
大川先生の近代史講座を続けていますが、これ、12回連載になります。
そこで今日は、中休みとして、日心会メルマガからのお話を転載させていただきます。
5月24日に配信させていただいたものです。
原稿はTさんからいただきました。
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◆ アフリカ最南端の国で ◆
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海外旅行が当たり前の今日では、諸外国で日本人の姿を見ても珍しくありません。
1ドル=360円の固定相場の時代から見ると、日本円は1ドル=80円前後の昨今、四倍強の購買力となったわけです。
東京オリンピックの年、昭和39(1964)年に一人が一年間に一度だけ持ち出せる外貨が五百ドル以内、という条件下で観光目的の海外渡航が自由化されました。
当時のことを思えば、現在は夢のような状況です。
この円高で、海外旅行は国内を旅行するよりも安くつくこともあります。
円高は日本の強い国力、経済力+信用力の反映です。
ユーロ圏も破綻すれすれ、米国も不安定では、安全な日本円に向かうのが当然かもしれません。
一方で、大震災後の原発事故があったにも関わらず、世界は「日本は克服する」と見ているからだと思います。
日本程、信用力の強い律儀な国家はまれです。
日下公人氏は、「あと3年で世界は江戸になる/ビジネス社/1400円』の著作を平成19年に残しています。
一節を引用します。
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松尾芭蕉が野飼いの馬を草刈りしていた農夫から借りて目的地に着いたときは、
「あたひを鞍つぼに結びつけて馬を返しぬ」である。
農夫は見知らぬ旅人に馬を貸し、芭蕉は礼金を馬に払い、馬は農夫のところまで一頭で帰って行く。
(この治安/信頼関係の良さは、世界に日本以外にありません)
鎌倉/室町/江戸時代ら続く日本人がつくった文化・文明は、いまでも伝統となってわたしたち一人ひとりの心の中に残っている。
それを東洋的とか、近代以前とか、遅れていると言うのは、欧米製の古いメガネでみるからで、そんなメガネは使わない方がいい。
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日本人が、当たり前と思っている行動/原理などが他国では賞讃/羨望、ときにはジェラシーの目でみられています。
こんな日本が邪魔で仕方がないと思っている個人/組織/国家も多く、また、日本人の中にも日本を潰したい方も多いようです。
本題に戻ります。
現在でも、南アフリカに観光旅行に行く人は少ないです。
治安が悪く日本とは比べようもありません。
まして、そこに定住して商売を始めることなぞ、現在でも稀なことです。
ところが公式の記録では、南アフリカに渡った日本人は、徳川幕府がオランダ、イギリスみ続いてロシアへ派遣した山内作左衛門ら六人の留学生です。
慶応元(1865)年九月、ロシア船で函館を発ち、香港、シンガポール、ジャカルタを経てケープタウンに翌年一月初旬に到着。
一行は上陸して、綺麗とは思えない町を散策し、博物館にある日本製品を見て驚いています。
時代背景から、イギリス/オランダ/スペイン/ポルトガル人などが、日本から持ち帰ったものなのでしょう。
それから三十年後の明治中期、この港町に日本から若い夫婦が一旗揚げようと渡って来ました。
明治の時代、アフリカ最南端で商売を始めた日本人がいるなんてことは、にわかに信じられことです。
今回は、「海を渡ったご先祖たち/その一」の話です。
茨城県出身の古谷駒平(28歳)と妻の喜代子(24歳)。
彼らこそ、この南アフリカの地に根を下ろした最初の日本人です。
駒平は、明治三(1870)年、茨城県筑波郡小田村(現つくば市)に生まれました。
彼は、二十歳前後にサンフランシスコへ渡っています。
当時は、米国西海岸、特にサンフランシスコへ行くことはブームだったようです。
日本人の海外移住は明治維新(1868年)とともに始まって以来、中南米や北米を中心に労働力の供給という形で進められてきました。
駒平は、サンフランシスコで白人の下でボーイとして勤めながら、夜間の商業学校へ通っています。
その後は、ハワイへ移動して、白人の下で酒店で働き商売のコツを覚えました。
やがて資金を貯め独立、ホノルル市内に雑貨店を開き、農民出身者の多い日系移民のために日本酒を輸入販売します。
商売は順調でしたが、日本人排斥運動により日本に帰国。
ハワイ時代に結婚した妻の喜代子は、熊本出身の日系移民の子でした。
前人未到の地を開拓することを目的にしてた駒平夫婦は、なんと南アフリカに行きます。
