
SAITOさんのサイトにとてもよいお話が載っていました。
ご本人のご承諾をいただきましたので、ご紹介します。
(文はねずきち流ですこしアレンジさせていただいています)
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頭山満とイスラム
───ムスリムを支援した戦前の日本
by 斎藤吉久, SAITO Yoshihisa
http://homepage.mac.com/saito_sy/war/JSH180417toyama.html
頭山満(安政2~昭和19年)は、戦前世代にとっては知らぬ者のいない、いわゆる大アジア主義の巨人です。
敗戦後、占領軍は頭山たちが興した玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させました。
そして左翼色の強い戦後の学界、言論界は「負」のイメージに染まった頭山を顧みることがありませんでした。
このため長い間、多くの日本人の記憶から消えていました。
けれど近年になって、ようやく歴史の封印が解かれ、ChinaやKoreaとの深い関わり、とくに金玉均や孫文などアジアの革命家を支援していたことなどが、一般にも知られるようになってきました。
頭山の功績で異色なのはここで取り上げるイスラム教徒への支援です。
ソ連の圧政を逃れて亡命してきたイスラム教徒たちは、故国にあったとき以上に平安なる生活を送れただけでなく、戦時下の日本に協力したのです。
この史実は、一般に流布している「国家神道による他宗教迫害」という常識論的な近現代史の書き換えを迫るものといえます。
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東京モスクの建設
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東京都渋谷区大山町──。
明治神宮にほど近い住宅街に、異国情緒たっぷりの円形ドームと尖塔を備えた本格的なモスク「東京ジャーミイ」が建っています。
現在の建物は平成12年に完成した2代目ですが、
「ケーキのように美しくそびえる」と形容された初代モスクがここに落成したのは、およそ70年前の昭和13年5月のことです。
そこに知られざる歴史があります。
当時の新聞報道によると、モスクの建設は在日イスラム教徒にとって20年来の夢でした。
落成式は預言者マホメットの誕生日に合わせて行われ、イエメン王子ほか世界40数カ国の使節が参列しました。
午後2時、イスラム聖職者が塔にのぼり、「オーオー」と開会の合図を送ると、頭山がとびらを開け、参列者がしずしずと入場しました。
続く野外での祝賀式では、「君が代」斉唱のあと、満州国皇帝溥儀の従弟・溥#(人偏に光)の発声による「天皇陛下万歳」、松井石根大将の音頭で「回教徒万歳」が唱和されました。
なぜ頭山が開扉することになったのでしょうか。
記事は「日本人の手ではじめて造られたモスク」で、イスラム教徒が建てたモスクではないと説明しています。
どういうことなのでしょう。
東京ジャーミイの資料によれば、1917年にロシアで共産革命が起きたとき、トルコ系(トルキスタン)イスラム教徒が大挙して国外に避難することになりました。
モスクワとウラル山脈との間に位置するカザン州のトルコ人の多くが満州を経由して日本にやってきました。
渋谷・富ヶ谷小学校の分校という位置づけで避難民たちの小学校が設立され、「日本政府が援助して」礼拝堂やイスラム学校が建設されたと記述されています。
ところが「日本政府の援助」ではなく、イスラム世界を含めた大アジアの復興を目指していた民間の有志による義侠の精神から、亡命者たちに深い同情を寄せたことがモスク建設の始まりだった、とする記録もあります。
日本イスラム界の長老であった小村不二男氏の『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟)によると、尊皇愛国と反共排ソを主義主張とし、しかもイスラムにきわめて深い理解力を持っていたのが実川時次郎、岩田愛之助、権藤成卿らです。
彼らは杉浦重剛、三宅雪嶺らとのつながりから、やがてその熱情は頭山や内田良平を動かします。
その後、犬養毅や大隈重信が共鳴して財界に呼びかけ、山下汽船社長が土地約五百坪を提供、森村、三井、三菱、住友の各財閥が寄金し、モスクが建設された、と記録されているのです。
頭山はモスク建設の要の位置にいたことになります。
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イスラム・ブーム
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東京モスクが完成した昭和13年は、日本宗教史の節目となる「宗教団体法案」が国会に提出された年です。
そしてこの年は、日本のイスラム史にとっても転換期でした。
この年を境に、林銑十郎前首相・陸軍大将を初代会長とする大日本回教協会を中心に、外国人ではない、日本人イスラム教徒の組織的な活動が開始されたのです。
宗教団体法が成立、公布されたのは翌14年4月です。
最初に宗教法案が提案されてからじつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過しています。
同法は治安維持法とともに戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後に占領軍によって廃止されました。
けれどじつは、宗教団体法の審議過程では、「弾圧」どころか、イスラム教公認運動が起きていたのです。
イスラム教徒は、同法第一条の「宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他の宗教の教団」に「回教」の二文字を入れるよう強く政府に要望しました。
イスラム教は世界三大宗教の一つであるから、日本で唯一の宗教関係法ができようとするいま、これを見落とすべきではないし、満洲や蒙古、北支などに多くのイスラム教徒がいるので、大陸政策上も必要だ、というのがその主張でした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』)。
