人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

黒船来航-1

明治維新といえば、嘉永六(1853)年の黒船来航から始まり、慶応三(1867)年の王政復古の大号令、慶応四(1868)年にはじまる戊辰戦争を経て、明治政府の誕生までの動きを言います。
そして同じ時期、万延元(1861)年から元治元(1865)年にかけて、海を隔てた北米大陸に起こったのが南北戦争です。


南北戦争は、最終的に北軍220万、南軍100万の兵力が激突し、両軍合わせて120万以上の死傷者を出した、米国史上名高い大戦争です。
一説には大東亜戦争での米軍の死者が約35万人といわれていますから、南北戦争が米国にとってどれだけ大きな戦争だったのかがわかろうというものです。
ちなみに日本では、南北戦争という呼び方をしますが、正式な英語名は「American Civil War」です。
直訳すればアメリカ市民の内戦、もしくはアメリカ市民戦争です。
ただし、南北戦争は、日本の明治維新のときの戊辰戦争のような「内戦」ではありません。
戊辰戦争は、陛下の率いる官軍が、陛下に従わない幕軍を討伐する、というあくまで国内の内戦です。
けれど南北戦争の時点では、南軍十一州は、北米から脱退して、「アメリカ連合国」を形成しています。
つまり南北戦争は、内戦ではなく、国家間の戦争という位置づけになります。
国家間の戦争といいながら、この戦争で宣戦布告のようなものは行われていません。
実は一八六一年二月から四月にかけて、南部諸州がアメリカ合衆国から脱退しました。
そして四月に、南軍がサウスカロライナ州チにある「サムター要塞」を砲撃して、まだ南部十一州の大統領も決まってない状態で、いきなり戦端が開かれたのが南北戦争です。
実はこの時点で、北軍側も南軍側も、そもそも戦争の準備さえ、全くできていません。
この時点では北軍の陸軍は、総数でも一万六千しかいなかったし、武器も旧式の装備しかなかった。
海軍も船舶はわずか42隻です、兵員数はたったの7600人です。
南軍にいたっては、まだ正規軍すらできていない。
開戦目的も実に曖昧です。
南軍には、南部諸州の産業を維持し、綿花の自由貿易を推進し、侵攻してくる北軍に対して、自分たちの郷土を守る、というある程度明確なものがあるけれど、北軍側は、どうも戦争目的自体が曖昧です。
とりあえず奴隷の解放をうたっているけれど、それ自体は、国内制度をいかに構築するかが問題であって、南部諸州で働く黒人奴隷を解放するために北軍に所属する若い白人兵士たちが、命をささげるというだけの人種平等主義は、当時の北軍側にはありません。
いったん出て行った南部十一州を連れ戻すための戦い、という説もあるけれど、国家規模の戦争目的としては、かなり曖昧なものです。
そもそも宣戦布告がない。だから戦争目的が不明確。
さらに南軍側は大統領さえまだ決まっていないという中で、気がついたら戦争が始まっていて、両軍合わせて120万の死者を出したというのだから、これまたすさまじい話です。
ついでに申し上げるならば、堂々と宣戦布告を行ってから戦争をはじめるというのは、世界の歴史上、日本くらいなものです。
日本では、武道の心得もあって、戦いは、果し合いであれ、戦闘であれ、すべて「礼にはじまる」のがあたりまえの常識です。
若いオニイサンたちがケンカをする場合でも、最初に出る言葉は「オイ、表に出ろ!」で、これもいわば宣戦布告の一種(笑)。
けれど世界の戦史を見れば、ご丁寧に宣戦布告をしてから戦争を始めている国自体が、きわめてめずらしい存在であることがわかります。
日本は大東亜戦争で、真珠湾の奇襲がどうのとさんざん言われているけれど、宣戦布告文とを、後先の問題は別として、すくなくとも時間通りにちゃんと届けようとしたというのは、それが日本だからで、さらにいえば日本人は、真珠湾の爆撃開始より、宣戦布告分の手渡しの時間が少し遅れたと責められると、気分として、申し訳ないと思ってしまう。
けれどそれは、私たちが日本人で、礼儀や、ものごとのケジメをきちんとしなければ気が済まない民族だから、そうなるだけのことで、世界の歴史では、むしろ宣戦布告などないのが「あたりまえ」であることは、日本人の常識として覚えておく必要があるのではないかと思います。