まだ誰も日本人が商売をしていない、当時はイギリスの植民地で、ダイヤモンド景気に沸いており、商売発展の有望地に思えたようです。
明治31(1898)年、駒平夫婦は、ケープタウンに大量の荷物とともに上陸しました。
荷は、美術品を中心に玩具や雑貨などで、仕入れ価格に要した費用は、ハワイ時代に溜め込んだ全財産三万円でした(現在では、数千万円に相当するのでしょうか)。
上陸から三日後には、「ミカド商会」という屋号とともにケープタウンの中心街に店舗を構えます。
物凄い行動力です。
店頭に並べた商品は、二ヶ月程度で売れてしまったそうです。
商品に物珍しさもあったでしょうが、駒平夫婦の誠実な対応も影響したといいます。
ボーア戦争が始まったために戦争経済景気で、兵隊たちも東洋の工芸品に金を落としてくれました。
駒平が扱ったのは、工芸品だけでなく薬品、肥料、缶詰、各種紙類、竹籠、綿メリヤス肌着、タオルなど日用雑貨から扇子、屏風、漆器、陶器でした。
信用力も出て来たミカド商会は、ケープタウンの町に知れ渡り、ミカド商会で働きたいという日本人青年があいついでやって来ます。
最盛期には、18人の従業員がいました。
彼らは、早稲田、長崎高等商業(現長崎大学)、東京高等商業(現一橋大学)などの学生です。
駒平の事業は、本人の商才もあって拡大の一途をたどります。
西洋人に好まれる商品を開発しようと、駒平自らが日本へ足を運び、シャツ、靴下、ズボン、陶器、缶詰などを各地のメーカーに製造させ、時には貨物船を一隻まるごとチャーターして現地へ運んでいます。
いつの世も海外へ出て行くのは、「官」より「民」の方が早いようです。
商人などの在留邦人の数がある程度の規模に達し、日本との間で継続的に人的、経済的交流が生まれた時、初めて領事館など在外公館が設置されています。
ケープタウンに日本領事館が開設されたのは、駒平が上陸してから二十年後の大正7(1918)年のことでした。
日本からの船が入る度に礼装に身を包み、日章旗を掲げて丁重に遠来の同胞を出迎えた駒平夫婦は、歓迎の晩餐会を催し、観光案内をし、官民を問わずに手厚くもてなしたとあります。
感激して帰国した官僚/民間人は、ケープタウンの成功者を宣伝したので、日本国内でも古谷駒平の名声は一気に高まりました。
一方で、妻喜代子の心中は複雑でした。
「ミカド商会」の発展の喜びとは裏腹に、次第に望郷の念が膨らんで来ていました。
若い時は、どんなことでも乗り越えられるエネルギーがあります。
子供に恵まれず、二人三脚で店を切り盛りしてきた「ミカド商会」。
夫に代わり、たった一人で日本に商品の仕入れに向かえる程の気丈な女性でした。
しかし、四十路近くになるにつれて、「望郷」の二文字が段々と心を支配するようになったのです。
四十代と言えば、今では油の乗り切っているときですが、当時の寿命が約六十歳前後と考えると、もう人生は黄昏れ時に入る頃だったのかもしれません。
大正4(1915)年、駒平は帰国を決意します。
ケープタウンの店は日本人従業員に任せ、甲板上の人となった駒平/喜代子夫婦は、遠ざかってゆく美しい街並をいつまでも眺めていました。
帰国後、駒平はすぐに動き出します。
当時、大財閥であった森村市左衛門と共同出資で、神戸に「ミカド合資株式会社」を設立しました。
実質的にこの時、南アフリカの「ミカド商会」は、森村財閥の傘下に入りました。
駒平は、そこで森村商事横浜支店の責任者として、南アフリカをはじめ海外貿易の指揮をとりました。
このとき、最後の棲み家として小田原に新居を建てています。
悲劇が襲いました。
大正12(1923)年)9月1日に起こった関東大震災です。
当日、駒平は、横浜の事務所で働いていました。
倒壊ビルの瓦礫の中から彼は、部下と共に見つけられたのです。
53歳の生涯でした。
一人残された妻、喜代子のその後の人生は解りません。
駒平亡き後、南アフリカの店は日本人従業員が引き継ぎましたが、この頃、現地法人の責任者は、かつて駒平を支えた者達ではなく、森村本社から送り込まれた者でした。
第二次大戦勃発後は、経営を白人に任せ、連合軍との戦時交換船で日本人従業員は全員帰国しています。
現地の店舗などは、戦後に現地政府に没収されてしまいます。
この時代、海外移民の国策も手伝って、多くの日本人が米国、ブラジルなどに移住しています。
成功した者、道半ばで倒れた者、略奪などに遭い挫折した者などなど、洋の東西を股にかけ、力強く生きた明治人の記録は沢山あります。
我々は、彼らの子孫なのです。
「そこに日本人がいた!」熊田 忠雄(新潮社/1500円) からの抜粋です。
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