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コスタ・コンコルディア

今月13日、イタリアで豪華客船「コスタ・コンコルディア」が座礁し、転覆しました。
そして船の豪華さと、船長の無責任ぶりに、世界が驚いた。
なんと船長は、乗客が逃げ惑っている最中に、真っ先に船を捨てて逃げ出し、沿岸警備隊隊長から「船に戻れ。乗客を救助しろ」と命じられても拒否したうえ、携帯電話で母親に無事の連絡をしていたというのだからお粗末です。
日本人の感覚では、ちょっと考えられないお話ですが、こういう話を聞くと、つい思い出してしまうのが、メデューズ号遭難事件です。
それは、いまから2百年ほど前の事件です。


メデューズ号というのは、大砲を40門装備し、搭乗員397人の、れっきとしたフランス戦艦です。
この船が、文化13(1816)年、フランスから西アフリカのセネガルに向かう途中、操船を誤ってアルガン岩礁に乗り上げて座礁してしまった。
ところが、です。
手持ちの救命ボートが6隻しかない。
ボートの収容人員は250人です。
搭乗員は397人。147人分が足りない。
そこで、救命ボートに乗りきれない147人(男性146人、女性1人)のために、乗員達は、きゅうきょ船内の角材を使って筏(いかだ)を作り、これを、救命ボートで曳航することにしたのです。
海岸までの距離は50キロです。
ところが折からの強風のため、曳航用のロープが切れ、筏(いかだ)は漂流してしまう。
そもそも曳航用に急造した筏(いかだ)です。
筏(いかだ)には食料も水も、救援物資はほとんど積まれていません。
操舵や航海のための手段もない。
筏(いかだ)が漂流を始めます。
ほどなくして、その小さな筏(いかだ)の中で、士官と乗客、水兵と陸兵の間で争いが起こった。
そして漂流が始まった最初の夜の内に、20人が殺されてしまいます。
さらに何十人もが、比較的安全度の高い筏(いかだ)の中央部の席を争って死にました。
3日目には筏(いかだ)上の生存者は、わずか67人に減ってしまった。
筏(いかだ)には食料が積まれていません。
すると人肉食を行う者が出始めた。
そして肉を食べて力をつけた者が、弱ったり傷ついた者を海中に放り込んだ。
このため、漂流8日目までに、52名が死亡してしまう。
筏(いかだ)は、漂流9日目に、偶然遭遇したアルギュス号によって発見され、救助されました。
筏に乗船したのは、147人です。
けれど、救出されたのはわずか15人だけだった。
これがメデューズ号遭難事件のあらましです。
この物語は、ひとつには、洋上での漂流が、かくも厳しいものだという逸話です。
けれど同時に、名誉あるフランス軍人でさえも、海難に遭遇したときには、鬼畜の本能が出てしまうという逸話でもある。
漂流といえば、世界最長の漂流日数を記録しているのは、ロビンソンクルーソーではありません。
実は、日本人です。
時は、メデューサ号遭難事件の3年前、文化10(1813)年のことです。
尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船「督乗丸(とくじょうまる)」(約120トン)は、乗組員14人を乗せて江戸からの帰還途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ、遭難しています。
督乗丸は、嵐のため舵を破損してしまった。
このため海流に乗って、太平洋を漂流し、文化12(1815)年に、米国カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上で英国船に救助されるまで、なんと484日間にわたって漂流したのです。
これが世界最長記録です。
生存者は、船頭の小栗重吉、音吉、半兵衛の3名だけだった。
3名は、ベーリング海峡を経て択捉島(えとろふ)島に護送されるけれど、その途中で文化13年6月に、半兵衛が病死し、最後に残った小栗重吉と音吉の2名が、同年9月に松前に到着。
江戸での取り調べのあと、文化14(1817)年4月に身柄を尾張藩に移され、5月にようやく故郷の土を踏んでいます。
文政5(1822)年、生き延びた船頭の小栗重吉から、国学者の池田寛親が、漂流のいきさつや経緯を詳しく聞きとり、これを「船長日記(ふなおさにっき)」という本にまとめて出版しています。
おかげで、漂流の詳細な情況が、いまに残された。
記録によると督乗丸は、海難にあった時点で米を6俵と、大量の大豆を積んでいたのだそうです。
当初、乗員は14人だったのだけれど、遭難時に1人が転落事故で死亡。
漂流したのは13人です。
漂流が始まって13日目には、船長の重吉は長期の漂流を覚悟した。
