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美濃部正少佐
美濃部正少佐

日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊があります。
この飛行隊は、NHKや、フジテレビ、テレビ東京などで、「特攻を拒否した」=「ヒューマニズムあふれる航空隊」として紹介されています。
なるほどこの芙蓉部隊は特攻攻撃をせず、終戦時まで戦力を蓄え、果敢に米軍への攻撃活動を継続しているのですが、その隊長であり、芙蓉部隊の創設者である美濃部正(みのべただし)海軍少佐は、次のように述べてヒューマニズム説を明確に否定しています。


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戦後よく特攻戦法を批判する人があります。
それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。
当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。
戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません。
ーーー美濃部正
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文章からわかる通り、美濃部少佐は、戦後も生き残りました。
そして彼は航空自衛隊に身を置き、最終は空将となって後進の指導に当たっています。
美濃部正少佐は、旧姓を太田といます。
昭和16(1941)年11月にご結婚され、姓が美濃部と変りました。
海軍兵学校は、第64期で、最初は水上偵察機のパイロットをされていたそうです。
昭和18年11月に、ソロモン諸島の水上機を装備した航空隊の飛行隊長に就任し、そこで水上偵察機を利用して、夜間策敵や敵基地の夜襲を行い、大戦果をあげています。
昭和19年1月には、水上機たった一機で敵の飛行場を爆撃し、大成功をしています。
このあたりのことについて、すこし解説が必要かと思いますので、ちょっとだけ脱線します。
大東亜戦争の転機となった時点について、戦後、多くの識者は、昭和17年6月の「ミッドウエー海戦」を掲げます。
ミッドウエーでは、たしかにそれまで連戦連勝だった帝国海軍が、初といっていい大敗北を喫したのですから、そう思われても仕方がない節があるかもしれません。
けれど、ミッドウエーで日本海軍が失ったのは、空母4隻と航空機の285機にすぎません。
この時点では、まだまだ帝国海軍には、十分な余力があったのです。
それよりも、日本が戦力を大幅に消耗したのは、実は、ミッドウエー海戦の後に行われた、ソロモン諸島の戦いです。
この戦いは、昭和17年8月から昭和18年11月まで、1年以上に渡って行われた戦いで、日本は8万人の将兵を戦死により失い、艦船50隻、航空機1500機を喪失しました。
もちろん米軍の側も、この戦いではたいへんな損害を出しており、米軍側も戦死11000人、喪失した艦船40隻、航空機800を失っています。
日米両軍とも、大消耗戦を戦い、最終的に日本がガダルカナル等の拠点を放棄して、戦線を縮小し、撤退した。
ではなぜソロモン諸島で、両軍がこれだけの大消耗戦を行ったかというと、理由があります。
それはひとことでいえば、米軍が「戦法を切り替えた」ということです。
それまで、米軍は、米海軍の機動部隊による日本統治領への進出を作戦の主体にしていました。
ところが黄色い猿と見下していた日本側がとても強い。
米海軍は、空母やら艦船、あるいは航空機が次々と撃墜されたり沈没させられたりしていたのです。
そこで米軍が考えたのが、陸上の飛行場の建設です。
まず、日本軍がやってこない後方に飛行場を建設する。
そこから飛行機を発進させ、日本軍の基地を叩く。
日本軍が、防戦している間に、前線に米軍の飛行場を建設する。
要するに、空母だと強力な日本軍の航空隊に空母ごと沈められてしまうから、陸上に飛行場を建設しちまおうというわけです。
南方の島々は、珊瑚の島だから、基本、平坦です。
だからそこにブルドーザーを持ち込んで、一気に木々をなぎ倒し、鉄板を敷いて滑走路にしてしまう。
