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橘中佐
橘中佐

NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」は、最終回が日本海海戦でした。
日露戦争といえば、とかく旅順要塞攻略戦、日本海海戦、奉天戦が強調されがちですが、忘れてならないのは遼陽会戦(りょうようかいせん)です。
遼陽会戦は、明治37(1904)年8月24日から9月4日まで行われた満州の遼陽での陸戦です。
この戦いで、日本とロシアの陸軍の主力部隊が、はじめて衝突しています。
ロシア軍の兵力は、15万8000人。
日本軍は、12万5000名の兵力です。
両軍合わせて28万の兵が激突した。
世界の戦史に残る壮絶な戦いです。
時間を追ってみてみます。


明治37年2月9日、日露戦争がはじまりました。
日本陸軍は朝鮮半島北東の仁川に上陸し、同時に海軍が旅順港を封鎖して、黄海の制海権を確保します。
そして乃木大将率いる第三軍が、旅順要塞の攻略に向かい、黒木為(くろきためもと)大将が率いる第一軍が朝鮮半島の大同江に上陸します。
黒木大将の第一軍は、5月1日に鴨緑江渡河戦(おうりょくこうとかせん)で、2万4000人のロシア軍鴨緑江守備隊を打ち破ります。
5月5日には、奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第二軍が遼東半島の塩大澳に上陸し、ロシア軍の立てこもる旅順要塞を孤立化させるために南山攻略を行い、続いて大連を占領する。
そして5月30日には東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ、連戦連勝で北進して、遼陽を目指した。
野津道貫(のづみちつら)大将率いる第四軍は、大弧山から上陸して柝木城を攻略したあと、やはり遼陽へと進撃しています。
こうして8月中旬までには、日本軍は、黒木大将の第一軍、奥大将の第二軍、野津大将の第四軍が、それぞれ遼陽に集結した。
遼陽を死守しようとするロシア軍は、15万の主力部隊をここに集結させ、万全の備えをひいて、日本軍を待ち受けます。
そして8月30日、戦闘の火ぶたがきって落とされた。
この日第二軍は、前日来の豪雨で全員びしょ濡れになりながら、陣地の中堅の首山堡(しゅざんほ)を目指しました。
敵の中核陣地です。
この戦いで、後に軍神となられた橘周太(たちばなしゅうた)中佐が戦死しています。
どのような戦いだったのか、橘中佐の活躍から見てみたいと思います。
橘中佐は、第二軍、歩兵第三四連隊所属の第一大隊長です。
出身は長崎で、生まれは慶応元(1865)年ですから、この戦いのとき39歳になります。
たいへんな部下思いの人で、26日の遼陽の豪雨では、露営した全員がずぶぬれとなったことに、「兵卒の苦労察せられ落涙せり」と日記に書いています。
ちなみに橘家は、敏達天皇の皇子である難波皇子の玄孫の橘諸兄の直系で、楠正成と同族です。
楠正成の弟の正氏が和田姓を名乗り、その子孫の和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移って城代となり、橘中佐の先代から橘姓を名乗っています。
その橘中佐率いる第一大隊に、敵の中核陣地である首山堡攻略の命が下ります。
第一大隊は、30日の夜明け前のまだ暗いうちに総攻撃を仕掛けます。
攻撃に気付いた敵は、白兵突撃をする大隊に、猛然と弾丸を浴びせてきます。
たちまち先頭の数名が敵弾を浴びて斃れた。
部下を殺された橘中佐は、まさに怒髪天を衝きます。
そして「予備隊、続け~!!」と叫ぶと、愛刀の関の兼光を抜き、先頭をきって猛然と敵塁に駆け上ります。
その姿に大隊の兵士たちも、敢然と吶喊攻撃を仕掛ける。
いっきに敵塁に達した橘隊長は、降り注ぐ敵弾をものともせず、敵塁に猛然と飛び込むと、たちまちのうちに数名のロシア兵を斬り伏せます。
そこに決死隊の数百名が、さらに飛び込んできて、敵兵を倒す。
敵味方入り乱れた白兵戦の中、大柄のロシア兵たちは、砦を奪われまいと必死に抵抗したけれど、第一大隊の戦意は敵をはるかに凌駕した。
そしてついにロシア兵は撤退し、第一大隊が砦を奪い取ります。
砦には高らかに日の丸が掲げられ、全員で「万歳」を唱和した。
これで首山堡を奪うことができたと、喜んだのもつかの間、こんどはこんどは砦を奪い返そうと、敵兵がときの声をあげて突入してきます。
さらに砦に向かって雨のような十字砲火を加えて来た。
首山堡は、小さな丘の上にある砦です。
ここに立てこもる第一大隊の兵士たちは、この砲火によって、占領の喜びもつかの間、たちまちのうちに、死屍累々の屍の山を築いてしまう。
壕の中は、味方の兵たちの鮮血で真っ赤に染まった。
そして橘中佐のすぐ近くにいた腹心の部下の川村少尉も、このとき敵弾によって喉を撃抜かれて斃れてしまいます。
「このままではやられる」、橘中佐は川村少尉を壕の物陰に運び、傷を受けた喉に包帯を巻き終えると、再び憤然と立ち上がり、日本刀を引き抜くと、擲弾の唸る前線に飛び出します。
そこは敵弾降り注ぐ中です。
敵弾は、たちまちのうちに橘中佐の手にした刀の鍔を打ち砕いて指を吹き飛ばし、さらに中佐の腕の肉を削り取ってしまう。
さらに腰にも敵弾が命中する。
ふつうなら、それだけで腰を抜かしかねない大怪我です。
けれど橘中佐は、自身の怪我をものともせず、決然と立ちあがると、