さて、こうしていきなり始まった南北戦争ですが、開戦に先立ち、なぜ南部十一州がアメリカ合衆国から脱退し、アメリカ連合国を組成したのかが疑問に残ります。
アメリカ連合国(正式名称Confederate States of America)十一州というのは、ミシシッピ州、サウスカロライナ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州です。
これら十一州の主たる産業は農業です。
この時代まだ石油はありません。要するに化繊なんてなかったわけで、ですから人々の衣類は、もっぱら綿が中心です。
特に産業革命以後のイギリスは、繊維製品加工業が大発展しており、彼らはアメリカ南部諸州から、綿花を輸入し、これを機械で糸にし、布や衣類に加工し、できあがった製品を世界中に輸出していました。
当時の英国は、まさに七つの海にまたがる大帝国です。
繊維製品には大英帝国製というハクもつきます。
英国製の生地や仕立物は、まさに世界中でひっぱりだこだった。
おかげでいまでも、英国製生地といえば高級生地だし、英国人のいわば民族衣装だった背広上下服は、いまや世界のビジネスマンの制服にまでなっています。
つまり、アメリカ南部の広大な土地で、綿花を栽培する。
集荷した綿花を英国に運ぶ。
英国はこれを生地に仕立てる。
その生地が世界中で売れる、という流れができていたのです。
ですからこの時期、アメリカの南部諸州は、綿花を作れば売れた。
馬鹿みたいに売れた。
作ったら作った分だけ売れた。
そうなれば、当然、農場は広大になり、格安労働力として黒人奴隷が使われ、農場は見渡す限りに広がり、綿花の輸出で大儲けした各家は、豪華な宮殿のような屋敷を作った。
そのなかの一軒が、スカーレット・オハラの住む屋敷で、これが「風とともに去りぬ」の物語の舞台となっています。
一方、北部諸州はどうかというと、気象条件の違いで、綿花の生産というわけにいかない。
そこで北部諸州は、むしろ綿花を加工する工業化を促進します。
つまり英国の繊維産業を、自前で展開しようとした。
ところが七つの海を制し、世界に市場を持つ英国と根本的に違うのは、北米諸州には、それだけの市場がないし、英国のようなブランド力もない。
モノを作れば売れたわけではないのです。
モノは、売り先があってはじめて売れる。
だから北部諸州は、海外の、まだ英国が手をつけていない地域を植民地化し、そこに新たな市場を築こうと模索した。
一方では綿花の輸出を制限し、保護貿易化を推進して、いわば強制的に国内での綿花流通を盛んにしようとした。
ところが、です。
これをやられると困るのが、南部諸州の農場主たちです。
彼らは生活のすべてが、綿花を作ることと、これを英国に輸出することで支えられているのです。
にもかかわらず、北部合衆国政府は、アメリカ国内での繊維産業を活性化したいから、英国との自由貿易を許さない、というのです。
とうぜん農場主たちは怒ります。
農場主たちに支えられた、南部諸州の政治家も怒る。
そりゃそうです。死活問題なのです。
そこへもってきて万延元(1860)年には、リンカーンが大統領に就任します。
貿易を保護貿易化され、輸出入に関税がかかり、米国南部諸州産の綿花が国際競争力を失い、リンカーンの政治主張である奴隷制の廃止なんてのが実現してしまったら、南部の経済は壊滅してしまいます。
で、こんなんじゃあやってられないよ、ということになった。
なったのはわかるのですが、そもそも開戦時点では、北軍、南軍ともに、兵士はおろか軍備すら準備できていません。
それなのにどうして北軍は、わずかの間に220万もの兵力を用意し、その兵全員に最新式の銃で装備させるなどという芸当ができたのでしょうか。
しかも、開戦時点では、アメリカ合衆国の主たる産業は、むしろ南部十一州の綿花栽培であり、北軍諸州の機械工業は、いまだ市場も確立していず、産業としては十分には育っていません。
要するに北軍の方が南軍側よりはるかに貧乏だったわけです。
それなのに北軍は、220将兵に、最新式の兵器を取りそろえ、南軍諸州にまで攻め込んで、勝利を得ているのです。これには莫大な戦費がかかります。
ついでに戦後の北軍は、南部のアメリカ連合国が、兵器をそろえるために海外(主として英国)から調達した戦時国債を全部引き受けて代払いしただけでなく、その直後にはなんと広大なアラスカをロシアからまるごと買い取っています。