普通に私たちの現代の感覚から見ても、成田に飛行場をひとつつくるだけでも、膨大な期間を要する大工事が想像されます。
それを、一夜のうちに実現してしまった。
当時の日本軍にしてみれば、「まさか」の出来事だったわけです。
そして陸上の滑走路は、上に枯れ葉を敷き詰めたネットを敷くことで、簡単に偽装できた。
ですから、日本軍からしてみれば、米軍の飛行機がどこから飛んでくるかわからない。
きわめて単純でわかりやすい戦法です。
けれどこの単純な戦法で、日本は7000機を越える航空機と、7200人のパイロットを失った。
ミッドウエーの比ではなかったのです。
米軍のこの作戦で、日本は1年半後には、この地域から残存空軍をすべて撤収することになった。
昭和19(1944)年12月に内地に帰還した美濃部少佐は、米軍の行ったこの作戦を、日本本土を守るために逆用しようと考えます。
彼はまず、日本本土の後方に、前線攻撃のための航空機基地を構築した。
本土防衛のための防空基地ではありません。
攻撃のための基地です。
その場所は、静岡県藤枝市、現在の航空自衛隊静浜基地です。
昭和19年12月から、翌昭和20年1月にかけて、まず優秀なパイロットをこの基地に集めた。
そして艦上爆撃機として生産されながら、故障が多いからと放置されていた水冷式エンジン搭載の「彗星」を、この基地に集結させます。

彗星
彗星

そして1月には、正式に3個飛行隊を擁する芙蓉部隊を創設し、ここを拠点に猛烈な急降下爆撃の訓練を実施します。
その年(昭和20年)3月、沖縄戦が始まります。
美濃部少佐は、芙蓉部隊の前線基地を、鹿児島県曽於市岩川町に進出させる。
沖縄に集結した米軍機動部隊は、千機以上の航空機をもって、九州一帯から瀬戸内海方面まで、日本軍の航空戦力に爆撃を敢行し、大打撃を与えます。
一方日本側は、米艦隊に向けて特攻攻撃を仕掛けるとともに、新型戦闘機の「紫電改」による精鋭部隊で米軍航空隊を迎撃します。
特攻機は、昭和20年3月19日には、米軍大型空母フランクリン、同ワスプを急襲し、フランクリンを大破させ、戦死832人の戦果をあげ、ワスプも大破して戦死302人の大戦果をあげています。
さらに5月11日には、米軍の誇る大型空母バンカー・ヒルも大破させている。
この間の芙蓉部隊の戦果もめざましいものがあります。
芙蓉部隊の進出した岩川飛行場では、まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設小屋や立木を置いて偽装し、滑走路に家畜を引き入れて牧場風にしただけでなく、飛行機も木の枝などで徹底的に隠し、また到着した飛行機からはガソリンを全部抜き取って火災による損傷を最小限に抑えます。
そして、特攻機が飛び立つと、特攻機が米軍によってレーダー補足されないよう、特攻機の進撃方向とは全然別な空域に金属片を散布して偽装し、特攻攻撃を成功に導きます。
さらにロケット弾や、空中で爆発して爆片をまきちらす新型爆弾などを積極的に導入し、
4月6日には、嘉手納海岸周辺の米軍巡洋艦を撃沈。
さらに12日には、米軍が占領した嘉手納基地を急襲して爆撃。
16日には、同じく嘉手納基地、読谷基地を急襲して爆弾を投下。
20日から26日にかけて、策敵行動をし、敵機を迎撃し、
27日には、北飛行場を爆撃し、中飛行場、伊江島飛行場の米軍を爆撃、慶良間で米艦隊を銃撃し、係留してあった飛行機を撃破。
30日には、敵夜戦機をおびき出し、燃料切れまでひっぱり回した上で、飛行場を襲撃し、敵空母を大破。
こうして芙蓉部隊は、8月15日の終戦の前日まで、述べ630機を出撃させ、莫大な戦果をあげます。
その戦果に対して、損害は、47機のみです。
しかも終戦時点で、なお、50機の残存戦力を持っていた。
芙蓉部隊は、あの物資の欠乏し、戦局厳しくなった戦争末期に、あえて特攻は行わず、人知の限りを尽くした戦法による爆撃や迎撃で、最後まで戦い抜きました。
戦争が終わり、GHQによる日本人洗脳計画がスタートし、日本国内では、メディアや左翼系有識者らがこれに悪のりすることで、戦争を起こしたのは全部軍部のせいだ、特攻などは、軍部が人命軽視をしていたなによりの証拠だ、などといった論調が形成されていきました。
そうなると、俄然、注目を浴びるのが、最後まで特攻攻撃ではなく、通常攻撃にこだわって大いなる戦果をあげた芙蓉部隊の存在であり、美濃部少佐の存在です。
