
以下は、日心会MLで紹介されたお話です。
拡散のため、転載します。
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皆さんは、「対人地雷」という名の兵器を耳にされた事があると思います。
生身の人間を標的に開発され、世界各地の戦場で使われています。
この対人地雷の目的は、敵兵を一撃で吹き飛ばす事ではなく、あえて足や腕だけをふっ飛ばし、瀕死の重傷に留めておくことです。
自分のすぐとなりで、突然足や腕を吹き飛ばされ、断末魔の叫びをあげながら転げまわって苦しみもがく味方を見せつけられたら、戦意は無くなり、たいへんな精神的ダメージを植え付けられます。
更に、このような重症を負った兵士を後方に搬送するための人員や、手当てのための医薬品も必要になります。
また、対人地雷をばらまかれた一帯は、完全に地雷を撤去されるまで一切の土地利用が出来なくなります。
こうなると、戦争が終わった後も、その一帯は立ち入ることが出来ず、農地にも宅地にも出来ない。
つまり、戦後復興が出来なくなるのです。
そして何より、一番の犠牲者は、その土地に暮らす民間人です。
まだ幼い子供に、足や腕を一瞬で吹き飛ばされる激痛を背負わせるのは、あまりにも酷すぎる。
人間だけではありません。
人間同士の争いに貴重な野生動物も犠牲になります。
そんな「悪魔の兵器」とも呼べる対人地雷が世界中に一億個以上埋められ、それらの完全な除去には約一千年以上かかるとも言われています。
この冷酷非道な対人地雷を一刻も早く取り除くため、一人の日本人が立ち上がりました。
その人は、工事現場や建設現場で目にするブルドーザーやショベルカーを制作するメーカー、山梨日立建機(株)代表取締役、雨宮清氏です。
時は、平成6(1994)年。
雨宮氏はカンボジアを訪問します。
当時、カンボジアは長年にわたる内戦が終わって、まだ間もない頃でした。
それまでカンボジアでは、統治者が変わるたびに泥沼の内戦に陥っていましたから、世界で最も対人地雷が埋められた地域のひとつになっていたのです。
「当時は東南アジアに建設機械の輸出を行っていましたから、戦後復興を目指すカンボジアに中古の建設機械販売のチャンスがないかと思ったんですよ。
カンボジアの首都プノンペンは、当時はまだ瓦礫の山がうず高く積まれ、戦後の傷跡は否めませんでしたが、
市場には活気があり、ようやく訪れた平和を謳歌しているように見えました。」
しかし、そこで雨宮氏はカンボジアの現実を突き付けられます。
活気に満ちた市場の周りは、カンボジア中から土地を追われた大勢の避難民が集まっていました。
その中に、雨宮氏は一人の年老いた女性に目を止めます。
その女性の顔は、酷い火傷を負い、膝から下を失っていました。
現地の案内人から、それが対人地雷によるものと知らされます。
しかも、あたりを見回すと他にも足や腕を失った人々が大勢いる。
雨宮氏は、ここにいる全ての人々を助ける事が出来るわけでもない。
そんな無力感にさいなまれたまま、その場を離れました。
日本へ帰る飛行機の中で、雨宮氏は母親から言われた言葉をかみしめます。
「陰日向のない人間になりなさい。 人のためになるような人間になりなさい。」
帰国後、雨宮氏は憤然と行動を起こします。
国内外の対人地雷専門家や政府、関係機関を訪ね歩き勉強を重ねました。
そして数ヵ月後、社内に対人地雷除去機開発プロジェクトを設置しました。
当時の社員は60名。
夢は大きい、しかしそれに比例して経営リスクも大きなものです。
社内から不安の声もありましたが、そのような声に対しては、
「まだ誰も取り組んでいないこと、技術やとして何か出来ないか。それも世界の人々に感謝される素晴らしい仕事だ。」と力説します。
その気持ちが、社員とその家族に通じ、皆が協力してくれるようになりました。
しかし、地雷除去機の開発は平坦ではありません。
世界中どこに出しても恥ずかしくない自負があった油圧ショベル技術を応用するアイデアはありましたが、全く何も資料が無い手さぐりでの開発です。
例えば、茂った木や草むらの下に埋められた地雷は、木や草を刈り取る機能が必要ですし、岩場なら硬い岩に対する耐摩耗性も必要です。
また、爆発の衝撃にも耐えられなければ実用にならず、爆発時に発生する800度~1000度の高温にも耐えなければいけません。
そして開発から3年以上を経て、待望の一号機が完成しました。
さあこれを世界中に送り出そうとした時、意外な壁が立ちはだかりました。
