
上の写真は8月10日に撮ったものです。
稲穂がだいぶ成長して、頭を垂れてきています。
稔るほど
頭を垂れる
稲穂かな
昔の人はいいことを言ったものです。
写真をよく見てください。
稲穂が、稔って垂れてきていますが、その周りで葉は青々と天に向かってまっすぐに上を向いて育っています。
稲穂が垂れれば垂れるほど、葉はますます元気に天に向かってまっすぐに育つ。
日本の社会では、古来、大将が実力をつければつけるほど、大将の頭は低くなり、謙虚になります。
そして大将と一緒に育った周りの葉は、ますます青々とそびえ立つ。
稲は、稔ってくれてはじめて世間のお役に立つことができます。
世間のお役にたつから、農家のみなさんは稲を大事にだいじに育ててくださる。
そして稲穂は稔ると頭を低くし、葉はますます意気軒昂にそびえ立つ。
葉は、稲穂が稔ってくれたから、まっすぐ元気よく成長できたのです。
稲穂は、葉があるから、青々と育つことができたのです。
稲穂は、育ち、成長して頭を垂れ、腰も低くなります。
でもこのとき、稲穂の腰が低いからと、葉が「俺の方が偉いんだ」と稲穂を見下したらどうなるのでしょうか。
葉が、「稲穂なんてたいしたことはない。腰が低いばっかりで、まっすぐに立っている俺たちの方が数も多いし場所もとっているし、偉いんだ」などと言い出したら、どうなるのでしょうか。
葉が、腰の低い稲穂をないがしろにし、葉が「俺が偉いんだ」とばかり我が物顔にのさばりだしたら。。。
葉だけが育ち、稲穂が稔らない稲など、育てている農家にとっては無用の長物です。
葉は伐採され、廃棄されることになるしかない。
稲穂が稔って頭を垂れて腰を低くしているからといって、葉が偉いんじゃないのです。
稲穂が稔る。
葉はますます立派に育ち、光合成をして栄養分を稲穂に送る。
互いに協力しあうことで、稲穂も葉も、一体となって収穫のその日まで、育ち続けるのです。
そうやって、おいしいお米ができあがる。
実は、「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、単に人が成長したら腰が低くなるべきだ、ということだけを言っているのではないのではないかと、ボクは思うのです。
稲穂は、稲穂だけでは育たない。
周囲に元気いっぱいの葉があるから、茎があるから、根があるから育つことができる。
そうして土も根も茎も葉も実も、一体となって、はじめておいしいお米ができあがる。
だから、上司や親などの目上の人が腰が低くなればなるほど、自分が青々と天に向かってそびえたっていれるのも、そうやって頭を垂れてくれている穂のおかげなのだということをよく認識しなさい、誰が偉いとか、誰が上だとかではなくて、みんなで一緒になって育って行くんだよ、というメッセージも、この短い言葉の中には込められているのではないか。
稲穂の育った姿を見ながら、そんなことを思いました。
「恩を知る」という言葉は、そういう意味の言葉なのだと思うのです。
古くからの日本社会では、「恩知らず」というのは最大の侮蔑の言葉です。
最近では、自分が成長すると、まるで自分ひとりで成長したかのように錯覚し、育ててくれた親や教師や上司を「俺はビックになったのだ」とばかり平気で見下す人が多くなったように思います。
それが個人主義であり、実力主義であるというなら、そんな主義主張や思想は間違っている。
すくなくとも日本という国は、そういう国ではない。
日本人なら日本人らしく、互いに助け合い、認めあい、成長するほどに謙虚になり、やさしくなる、そういう生き方が、普通にできる社会をこそ、ボクたちが求める理想社会なのではないかとボクは思います。
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