
昨日、御木本幸吉のお話を書いたので、今日は同じく三重県は松坂市出身の大発明家、丹羽保次郎(にわやすじろう)のことを書いてみたいと思います。
FAXは世界の市場で日本が圧倒的なシェアを持っています。
また昨今、インターネットや携帯を使って、写真や画像が自在に送受信されていますが、その画像通信やファックスの写真電送方式の仕組みを発明したのが、丹羽保次郎(にわやすじろう)です。
おかげで丹羽保次郎は、特許庁の十大発明家のひとりに数えられています。
「ファックス」という名称は、ラテン語のfac simile(同じものを作れ)で、実はその原理が発明されたのは、英国人のベル(Alexander Graham Bell)が「電話」を発明したのよりも33年も前のことです。
初期の頃のファックスは、「振り子を利用して走査線を送る」というもので、簡単にいうと、振り子があっちに行ったときは「白」、こっちにきたら「黒」を送る。
最初の頃は、ほんとうに「振り子」を使ったために、離れた所では「送信側」と「受信側」で、振り子の振幅の同期がとれませんから、発明はされたものの、実用化にはほど遠いものとなっています。
これを改良して最初に実用化したのは、イタリアのカセル(Giovanni Caselli)で、文久2(1862)年、「振り子」の代わりに「電磁石」用いることで、10cm×3cmくらの紙片に書かれたアルファベットのサインの送受信を可能にしています。
この技術は銀行がサインを照合するのに実用化されています。
その後、ベルが電話を発明し、明治16(1883)年にはエジソンによって真空管が発明され、この電話技術と真空管技術を組み合わせて、写真電送を可能にしたのが、ドイツ人コルン (Arthur Korn) と、フランス人ベラン (Edouard Belin)です。
明治39(1906)年のことです。
コルンもペランも、発明した機材は似たようなもので、画像データの読み取りと書き込みにドラム(回転板)を使う、というものです。
ドラムの回転速度がぴったり一致していれば、送受信双方に同じ画像を送受信できる。
そこでドラムの回転速度を一致させるために、ギターなどで使われる、あの音叉が利用されました。
ところが音叉というのは、音を鳴らした場所の温度や湿度によって、振動数に微妙な影響が出ます。
このためコルン方式も、ベラン方式も、送受信の場所が離れれば離れるほど、それぞれの場所の温度や湿度の違から、ドラムの回転速度が微妙にずれ、結果、受信した画像がおおいに乱れてしまうという欠陥がありました。
写真の電送が目的です。
せっかく電送しても、画像が乱れてしまっては使い物になりません。
米国の電気学会では、この二人の写真電送装置を「年をとった赤ちゃん」と呼び、嘲笑の的となっていたといいます。
ところが、この「写真電送」が、「どうしても必要」という事件が日本で起こります。
何かというと、昭和天皇の即位の御大典です。
御大典の儀式は、昭和3(1928)年11月に、京都で執り行なわれると発表がなされます。
日本の各新聞社は、この半世紀に一度あるかないかの世紀の大報道をめぐって、なんとかして歪みのないきれいな写真を電送したい、と考えます。
なにせ京都で行われる儀式の模様の写真を、新聞号外で発表するに際して、そこに写真があるかないかでは、号外の説得力に雲泥の差が出ます。
加えて、場所が京都で行われるとなると、その写真をどうしても東京に移送しなければなりません。
けれど、フイルムを陸送したり、空輸したりするのでは、これまた時間がかかりすぎて、世紀の大報道に疎漏がでます。
とにもかくにも、なんとかして写真を電送したい。
そこで朝日と電通(共同通信)がドイツのコルン式、大阪毎日と東京日日がフランスのベラン式の写真電送装置を購入します。
どちらもまだ試作段階です。
なにせ米国では嘲笑をかっているシロモノです。
不安はある。
けれど背に腹はかえられません。
各新聞社が、バカ高い金を出して機械を購入し、それぞれ写真の電送実験を行います。
朝日と電通が買ったドイツのコルン方式のものは、かなり不鮮明ながら、なんとか判別できる写真の電送実験に成功しました。
ところが問題は大阪毎日と東京日々が買ったフランスのベラン方式の機械です。
京都で撮影した写真を、大阪毎日が京都から送信し、東京で東京日々が受け取るのです。
けれどこの両社の実験は、なんど繰り返しても、まともな写真が送れません。
日本は高温多湿のため、音叉の振幅がモロに乱れてしまうのです。
受信した写真は、誰がどうみても、心霊写真のようなシロモノだった。
けれど、大式典の日取りは、刻々と迫ります。
なんとかしなければならない。
大阪毎日と東京日々は、なんとか判別できそうな写真を持って、宮内庁にお伺いをたてにいきます。
「これでよろしいでしょうか」という新聞社に、写真を見せられた宮内庁は激怒する。
陛下の御真影が、まるでオドロオドロしい心霊写真のようなシロモノなのです。
宮内庁は、両社に対し、
「今上陛下はもとより、皇族関係者の写真電送は今後一切まかりならぬ」と内示したうえ、さらに国会にはたらきかけ、「歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律」まで制定してしまう。
法外な大金を払って、せっかくベラン式写真電送装置を買ったのに、これでは何をやっているかわかりません。
そのとき、弱り切った大阪毎日と東京日日の首脳陣に、耳寄りな情報が飛び込みます。
日本電気の丹羽保次郎とその部下の小林正次が、ベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良した新型NE式写真電送機で、昭和3(1928)年8月10日に、東京~大阪間の電送実験に成功した、というニュースが飛び込んできたのです。
この日、小林が大好きな女優である松竹のマドンナ、松井千枝子のブロマイド写真をポケットから取り出して発信機にセット。
そして受信機で待ち受ける丹羽に、電送。
数秒のち、受信機から、松井千枝子がにっこりと微笑む写真が印刷されて出て来たのです。
実験成功です。
二人は、この写真電送装置に、日本電気の頭文字をつけて「NE式写真電送機」と称し、この快挙をプレス発表します。
さぞかし大反響があったと思いきや、学界の反響は、皆無。
メディアからも何の反応もありません。
会社も、どう商品化したらよいやら先も見えない。
実験の成功は、どうやらお蔵入りとなりそうだったのです。
そこに大阪毎日が、白羽の矢を立てます。
是非、「NE式写真電送機」を購入し、使わせていただきたい!