「武器輸出三原則」です。
これに抵触するという理由で、国外への輸出に「待った」がかかってしまいました。
ここで引き下がったら、今までの努力が水の泡ですし、何より地雷に苦しめられている人々はどうなるのか。
雨宮氏は2年近く「武器輸出三原則」の適用除外措置を求め、経済産業省に通い詰めます。
そして、ついに雨宮氏は適用除外の決定を勝ち取りました。
こうして雨宮氏が先頭に立って開発した地雷除去機は、それまでの除去作業に比べて50倍以上の効率アップを達成し、それまで地雷原だった土地を農地に変えていきました。
また、雨宮氏の地雷除去機は、部品を交換するだけで種まき機などの農業用機械としても使える設計になっています。
地雷原が無くなった後も、人々の役に立つよう考えられているのは、日本の技術屋ならではの発想と現地の人々からの「農業をやりたい」という切実な声を重視した証です。
その後、カンボジアだけでなく、アフガニスタン・アンゴラ・ニカラグアなど世界中の地雷原に地雷除去機は導入され、かつては人が立ち入ることが出来なかった土地は、トウモロコシ畑・オレンジ畑・学校などに生まれ変わっています。
雨宮さんは言います。
「対人地雷埋設国の人々は、私達に「支援してくれてありがとう」と言うけれど、例えばアンゴラの若者たちの真剣さを観ていると、自分たちは支援させて頂いているという気持ちになってくる。受ける側も提供する側も心が通っているからこそ。そこに何かが生まれる。日々の仕事の中で、「させていただいている」という敬虔な気持ちになることの重要性を学んだように思いますね。」
「技術屋っていうのは、ものづくりの挑戦者だと思ってきました。しかし今、それに加えて、技術の根源はモノづくりだけではなくて、人づくりにもあることを理解しつつあります。
たとえ一人になってもやり遂げなくては、と気負っていた時期もありますが、気がつけば、家族や社員、地域の人々、政府やNPO関係者、そして地雷埋設国の人々、あらゆる人に支えられている。そして真剣になれば必ず受け止めてくれる人がいて、想いが広がっていく。それが人を育むということなんだと実感しています。」
よく、「恵まれない人に愛の手を」という言葉を耳にします。
しかし、本当の「愛の手」というのは、同情心から自分の持っているものを分ける「施し」ではなく、ましてや相手が一方的に「俺にくれ!」「私にもちょうだい!」と言ってきた際に「仕方ないなぁ」としぶしぶ差し出すものでもない。
雨宮氏に限らず、日本の技術者は自分の持つ全てを使って仕事に取り組み、物を作るだけでなく、人のつながりも作ったのです。
これは、「施し」や「仕方なく」では出来ないことです。
日本という国は、こういう人たちが大勢いる素晴らしい国なんだと改めて誇りに思います。
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カンボジアについては、これまで何度かこのブログでも書かせていただきました。
そのなかのひとつが、
「アンコール遺跡とカンボジア」です。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-691.html
記事の中でも書いたのですが、カンボジアの国中にバラまかれた地雷は、China製の地雷です。
そしてこれを撤去するのに貢献したのが、日本の自衛隊でした。
さらに日本は、カンボジアの平和のために、世界の要人を集めてカンボジア平和会議を開いた。
これが、昭和27年の独立後、日本がはじめて世界で独立国として認められた最初の世界会議です。
これを押し進めたのが、時の外務大臣の宇野宗佑氏で、氏はその功績によって内閣総理大臣に就任した。
けれど指三本事件で、わずか二週間で退陣に追い込まれています。
その退陣劇を仕組んだのが、カンボジアの地雷利権を侵害された中共のスパイだったという説もあります。
また、本編で紹介された地雷除去機を用いた自衛隊の撤去作業によって、カンボジアでは普通選挙が行われることになったのだけれど、その地雷撤去作業中、新左翼の辻本清美率いるピースボートが現地にやってきて、現場で命がけで働く自衛隊員を、さんざんコケにして行った。
戦後の日本は、何かが大きく間違っていたように思います。
その間違いを正すのは、しっかりと地に根を張って生きるまっとうな日本人のチカラだと思うのですが、いかがでしょうか。
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