理由は、「八丈島が見えない」。
以後彼は、大変なリーダーシップを発揮し、食糧の食べ方など諸々の指示を仲間に与えた。
重吉は万年暦というものを持っていて、その暦に基づいて日々の出来事を書き付けていたようです。
86日目に米が尽きる。
魚を釣る話も出てきますがなかなか釣れなかったようです。
150日目には起き上がれない人が相当出てきた。懐血病のようで寝たきりになり起き上がれない。
212日目には、初の死者が出た。
ここから350日までの間に10人が立て続けに死亡する。
そして残ったのは3人だけとなった。
350日目、3人のうち2人が、死体遺棄を重吉に提案をします。
10人の死体をこのまま置いておくのは如何なものか。船を守っている神様が悪臭を放つ死体を嫌っているのではないか。しかるが故に陸に辿り着けないのではないか。船霊の怒りを鎮めるために死体は捨てるべきではないか、と主張したのです。
当時「船霊」といって、右舷に3種の船霊が収められていたそうです。
1つは女性の髪の毛です。
この時は船主の奥さんの髪の毛。
それから双六のサイコロが2つ。
そして1対の紙で作ったお雛様。
この3つが船霊だそうです。
これに対し船長の重吉は、逆に竜宮の神の怒りを心配したのだそうです。
「死体を海に捨てるのは簡単だ。ただ捨てることで海底の海神様が怒るのではないか。それで海が荒れたら船は沈んでしまう。」
悩んだ末、重吉は、おみくじに頼る。
すると、「捨てろ」とでた。
こうして3人は10人の死体を海に捨てたそうです。
その時の描写にはこう書いてあります。
「死体を触るとぼろぼろと崩れ落ちる。土を運ぶがごとく手にすくって、その死体を海に入れた」。
「ぼろぼろと」とか「土を運ぶがごとく」という表現が印象的です。
話が前後しますが重吉は、
「おみくじで棄てろというなら仕方あるまい。ただ1ヶ月待ってくれ。その間、自分の夢枕にこの死んだ者が“捨てないでくれ”と語りかけてきたら中止しよう」と言ったそうです。
それで1ヶ月延期したのですが、誰も夢枕には出てこなかったということで捨てた。
それ以降2ケ月強、天候が悪化、サメが出たり、今まで釣れていた魚が釣れなくなったとか、3人のうち船長を除く2人が体調不良となり、元気なのは重吉だけとなったそうです。
それから3か月あまり更に漂流が続き、重吉までもが身体が弱り、万事に悲観的になり落胆してしまう。
もうおみくじを引く意欲も無くなるのですが、440日目に意を決して、もう1回引きます。
その時の状況は、簡単に言えばカードを3枚用意し1と3を引いたら自殺する、2を選んだらまた生きようと考えたそうです。
結果は2番だった。
そこで、「しからばいつ頃陸地に巡りあえるのだ」と更におみくじを引く。
回答は「今から1~2ヶ月後」。
それで元気回復、頑張るわけです。
さきに概要で述べたようにその一カ月半後の484日目、サンタバーバラの沖合まで漂流した督乗丸は英船に救助され、3人は露船に移乗する。
こうして、2人が約3年半ぶりで日本に帰った訳です。
重吉の統率力、グループの意欲を高める力は大変なものがあります。
例えば、皆に念仏を唱えさせたという話があります。
念仏を唱えない奴には食料を与えないと宣言までしている。
面白いのは船内で「好きなだけバクチをやれ」となかば強制的にバクチをやらせていることです。
重吉はその時30歳を少し越したくらいの年齢でした。
自分より若い仲間が死んでいく中、自分だけは生きて帰るという思いが特別強かったようです。
それも自分の個人的な為でなく、「なんといっても供養塔を建てる、建てるまで俺は死ねない」という堅い信念のもとで彼は生活したようです。
そうした信念あればこそ生き延びられた。
そして彼は、本当に、日本に帰ったあと、供養塔を建てている。
供養塔は、いまも名古屋市熱田区のお寺に残っています。
ただ建設資金には苦労したようで、資金集めに熱田神宮などで参詣人相手に見料を徴収しています。
メデューズ号遭難事件は、その日のうちには殺し合いが始まり、わずか3日目には食人が、そしてわずか9日間の漂流ですら400人中385人が死亡しました。
このたびのイタリア客船では、船長がいの一番に逃げ出した。
けれど、日本人は、そういういわば極限状態におかれてもなお、助け合い、励まし合い、みんなで生きて行こうとする。
人類史上最長の漂流生活を耐え抜いたのは、人としての気概を忘れない日本精神です。
私たち日本人が、日本人としての心を取り戻すこと。
それこそが、いまの日本にもっとも求められていることなのではないかと思います。
※督乗丸の漂流については、本田技研工業の仲村孝さんの講演録を参考にしました。
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