当時の新聞には、イエメン王子に随行して来日した同国宗教大臣が、
「防共日本よ、イスラム教を公認せよ」と語るインタビュー記事が大きく取り上げられています。
そしてイスラム教公認運動には、大日本回教協会や内田良平の黒龍会などが積極的に関与していたのです。
結局、努力は実らず、法案の神仏基三教体制に「回教」の文字が加わることはできませんでしたが、14年11月には上野のデパートでイスラム団体が主催し、中央官庁や新聞社が後援、宮家ゆかりの品も展示する日本史上空前絶後の「回教圏展覧会」が開かれるなど、イスラム・ブームが起きました。
そして3年後、日米開戦を受け、17年4月に結成された国策機関・興亜宗教同盟は神仏基三教のほかにイスラム教が加えられ、イスラム教は事実上、日本で公認されたのです。
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「米英撃滅」を祈る
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外国人であれ、日本人であれ、イスラム教徒は戦争中、国策遂行への協力を惜しみませんでした。
当時の新聞には、
「回教徒児童の献納」
「回教徒も聖鍬、宮城前で奉仕」
「天帝に祈る回教徒。鬼畜米英撃滅に神助あれ」の記事が載っています。
先述の『日本イスラーム史』によれば、日本人イスラム教徒による戦争協力の白眉はインドネシアのジャワ、セレベス両島での対イスラム教徒工作であったといいます。
ジャワでは優秀なイスラム青年が育成され、のちの独立運動の闘士や独立後の指導者が輩出されました。日本のイスラム教徒は国に身を捧げたことを誇りとしています。
祖国の非常時に国民が身を挺するのは当然で、そこには宗教による違いはないはずですが、この頃のキリスト教とイスラム教ではなぜか好対照を見せていました。
むろんキリスト者たちも国家の戦争政策に大いに協力したのですが、戦後になると一転して自身の戦争協力を懺悔する一方で、宗教弾圧の存在を強く主張したのです。
「宗教が政治の手段として利用された。ある宗教を特別扱いし、他の宗教は弾圧してはばからなかった」(飯坂良明『キリスト者の政治的責任』)というようにです。
けれどもイスラム教徒は、
「そんな(宗教弾圧の)話は聞いたことがない」と否定します。
この記事は宗教専門紙「神社新報」2006年4月17日号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2006年9月)
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頭山満といえば、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭で玄洋社の総帥、日本における民族主義の草分け的存在として知られていますが、もうひとつ、韓国の金玉均との交友もよく知られた事実です。
明治17(1884)年12月6日、朝鮮半島で自国の近代化を目指した金玉均率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こります。
まるで中世以前のような旧態依然とした李氏朝鮮王朝によって民衆が搾取され収奪されている朝鮮半島において、なんとかして民主化近代化を実現しようと、立ち上がったコリアン達がいたのです。
それが金玉均らの朝鮮独立党だったのですが、この甲申事変は、清国軍の介入によりわずか3日間で鎮圧され、失敗に終わってしまいます。
首謀者として官吏に追われた金玉均は、やっとのことで半島を逃げ出し、翌年、長崎にたどり着きます。
その金玉均に、頭山は神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500万円を渡したのです。
明治18年当時の500万円です。
いまの日本の貨幣価値に換算すると、500億円ほどの大金です。
当時の朝鮮半島の貧しさを考えたら、半島におけるその値打ちは5兆円規模であったかもしれない。
金玉均は、その後上海に渡るのだけれど、閔妃が放った刺客によって明治27年に射殺され、遺体には肉を切り刻む凌遅刑に処されてしまいます。
けれど、頭山から軍資金を得た金玉均の運動は、朝鮮半島の多くの人々に半島の近代化を求める気持ちを起こさせ、結局日露戦争のあと、日韓併合に至るわけです。
これによりようやく朝鮮半島では、文明開化を迎え、庶民には男女の区別なく姓名を名乗ることができるようになり(それまでは女性は国王の妻であっても名前がない)、全国的に学校教育も行われるようになり、チマチョゴリによる女性の乳出し姿も固く禁じられるようになったのです。
革命、改革、政変のいずれをとっても、理想論だけでは何事も成就しません。
朝鮮半島の人々が、両班支配の李氏朝鮮体制を打ち倒し、本当の民主化を実現し、人間が名前のある「人」として生きる権利を得るためには、その活動のために、やはり軍資金が要ります。
頭山が金玉均に手渡した500円のおかげで、韓国は近代化への一歩を踏み出すことができたのです。
そしてその頭山が、イスラム教徒たちにも支援の手を差し伸べていた、というのが今日の冒頭の記事です。
西欧のキリスト教徒と対立していたいイスラムの国々は、日本が日露戦争に勝利したあと、大正10(1921)年3月に、アラビア、インド、エジプト、トルコのイスラム教徒がメッカでイスラム教徒代表者会議を開き、その場で日本の「ミカド」を盟主と仰ぐことを決議しています。実話です。
欧米列強による植民地支配を、生まれる前からの「あたりまえ」と受け入れる人々がいる一方で、世界には、理不尽な植民地支配と戦い、民族の自主独立を図ろうとする人々がいたのです。
そして日本は、まさにその最後の砦だった。
私たちの先人達は、人種差別のない世界を築くため、人間が人間としての尊厳を守れる社会を守るため、全力をあげて戦ってくださっていたのです。
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