
岩波文庫に、マルクス、エンゲルス著「共産党宣言」という本があります。
その本の表紙には、次の文章があります。
~~~~~~~~~~~~
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」
という有名な句に始まるこの宣言は、階級闘争におけるプロレタリアートの役割を明らかにしたマルクス主義の基本文献。
マルクス(1818-83)とエンゲルス(1820-95)が1847年に起草、翌年の二月革命直前に発表以来、あらゆるプロレタリア運動の指針となった歴史的文書である。
~~~~~~~~~~~~

要するに、共産主義というのは、家庭における親子の関係、学校における教師と生徒のような師弟関係、あるいは会社における上司と部下の関係、あるいは元請会社と下請会社との関係、国家と人民の関係など、ありとあらゆる関係を、ことごとくその本質を「階級」と「闘争」であると捉えるものである、ということです。
現代における歴史認識も、GHQによる25万人という膨大な数の公職追放を経て、いまだに階級闘争史観が主流となっているといわれています。
ですからたとえば「国家」のなりたちひとつをとってみても、それは「支配する者」と「支配される者」との「闘争」の歴史であり、奈良平安の時代は「貴族」と荘園における「農民」との「闘争」、鎌倉以降の武家社会も、「武家」と「農民」との「闘争」の時代、近代日本は「日本の軍国主義者」と「アジアの人民」との闘争の時代として描かれ、それがあたかも「常識」であるかのようにとたえることがインテリ層の仲間であることの条件となっている、というのがいまの日本です。
すくなくとも、多くの日本人が、学校やテレビなどで、「江戸時代の日本では、農民は四公六民や五公五民といった重い重税(年貢)に悩まされ続けたと教わってきたし、現にいまでもそう信じている人は多い。
けれど、実際に歴史をひもといてみると、年貢を納めていたのは、いまでいう地主さんたちです。
もっと端的にいえば、米の物納による年貢を納めていたのは農園主である地主さんであり、その地主さんたちから農地を借りて農業を営んでいる小作人さんたちには、年貢の納税義務はありません。
このことは少し常識的な目を働かせてみれば、すぐにわかることです。
年貢は米で支払われます。
誰もが米税で困っているという環境なら、農地では米しか作られなくなる。
なぜなら大根や菜っ葉、大豆や小麦を生産したら税が払えなくなるからです。
けれど大根も菜っ葉も大豆も小麦も、日本全国どこでも作られていたものです。
米で税を納めなければならないのに、なぜ、どうして大根や菜っ葉が生産されていたかといえば、その人達は直接には税を納める義務が課せられていなかったからです。
日本軍国主義というけれど、19世紀から20世紀初頭にかけては、まさに帝国主義の時代です。
欧米列強がその軍事力にものをいわせて、アジアやアフリカの国々を植民地支配していた時代です。
そうした中にあって、日本がその独立を保ち、国家として庶民の生活を守ろうとするなら、日本も欧米に負けない軍事力を保つしかなかった。あたりまえの帰結です。
そのおかげで、日本人は、いまでも一定の教育を受けることができ、日本語や日本文化をいまだに保ことができている。
とりわけ日清、日露の両戦争を経由して、世界の強国となった日本には、当時、植民地支配と差別にあえぐ世界の有色人種からの期待が一身に集まりました。
そしてその期待に応えようと、日本はアジア諸国に兵を送り、現地の人々の教育を行い、各国の独立自尊のために最大限の努力を行ってきた。
その結果、日本は欧米諸国から袋だたきにされたけれど、アジア諸国、それだけでなくアフリカの諸国も、ついには民族の独立を果たし、世界はいまや人種のカラーを超えて、ボーダレスな世界に変容を遂げています。
そして今日、いちばん言いたいことは、日本建国の歴史というのは、「支配する者」と「支配される者」との「闘争」の歴史などではなく、ひとりひとりの国民が「和をもって貴しとなす」という精神のもとに建国された、ということです。
それは初代天皇である神武天皇の言葉に顕わされています。
それが、
「掩八紘而爲宇」です。
これは「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む」と読みます。
八紘とは、四方八方であり、それを覆って、ひとつの家にしよう、というのです。
つまり日本は、というか日本人は「みんながひとつの家族となろうよ」と宣言された。
これが日本という国の原点です。
すなわち、八紘一宇は、国全体がひとつの家族であるという宣言です。
そして日本は、ときに兄弟喧嘩や親子喧嘩はあったけれど、その基本にある精神は、常に「和を持って貴しとなす」という精神を持ち続けました。
江戸の町といえば、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるくらい、喧嘩や火事が多かったけれど、どんなに喧嘩をしても、終わればきれいさっぱりまた仲良く兄弟分や家族として互いに仲良く助け合う。
根本に、和の精神があるからです。
ところが共産主義にはじまる階級闘争に汚染されると、こうはいかなくなります。
とにかく闘争なのです。
相手を打ち負かし、なぎ倒し、殲滅し、死滅させてもなお、相手を辱め続ける。
そして都合の悪いことは、人のせいにする。
和なんてものはありません。
とんでもないものが世界に生まれたものです。
1940年にソ連は、占領中のポーランドから移送中のポーランド人将校や高級官僚、学者、ジャーナリストなど非武装の4400名をスモレンスク郊外で全員殺害しました。
大きな穴の前にひとりずつ立たせ、銃殺して穴に落として埋めたのです。
カチンの森事件ですが、ソ連はこれを戦後ずっとドイツのせいにしてきた。
バレたのは、ソ連が崩壊したときで、ゴルバチョフがスターリンの命令だったと認めたからです。
悪魔というもは、想像上の産物として、様々な姿に描かれるけれど、実際の話、共産主義ないし階級闘争という思考そのものが、おそらくは人類が生んだ最強の悪魔なのではないかと思う。
こうした階級闘争の汚染に対して、私たちは日本の心で戦おうとしています。
これを打ち負かすのは簡単です。
日本の心という水がきれいであればあるほど、そこに不信という毒をほんのちょっと混ぜるだけで簡単に崩壊させることができる。
けれど日本の心はなくなりません。
なぜなら人には善の心があるからです。
日教組教育の産物で、階級闘争に侵され、ついには売国政権までも誕生させてしまった日本人ですが、東日本大震災や、なでしこジャパンの優勝などを経由して、いま、陸続と多くの人々が日本の心に目覚めています。
日本はいま、生まれ変わろうとしている。
ボクはそう思っています。
↓クリックを↓


