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源頼朝

先日の朝、出勤前にテレビを見ていて、ぶったまげました。
「最近、日本の常識が変って来ている」というコーナーの目玉で、鎌倉幕府の成立年が変ったというのです。
過去の出来事の成立年代が変化などするはずありません。
どういうことかと思って見ていると、
我々の世代では、鎌倉幕府の成立は、
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」で、1192年と教わりました。
ところが、最近の中高生の歴史教科書では、鎌倉幕府の成立年は、1185年だと書いてあるというのです。


テレビには、学校の先生らしき人が出て、「諸説あるようですが、いまでは1185年が鎌倉幕府の成立とされています」と、ニコニコしながら述べていました。
とんでもないことです。
1185年といえば、壇ノ浦の戦いで平家が滅んだ年です。
平家を討ったのが源氏で、源頼朝の命を受けた(頼朝の弟の)義経が、平家を追討しています。
ところが義経は、平家を討ったあと、朝廷に密着したために、鎌倉にいる兄貴の頼朝から疎んじられ、ついにこの年、頼朝から追われる身となってしまう。
1185年というのは、そういう年です。
ちなみに兄貴の源頼朝が、平家追討の挙兵をしたのは、5年前の1180年です。
彼は、伊豆で挙兵し、伊豆の代官、山木兼隆を討つのに成功したあと、箱根の湯河原で、石橋山の戦いで破れて千葉県に落ちのびた。
そこで彼は坂東武者(関東の武士達)の大結集を得て、同年11月9日(旧暦10月20日)、静岡県の富士川で、平維盛の大軍と対峙して、大勝利しています(富士川の戦い)。
ちなみにこの富士川の戦いがいよいよはじまろうとするとき、頼朝は、弟の義経と「涙の対面」をしたというのが有名な話です。
あと、この富士川の戦いのあと、頼朝から静岡県下の平定を命ぜられたのが甲斐の武田信義で、この方が武田信玄の祖先です。すみません、脱線です(笑)
富士川の戦いのあと、頼朝は、いよいよ本格的な平家追討のために、関東武者を集結させようと、兵をいったん鎌倉に引きあげます。
そしてその「鎌倉」を本拠にして、大軍を指揮できる体勢を構築する。
そして3年後の1183年、頼朝は、弟の源義経に命じて、いよいよ平家追討に乗り出したのです。
上洛した義経は、木曽義仲の追討や、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経由して、1185年、ついに壇ノ浦で平家を滅ぼし、一躍、時の人になるのだけれど、新政権を打ち立てたい頼朝は、義経追討の命を下します。
そして、3年後の1189年4月の「衣川の戦い」で義経は自害し、その後の奥州の戦いで、頼朝は東北地方を平定する。
その結果、同年11月には頼朝は、陛下から奥州征伐を称える書状をいただき、後白河法皇が没した1192年7月に、陛下から「征夷大将軍」に任じられています。
つまり、1185年の時点では、国内はまだ内乱の時代にあったわけで、源氏と平家の戦いとはいっても、それはまだ民間人同士の私的紛争にすぎないものでしかないし、頼朝が鎌倉に拠点を置いたというなら、それは1180年です。
たいせつなことは、民間人がたとえ強力な政治勢力となったとしても、それだけでは幕府とはいえない、ということです。
幕府という言葉は、「幕」が「天幕(てんまく)」、「府」が「お役所」を指します。
これが転じて、ご皇室に代わって指揮を取る、出先の将軍が幕を張った陣地を「幕府」と呼ぶようになった。
要するに、幕府というのは、陛下から将軍に任ぜられて、はじめて「幕府」となるのであって、ただ勢力を張っただけでは、幕府とはなりえない。
現代社会だって同じです。
政権第一党の党首になったからといって、そのまま内閣総理大臣になれるわけではない。
陛下のご承認をいただいた時点で、ようやく正式に総理となる。
米国の場合なら、大統領選に勝ったからといって、大統領ではありません。
天皇のいない米国では、神の前で宣誓をして、はじめて正式な大統領となる。
つまり、いかに鎌倉の頼朝が全国一の総大将となったとしても、それだけでは政府とはいえず、陛下から征夷大将軍の称号を得たときに、そこではじめて鎌倉の源頼朝政権が、国内の正式幕府となったのです。
このことは言い換えると、幕府を承認するのは、常に日本では陛下だということです。
当然のことながら、権威の序列は「天皇>幕府」となる。
1192年をもって「鎌倉幕府の成立」とする、という背景には、ご皇室尊崇という我が国最大の理念ないし、歴史、伝統、文化がそこに厳然と存在する、ということなのです。
ですから同様に、室町幕府の開始は、足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられた暦応元(1338年)が開始年だし、江戸幕府も同様に、徳川家康が征夷大将軍に任じられた慶長8(1603)年が、江戸時代の幕開けとなる。
要するに、鎌倉時代の幕開けや、室町、江戸幕府の幕開けを、意図的に征夷大将軍に任じられた年から「外す」というのは、日本古来の伝統であるご皇室尊崇の概念を否定しようとする左翼のきわめて不遜な陰謀に他ならないということです。
道徳観というのは、その国の歴史、伝統、文化に立脚するものです。
そうした道徳観を失うと、人は自己の欲望のためだけに生きるようになってしまう。
Chineseや韓国人が、個人としては教養も高く、立派な学問を得、また経済的に成功しても、集団となるとアホになるのは、彼らにそうした集団としての歴史、伝統、文化に根ざした道徳観が欠如しているからです。
これを裏返しにいうと「歴史を失った民族は滅ぶ」という言葉となる。
日本は、ご皇室という中心核が厳然と存在することで、日本人は神々の時代にまでさかのぼる歴史と伝統と文化を持った国民であり民族となるのです。
そうした根本を、教科書で、征夷大将軍という称号の記述まで外し、ご皇室の権威を貶めようとする。
そうすることで、日本人から価値観を持った歴史観を奪おうとする。
許せない暴挙です。
ついでに申し上げると、戦国時代の終わり、織田信長も、豊臣秀吉も、今川義元も、武田信玄も、上杉謙信も、みんな京の都を目指しました。
なぜかといえば、我こそは日本一の大名なりと自認した彼らは、応仁の乱以来、100年続いた戦国の混乱の世の中を、なんとしても終わらせようとした。
そのために、京に向かい、ご皇室を外護し、全国に号令して戦乱の世を終わらせようとしたのです。
単に武威を張る、お金持ちで贅沢のできる大大名でいたいというだけなら、拠点となる城にいて、周辺国を蹂躙し、富を奪えばそれで足りたのです。
そうではなく、戦国の有力大名が、それぞれ京の都を目指したというところに、日本という国の根幹がある。
ほんとうに、このままでは、日本という国の美質が、教育によって奪われ、まさに人類の良心の化身ともいえる日本民族の美質が失われ、日本人が年を追う毎に、Chinese化、Korean化してしまう。
一日もはやく、日本が日本を取り戻すために、私たちはいま、本気になって立ち上がらなければならないときにきていると思います。
すくなくとも、同じ保守同士で、互いのちょっとした理念の違いや、つまらぬ誤解で互いに叩き合うなど、もってのほかです。
ボクは、そう思います。
※ちなみに、歴史教科書の中で、育鵬社、自由社の2社の歴史教科書は、ちゃんと「1192年が頼朝征夷大将軍」と記載され、この年が鎌倉時代の幕開けとされていました。
問題は、他の教科書です。
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