「いまこそ雌雄を決するときだぞ!この地を敵に奪われるな!敵を打ち払え!」と天にも届く大音声で味方の兵を励ました。
日頃から敬愛する大隊長が、敵弾を受けながらも、一歩もひるまずに自分たちを励ましてくれているのです。
その姿を見て奮起しない者はいません。
部下たちは、まさに火の玉、鬼神となって敵を迎え撃ちます。
そしてついに、あまりに猛然と火を放つ日本軍の前に、さしものロシア軍も総崩れとなった。
ところがそのときです。
橘中佐の近くで炸裂した敵の砲弾の破片が、橘中佐を直撃した。
どうと倒れる中佐。
中佐は、「おのれ、無礼者め」と立ち上がろうとするけれど、立ち上がれない。
くやしいことに敵弾は中佐の腰骨を砕いています。
近くにいた内田軍曹が、「隊長、傷は浅いものではありません。しばらくこちらに」と橘隊長を壕の物陰に運びます。
「そんなことはない。見よ内田。たいしたことはない」と、戦場に戻ろうとする橘隊長だけれど、軍服を脱がせ、傷口を見ると、腰から鮮血がほとばしっている。
これでは助からないと、あきらめそうなところなのだけれど、橘中佐は、あきらめません。
ええい、ままよとばかり声を励まし、
「隊長の俺はここにいる。受けた傷は深いものではない。諸氏は日本男児の名を思い、命の限り戦い防御せよ」と隊員たちを励ました。
寄せては返し、また寄せる、戦いはまだまだ続きます。
橘大隊は、敵の新手を打ち返すのだけれど、いかんせん、味方の兵は少なく、さらに敵襲の度毎に、味方の兵力は次々と失われて行きます。
このままではせっかく奪い取った首山堡を、ふたたび敵に奪い返されるのも時間の問題となったとき、中佐は自分の看病をする内田軍曹に、「軍曹、味方の残兵は少ない。俺は大丈夫だから、君も銃をとって戦え」と命令します。
寡兵となりながらも、猛然と戦う第一大隊。
ひいては押し寄せるロシア兵。
いくどかの戦いの後、辛くも敵を打ち払ったけれど、もはや味方の兵は少なく、この地を占めることは困難です。
内田軍曹は、敵を打ち払ったこの隙に橘中佐のもとに戻ります。
そして、いまのうちになんとかして隊長を後方の野戦病院に送ろうと、橘隊長を背負い、屍を踏み分け、壕を飛び越え、刀を杖にして岩を超え後方に下る。
ところがそのとき、7発の敵弾が、橘中佐の背中に当たります。
そして数発が貫通して内田中佐の胸を破った。
こうして橘中佐は、遼陽の首山堡の露となり、この世を去ります。
その翌々の9月1日、首山堡でみせた日本軍のあまりの壮絶な攻撃ぶりに恐れをなしたロシア軍は、後方の奉天に撤退し、日本軍は、遼陽入城を果たしました。
この戦いで、日本側は2万3615名の兵を失ったけれど(ロシアは1万7900人が死亡)、戦いは日本の勝利となっています。
橘中佐は、亡くなる直前、「残念ながら天はわれに幸いしなかった。とうとう最期が来たようだ。皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望だ。ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのが、申し訳ない」と、最後の最後まで、部下を気遣っていたといいます。
戦闘のあと、内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡で、次のように述べています。
~~~~~~~~
翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、遼陽街の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、日本軍を歓迎する情は、至れり尽くせりのすばらしいものでした。
けれど、ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、もうすでに隊長殿はこの世におられません。
遼陽の歓迎ぶりがどんなにすばらしいものであったか、語ろうと思いましてもこの世におられません。
私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してより、まだ日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、まるでずっと昔からの部下であったように接してくださいました。
私はおかげさまで、いつも勇み励み、愉快な軍務に服することが出来ました。
崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長、故陸軍歩兵少佐橘周太殿、ご神霊にご報告しなければならないことがいっぱいありますが、眼は涙に曇り、胸ははりさけんばかりで、思うがごとく述べ切れません。
ただ、願わくば、ご神霊を拝み、いつの日にか、再び地下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであります。
~~~~~~~~~
そして橘少佐は、死後特進して中佐となり、軍神となりました。
ちなみにいま、陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘連隊と呼ばれています。
橘中佐の遺徳は、こうしていまでも引き継がれているのです。
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橘中佐 内田栄一

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