北軍側は、いったいどっからそんなお金が湧いて出て来たのでしょうか。
そこに実は日本が重大な関係をしています。
人類が誕生してから、現在に至るまでに世界で算出した金(Gold)の量は、オリンピックプールに換算すると約三杯分になるのだそうです。
そしてそのうち、なんとまるまる一杯分が、日本産です。
マルコポーロは、日本を指して「黄金の国ジパング」と呼びましたが、かつての日本は、まさに「黄金の国」そのものだったのです。
おかげで江戸時代の日本では、普通の庶民が財布に一万円札の代わりに黄金でできた小判を入れていたし、一般庶民の金毘羅詣のような旅では、旅に出るときは、その礼儀として、旅の途中で万一、あの世に行くようなことがあったとき、自分の遺体を世話してくれる人のために、肌着の衿(えり)に、小判一両を縫いこんでおくのが習慣でした。
いまの日本では財布の中は紙でできた一万円札が入りますが、江戸日本では紙のかわりに黄金でできた小判が入っていたのです。
考えたらわかるのですが、そこらを歩いたり電車に乗っている人みんなの財布の中に、黄金でできた小判が何枚かはいっている。
それが日本全体になったら、どれだけの流通量だったのかと、想像するだけで、どれだけ日本が黄金の国だったのかがわかろうというものです。
すこし余計なことを書くと、金がたくさんあったことで、江戸の昔から歯の治療といえば金歯が主流でした。ボクたちのおじいちゃんの世代くらいまでは、ニヤリと笑うと、総金歯がごく普通だった。
そういえば獅子舞の獅子も、日本では総金歯です。
百獣の王ライオンを総金歯にしておめでたいと喜んでいるのは、おそらく世界広しといえども日本くらいなものです。
まさに日本は、掛け値なし、ほんものの「黄金の国ジパング」だったわけです。
その日本に、嘉永六(1853)年、アメリカから黒船がやってきます。
南北戦争の8年前の出来事です。
鎖国をしていた日本は、とりあえずペリーを上手に追い払い、まる一年、問題を先送りの塩漬けにしました。
もともとアメリカが東南アジアに進出しようとした目的は、英国にならぶ繊維製品の販売市場を東亜に求めようとする米国内の国内事情によるものです。
ただ、実際にペリーが日本に来てみると、日本人は綿だけでなく、麻や絹も自国で生産している。
しかも紡がれる織物は、まさに工芸品です。
極めて品質が良い。
これでは米国は商売になりません。
さて困ったと思っているところに、米本国からハリスがやってきます。
そして日本の国内事情を調べると、なんと、日本では金(きん=gold)がめちゃくちゃ安い。
当時、世界の相場は、メキシコ銀貨四枚で、金貨一枚と交換です。
ところが、日本では、メキシコ銀貨一枚と、一分銀四枚が等価で、一分銀四枚と慶長小判一枚が等価です。
つまりメキシコ銀貨一枚を持って日本に行くと、慶長小判一枚と交換してもらえる。
その慶長小判一枚を香港に持ち込むと、メキシコ銀貨四枚と交換してくれる。
つまり香港と日本をいち往復するだけで、手持ちの金が、あら不思議。なんと四倍に増えたのです。
これを知ったハリスは大喜びします。
で、彼が何をしたというと日本との間で、日米和親条約を取り交わした。
これが嘉永七(1854)年のことです。
学校ではここまでしか教えないけれど、この条約そのものは、体のいい能書きしか書いてありません。
大切なのはその翌月に交された和親条約の細則、つまり「下田条約」です。
その細則で、ハリスは金と銀の両替相場を固定してしまった。
この結果ハリスは、香港と日本を往復するだけで、巨万の富を手にします。
どのくらい儲けたかというと、なんと京(ケイ)の位まで儲かった。
京(ケイ)というのは、一兆の一万倍です。
当時、小判入手を目的とするメキシコ銀貨の一分銀への両替要求は、一日になんと1万6千枚にも上った。
おかげで、国内に流通すべき一分銀は巷から消えてしまうし、日本の小判も国外に流出して、巷から消えてなくなってしまいます。
いまの世の中から、こつ然と一万円札がなくなったという姿を想像してみてください。
当然日本国内ではたいへんな混乱がおきる。
もう両替する小判が、国外に流出してしまってない、というと、こんどはハリスは、金が足らなくて小判ができないなら、小判の中の金の含有量を減らしてでも小判を発行せよと、ものすごい剣幕で幕府に迫った。