ところが、です。
何に使うのかと聞けば、陛下の即位の御大典写真の電送です。
技術者としては、目をつけていただいたのは嬉しいが、そんなおそれおおい写真に、万が一のことがあったら、御不敬罪で下手をすれば逮捕、投獄です。取り返しがつきません。
それに、そもそも実験に成功したとはいっても、同じ部屋の中でのことです。
果たして、大阪~東京間という長距離で、電送がちゃんと行え、きれいな写真が送れるのかどうか。
それでも、大阪毎日にしてみれば、もはや必死です。
朝日がコルン式を採用し、実験にある程度成功しているのです。
大阪毎日としては、いまさらドイツからコルン式を取り寄せるには、もう時間がない。
一か八かで、日本電気の丹羽保次郎の新型写真電送装置に賭けるしかない。
大阪毎日の必死の説得に、丹羽もようやく心を動かします。
そしてNE式写真電送装置を大阪毎日の本社に持ち込みます。
東京日々新聞の本社には、すでにベラン式の大型の写真電送装置が設置されています。
機械にはフランスから技術者もついてきいて、通訳もいる。
部屋には専用の電源もひかれ、豪奢な調度品も整えられています。
まるで貴賓室です。
ところが急遽、持ち込まれることになった丹羽の写真電送装置は、新たに電源ケーブルをひく時間もないし、急な話です。
専用の部屋どころか、電源を得るために、汚れた倉庫の一角にセットされることになります。
なにせ急場しのぎなのです。
そこしか場所がない。
いよいよ昭和3(1928)年11月6日がやってきます。
それぞれの社運をかけた運命の時です。
午前7時10分、京都御所に向けて、お召馬車が皇居を出発しました。
東京日々新聞は、その写真を撮影し、即座に、本社に持ち込んでこれを現像する。
現像した写真は、その場ですぐに、大阪毎日新聞の本社に電送します。
その日の午前9時、東京と大阪の街頭で、ほとんど同時に号外が配られます。
その号外の第一面には、御召馬車に乗ってご出発される昭和天皇のお姿が鮮明に映っていました。
世界ではじめて、電送写真が実用に用いられた、これが第一号でした。
そのときのお写真が、↓これです。

一方、朝日の号外が配られたのは、東京日々と大阪毎日が号外を配った2時間後のことでした。
朝日の採用したコルン式は、写真を1枚送るのに数十分もかかったうえ、使える写真はよくて10枚に1枚しかなかったのです。
しかも写真の電送に専用回線が占有される結果、記事原稿の送信がまったくできなかったのです。
これに対し、日本電気の丹羽保次郎の電送装置は、送信側で交流モーターを回し、その電流を受信側にも送って同時にモーターを回すという方法でした。
そのために送信側と受信側の環境が違っていても、回転に狂いが生じなかったのです。
この成功に、丹羽は、帝国発明協会から表彰を受けます。
その受賞理由には、次の記載がされています。
~~~~~~~~~
社会の耳目たる新聞紙上を通じて、御大典を写真報道するという、前代未聞の快挙を、天晴れ上ゝの成績をもって成し遂げたる。
これぞたんに我が国学界の独占する一発明のみならず、人類生活の大光明の具現にほかならない。
~~~~~~~~~
丹羽は、翌年には、無線通信による写真電送を、世界で初めて、東京~伊東間で実現します。
さらに昭和5(1930)年には、逓信省が丹羽の写真電送技術を一般向けに公開し、「写真電報」サービスを開始します。
ちなみにこのサービスの料金は、大8円、中5円、小3円です。
昭和5年といえば、ラーメン一杯が10銭だったそうですから、仮にいまが一杯600円とすると、写真電送の「大」は、約5万円での送信だったわけです。
それでも写真を電送するという技術は、無線技術の導入によって飛躍的に拡大します。
昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、電波がベルリン中央電信局ーナウエン送信所ー埼玉県小室受信所ー東京中央電信局と継がれ、見事、新聞報道に鮮明な写真が使われます。
さらにこのときの写真通信成功の快挙に、この年の8月26日、ヒトラー総統が日本の技術力を祝福した文書を、これまたファクスで送ってきています。
両国の関係はこうして深まり、11月には日独防共協定が締結されています。

さらに丹羽の写真電送技術は、昭和12(1932)年には、携帯化されてどこへでも持ち運びが可能になり、China事変で大活躍をすることになります。
そしてこの技術は、さらに世界へと広がり、いまや世界中でファックスが使用され、また、その画像処理の技術(画像をドット単位で分割し送受信する)という技術は、新たに映像送受信の技術として発展し、いま私たちのパソコンの画面に表示されている写真となっているわけです。
それにしても、日本って、すごいですね。
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