、なかなか建設が進みませんでした。
そして、ようやくいまの国会議事堂が完成に近づいたときに起こったのが、昭和11(1936)年の二二六事件です。
このとき、武装した一団が、議事堂を占拠していますが、まだこのときは完成前だったのですね。
こうして紆余曲折を経て、いまの国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年11月7日のことです。
それまで、帝国議会が行われていた場所は、すべて「仮議事堂」と呼ばれていました。
我が国の権威の象徴である国会議事堂を造るだけの余裕が、日本になかったのです。
簡単にいえば、それだけ戦前の政府は貧しかった。
国家議事堂という建物の権威を飾ることよりも、もっとしなければならない優先課題が、帝国政府には多すぎたのです。
ちなみに帝国政府は、朝鮮総督府や、台湾督府、満州の府督府などには、惜しみなくお金を使い、立派な建物を建設しています。
こんなところにも、戦前の帝国政府には、仁徳天皇のお心が活かされていたのです。
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