メディアや左翼系学識者らは、なんとかして美濃部少佐を引っ張りだして、彼を戦時中、「人命軽視」の特攻攻撃に逆らったヒーローに仕立て上げようとします。
ところが、美濃部少佐は、こうした世論(?)の流行に、いっさい妥協しようとしなかった。
いくらそれが世論だからといっても、彼は帝国軍人として育った自らの信念を曲げることはなかった。
美濃部少佐は、航空自衛隊が組織されると、これに入り、最後は空将にまで登り詰めます。
その彼は、ひとこと、次のように述べています。
「戦前の海軍兵学校の人間教育及び卒後の人間関係は、戦後のどんな教育機関、組織より優れていたよ」
最後に、なぜ今日、美濃部正空将のことを記事にしたかについて、ボクの思いを少し書きたいと思います。
美濃部空将は、戦後も生きた方です。
その空将の戦前のご活躍は、靖国の英霊にも匹敵する素晴らしい戦いでした。
彼はまさに、日本が生んだ天才空将と言ってもいいかもしれない。
その彼は、自身の活躍をメディア等で語ることもなく、また何ら自慢することもなく、そして左翼の学識者や偏向メディアに踊らされることもなく、黙って後輩のパイロットを育て続けて、お亡くなりになりました。
戦後世代の私たちは、「言わなければわからない」という世代だと思うんです。
戦後の私たちの時代の日本人は、
「ちゃんと説明しなければわからない」
「わからないのは、ちゃんと説明しない方が悪い」
などと考える風潮があるようです。
黙っていたら誤解を生むだけ。
言わなきゃわからない。
たとえば会社の仕事にしても、マニュアルを見なきゃわからない。
自分はマニュアル通りにやっているのだから、それで失敗しても、それはマニュアルのせいであって、自分のせいではない、などと考えるのが、いまでは普通のことになっています。
けれど、もともと日本にある文化は、そうではないのではないかと思うのです。
「言わなくてもわかる」
「見ている人は見ている」
「言わなくてもわかるものがわからないなら、そのわからない方が、勉強が足りない」
そう考えるのが、昔の日本人だったのではないかと思うのです。
私たちの世代は、そんなのは日本人にだけ通用する理屈であって、国際化社会ではそんなの通用しない、などというのが「常識」となった世代です。
けれどほんとうにそうなのでしょうか。
国宝である正倉院には、頑丈な鍵はついていません。
そこにあるのは、紙の封印だけです。
鍵が、ただの紙なのです。
ただ紙が貼ってあるだけで、そこで誰も盗みを働こうなどとしない。
マニュアルなんてなくても、注意事項書や、警告文などなくても、ただそこに紙が貼ってあるだけで、誰もが盗みにはいろうなんて思わない。
「言わなくても、そんなのはあたりまえ」
それが日本社会だったのではないかと思うのです。
けれどそれって、人類の理想社会なのではないでしょうか。
美濃部空将は、死ぬまで自らの手柄を誇るようなことはせず、また、自分が行った通常攻撃は、特攻とともに勝つための作戦として行ったにすぎないと、謙虚です。
その偉業を、一部の学者が特攻批判、軍隊批判の道具に利用しようとしたけれど、美濃部空将は、そんなものまるで相手にしようとしなかった。
そうとうストレスはあったようです。
ですから晩年の美濃部空将は、何度か胃の潰瘍手術もしている。
けれど、それでも「わかる人にはわかる」と、彼は弁解も、通釈も、なにもしなかった。
下にチャンネル桜の、美濃部空将に関する動画を貼っていますが、お時間のある方は、是非、ご覧になっていただきたいのです。
晩年の美濃部空将は、とても良いお顔をされている。
何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。
そんなふうに思うのです。
人は、良いときには、ちやほやされます。
けれど、ひとたび落ち目になると、ボロカスに言われる。
かつての帝国軍人さん達がそうでした。
けれど、そうした批判や中傷、あるいは利用しようとする悪徳識者らの誘いに、彼は一切応じようとせず、「わかる人にはわかる」と、自らの使命をまっとうして、お亡くなりになった。
戦後世代が否定してきた昔の日本の文化が、実は、もしかしたら、ほんとうの意味で世界が必要としている普遍性を持った文化だったのかもしれない。
そんなふうに思えるのです。
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