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岡潔博士
岡潔博士

数学で行列とか統計とかとなるとかなり難しくて、ボクなども若い頃に多変量解析の数量化1類、2類の解析ソフトを作ろうとして、あまりに難解で途中で放り出したことがあります。
このときは結局、社内にいた数学の天才に、AIによる分類評価で代用プログラムを作ってもらって、なんとか目的を達成した、なんてこともありました。
ボクなどの数学のド素人が、そうやって数量化論にチャレンジしてみようなんて気を起こさせる原因を作ったのが、日本が生んだ数学の天才、岡潔(おかきよし)博士です。


岡潔博士という人は、明治31(1901)年に大阪で生まれた方で、もともとのご出身は和歌山県橋本市です。
和歌山県粉河中学校、第三高等学校を卒業後、京大学理学部に入り、そのまま同大学の数学科の講師に就任しています。
そしてなんと28歳で京大の助教授に昇任し、31歳で広島文理科大学助教授に赴任されています。
この助教授時代に、岡潔博士は3年間フランスのパリ大学のポアンカレ研究所に留学し、生涯の研究課題を「多変数函数論」に定めています。
「多変数函数論」というのがどういうものかというと、これがまた難しくて、ボクなどにはさっぱりわかりません(笑)
わからないので書きませんが、ただ岡潔博士の「多変数函数論」に関する論文は、博士の生涯に10編書かれ、このひとつひとつが珠玉の傑作論文として、世界的に高い評価を受けていたということです。
戦後のことですが、日本の数学者達が神様のように見ていた数学者のジーゲルという人が、「オカとはブルバキのように数学者の団体の名前だと思っていた」と語ったそうですが、博士の研究論文は、まさかそれがたったひとりの頭脳の中から出て来たとは信じられないくらい、内容の濃いものであったということです。
だからジーゲルや、ブルバキの主要メンバーであったヴェイユ、カルタンといった、世界を代表する数学者らが、後年わざわざ奈良まで岡潔を訪ねたりもしている。
湯川秀樹、朝永振一郎といった大学者も、この岡潔博士の授業を受けていて、その授業はたいへんに素晴らしい新鮮な空気のただようような時間だったと回想している。
時代の最先端を行く数々の論文を発表し、世界の大数学者のひとりとまで数えられた岡潔博士なのだけれど、その岡博士には、さまざまなエピソードが伝わっています。
ひとつ目は、フランス留学中のことです。
矢野健太郎氏といえば、数学の参考書などでお世話になった方も多いかと思うのだけれど、ある日、その矢野先生がフランスの数学者から「岡は,起きてから寝るまで,数学以外のことは何もしな いということを聞いたがほんとうかね」と聞かれたのだそうです。
矢野先生が「ほんとうですよ」と答えると、その数学者はそそくさと席を立って研究にむかったといいます。
岡潔博士は、それほどまでに数学の研究に没頭していた。
岡潔博士は、広島文理科大で助教授をしていたと上に書いたけれど、その広島文理大学は、わずか6年の勤務で辞めています。
辞めた理由がふるっていて、なんと授業があまりにでたらめであると学生から苦情が出たから、なのだそうです。
授業中に黒板一杯に数式を書く。
書き終わると、そのまま考え込んでしまって、ひとこともしゃべらない。
学生たちが騒ぎだしても、まるで耳に入らない。
まともな授業になってない、というのです。
ちょうどこの頃というのは、まさに博士が研究に没頭しているときで、博士にしてみれば、授業中であろうとなかろうと、研究テーマに沿った何か新たな発見がそこにあると、もう自分の世界にはいってしまう。
授業どころではなかったのかもしれません。
けれど生徒や大学側からしてみれば、そんな博士の都合などまるでわからない。
さんざんに岡助教授を無能とこき下ろし、学生たちは岡博士の授業のボイコットなども行った。
結果、博士は、37歳で精神不安定状態に陥って、広島文理大学の職を辞しています。
それからまる12年、博士はいまでいうニート、ないしはフリーターとなって数学の研究に専念します。
どうやって生活したかというと、自らの田畑を売り、奨学金をもらって生計をたてた。
この頃の岡博士をよく知る作家の藤本義一氏は、当時の岡博士について次のように語っています。
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博士は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んでいました。
「プラスの日」は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂の和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開する。
「マイナスの日」は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と大声で怒鳴り散らし、手がつけられない。
岡博士のこの行動は、おそらく躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき、といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった。
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博士のこのフリーター生活は、49歳 で奈良女子大に勤務するまで続きました。
その間、勤務の日であっても、今日が「マイナスの日」なら平気ですっぽかす。「プラスの日」であっても数数学に没頭すると、何日でも徹夜する代わりに、仕事をほったらかす。
こうした岡博士の行状は、一般の社会常識としてはまるで奇行そのものです。
けれど博士は、そうした毎日の中で、数学だけを追求し続けた。
博士のすべての生活は、数学のためだけにあった。
その結果、博士は世界最先端の「多変数函数論」の解析を独自で行い、そして10個の論文を通じて世界の数学の発展に寄与したのです。
晩年、岡博士は毎日新聞社の薦めによって、「春宵十話」という連載もののエッセイを書くようになります。
その中で博士は、次のように述べている。
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日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。
こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。
自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。
そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。
これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。
こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。
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博士は、わからないことを「わからない」で済まさず、とことんそれが「わかる」まで追求しようとしたのでしょう。
その「わかる」ということは、自分という存在以上に博士にとって大切なことだったのだろうと思う。
さらに博士は言います。
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直観から実践へというと、すぐに陽明学のようなものを想定するかもしれないが、ああいうものは中国からきて日本化したのではなく、もともと昔から日本にあったものなのである。
(昨今の日本では)善悪の区別もつかなくなってきた。
日本で善といえば、見返りも報酬もないもので、少しも打算を伴わないことである。
そこに春泥があることを温かみとして沛然と納得するごとく、何事もなかったかのように何かをすること、それがおこなえればそれが善なのだ。
それから、これは西洋でも相当におかしくなっているのだが、人を大事にしていない。
人を大事にしないと、人とのつながりに疑心暗鬼になっていく。
人と人のつながりなど、最初につながりがあると思ったら、そのままどこまでも進むべきなのだ。
どこかで疑ったらおしまいなのである。
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「自らの身は省みず」という言葉があるけれど、戦場で公に尽くすにあたっては、自分の命さえも投げ打つというのが日本精神だと言う意味でよく使われます。
けれど岡博士にとって、「自らの身は省みず」というのは、単に戦場だけでの話ではなく、何事かをなすにあたって、見返りも報酬も求めず、少しも打算を伴わないで、ひとつのことに熱中することだったのではないでしょうか。
そして戦後の日本というものが、そういうひとつのことに熱中する人を大切にしなくなった。
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太平洋戦争が始まったとき、私は日本は滅びると思った。
ところが戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。
そのかわり死なばもろともと思っていた日本人が我先にと競争をするようになった。
私にはこれがどうしても見ていられない。
そこで自分の研究室に閉じこもったのだが、これではいけないと思いなおした。
国の歴史の緒が切れると、そこに貫かれていた輝く玉たちもばらばらになる。
それがなんとしても惜しいのだ。
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目先の競争に明け暮れ、でしゃばった自分を甘やかし、自分に不利なことや未知なことに対しては、すぐに「わからない」と言って放棄してしまう。
そして自分がでしゃばりすぎて、国の歴史さえも忘れようとしている。
そのために、日本に古くから貫かれていた、輝く珠のような精神の紐帯が、バラバラになり、分断されてしまっている。
思えば、岡博士に限らず、江戸時代を代表する学者たちというのは、どこか奇行の目立つ人達ばかりでした。
ひとつのことだけに集中してしまうと、他のことが頭にはいらなくなり、まさにそれだけに没頭したような状態になります。
そうなると自分がいまどんな服装をしているのか、どんな髪型をしているのかなんていうことさえもわけがわからなくなり、というか、まるで意識しなくなり、そのことだけに集中してしまう。
戦後の、とくに昨今の保守派の状況をみると、ある程度の規模になった団体は、どこも凄まじい内紛となっているようです。
運営に対して、バランス感覚が欠如しているとか、奇行が目立つとか、世間の常識をわきまえないとか、ボク自身もかなりそう言って非難を受けている。
けれど、一般常識に従って、きちんとした生き方をしようとするなら、保守活動なんていう馬鹿なことは正直やってられない。
自分がどうなろうが、世の中に何かを残したいと心に決めたその瞬間に、他のことはわけがわからなくなる。
わけがわからないくらい集中して頑張らないと、世間は何も変わらないと思うからです。
それでもまだ我々の世代は恵まれている。
昔は少し右寄りだというだけで、まるで気違い扱いされた。
岡潔博士は、奈良女子大退官後、京都産業大学の教授となり、「日本民族」を講義されています。
そして昭和35(1960)年には文化勲章を授章。昭和38(1963)年には毎日出版文化賞、そして昭和48(1973)年には勲一等瑞宝章を授章され、昭和53(1978)年には従三位となられています。
世間では奇行の持ち主と蔑まれた博士を、陛下はちゃんとわかってられたのです。
そして従三位を送られた昭和53年3月1日、永眠されました。
享年77歳でした。
ボクは、岡潔博士という人がこの日本にいたことを、とっても誇りに思います。
そうそう。最後にね、岡博士が生前書いておられたことを、ひとつ。
それは、数学では「なかったこと」を「なかった」と証明するのは非常に困難、というより不可能である、ということを述べられている、ということです。
たとえば南京事件など、あきらかに「なかった」。
なかったけれど、ないことを「ない」と証明するのは、非常にむつかしい。
ところが、「あった」とする側は、証拠のねつ造はするは、あと講釈の理屈はつけるわで、とにかく「あったかもしれない」という印象操作ができれば、それでOKなのです。
日本は、ずっとこれでやられている。
岡博士は、こうした行為が、もっとも卑劣なことだと、たいへんお怒りだったです。
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