圧力に屈した幕府は、見た目が同じで含有金量が慶長小判の約八分の一しかない万延小判を鋳造します。
これが万延小判で、万延元(1860)年の出来事です。
ちょうど南北戦争が起きる一年前です。
ところでそもそもハリスはどういう人かというと、アメリカ合衆国の外交官です。
要するに公務員であって、第十六代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の子分です。
ハリスが日本の金で大儲けした金は、ハリス個人もそれなりに小遣い稼ぎをしたろうけれど、基本的にアメリカ合衆国の収入となった。
そしてその時代に、アメリカ合衆国からは、アメリカ連合国が分離独立し、南北戦争が勃発した。
戦争は四年続き、北軍の勝利に終わったけれど、不思議なことに、莫大な戦費は、いったいどこから出たのか。
南軍は、簡単です。英国の繊維業者との太いパイプを持つ南軍(アメリカ連合国)は、英国に戦費債を引き受けてもらい、資金を調達して、戦争を戦っています。
一方、北軍は、なんと無借金で戦争を戦っている。
さらに、戦争が終わると、北軍は、南軍の戦費債を全額立て替え払いし、さらにアラスカをロシアから、キャッシュで買い取っている。
要するに、北軍は、無借金で南北戦争を戦い、勝利した後には南軍が海外から借りた戦費の公債を肩代わりして支払い、さらにアラスカをも買収して領土にしたというわけです。
どっからそんなカネがでたのか。
答えは、もうお分かりのことと思います。
さらに付けくわえると、南北戦争で使われた大量の銃器や大砲は、戦後、余ってしまいます。
南北戦争は1865年に終わるけれど、これは日本でいったら慶應元年です。
そして幕末、官軍と幕軍が戦った戊辰戦争は、慶應四年にはじまった。
そうです。
戊辰戦争で使われた武器弾薬は、南北戦争で使われた大量の火器の中古品です。
アメリカにしてみれば、日本からせしめた金で南北戦争を戦い、戦後は余った武器を、ひとつはフランス経由で幕府に、ひとつは英国経由で薩長に売り、そこでまた巨額の儲けを出したわけです。
日本からみると、アメリカに金貨をだまし取られ、国内の金貨が空っぽの状態で、青息吐息でさらにアメリカから中古武器を買って戊辰戦争を戦った。
本来、戊辰戦争は起こす必要のない内戦です。
なぜなら幕府は既に大政を奉還しているのです。
大政奉還したということは、世は天皇親政の時代になったということです。
これで国内は統一されたのです。
敢えて内戦まで起こす理由はありません。
ところが金の流出と、それへの対策としての小判の改鋳(小判の金の含有量を落とした=万延小判)によって、国内経済は大混乱し、徳川幕府の政治の失態に対する怨嗟の声は日本中に満ち溢れます。
さらにフランス、イギリスがそれぞれ幕府側、薩長側に付き、互いの戦争をあおります。
そしてアメリカからは、大量の格安中古武器がやってくる。
アメリカは、自分では日本に売りません。
なぜかというと、自分で売ったら、薩長か幕府側か、どちらか一方にしか中古武器を売れないからです。
けれど英仏を経由すれば、官軍、幕軍、両方に武器を売れる。
倍の量さばける。
倍儲かる。
「おさむれえさん、新しい銃なら、銃一丁十万円なんスよ。けどね、新品同様の中古品なら、一丁二万五千円でいいッスよ。しかもね、銃一丁につき、弾薬千発つけちまう! どうです? いまなら、もれなく、新兵器の指導教官付で、売りまっせ」
おかげで、百姓町人まで武器を持って武家と戦うことになったのが戊辰戦争です。
その戦闘でどれだけ多くの人の命が犠牲になったのか。
まさに、世界は「腹黒い」のです。
だからこそ、私たちがしっかりとした国家観をもたなければ、ご先祖様に申し訳ないことになる。
そう思うのです。
よろしかったらクリックを。
 ↓ ↓
人気ブログランキング

大津波に散った天使のアリア「生きてください」 藤原美弥子

【メルマガ会員募集中】
ねずブロのメルマガを購読し、ご一緒に日本の良い話を拡散しませんか?
購読のお申込は↓コチラ↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
日本の心を伝える会 日心会

コメントは受け付けていません。