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細井平洲
細井平洲

細井平洲(ほそいへいしゅう)といえば、上杉鷹山の師として有名です。
内村鑑三は、細井平洲を当代最大の学者と紹介している。
鷹山の米沢藩が、藩校を設立したとき、細井平洲がその藩校に名前をつけました。
その名が「興譲館(こうじょうかん)」です。
「興譲」というのは、細井平洲の教えの根幹にあるもので、「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と読みます。


人を人として敬い、譲り合う生き方が徹底すれば、仲のよい地域社会となり、そのことによって国も栄えるという理念です。
この考え方は、日本人にとって、ごくあたりまえの普通の感覚であろうと思います。
被災地にあっても互いを敬い、譲り合う。
だから日本人の避難施設内では、暴行も略奪も起こらない。
みんなが自然と互いに協力し合います。
自衛隊の隊員たちは、被災地にあって、温かな食べ物は被災者たちに分け与え、自分は冷たい携帯口糧の缶詰を食べている。
これも、まさに「興譲」の精神です。
「興譲」に対する言葉が、「思い上がり」「自己中」です。
相手のことを考えず、自分勝手な思い込みで相手を批判し断罪する。
平洲は、そのことこそが「最も人の道にはずれたこと」と説いています。
「思い上がる」というのは、「自分はなんでも知っている」とばかり「他人を見下す」行いです。
カンボジアのPKOで自衛隊が出動したとき、辻本清美はピースボートを繰り出して現地の自衛隊の駐屯地に行き、そこで「あなたたちはコンドームを持っているでしょ、出しなさい!」とばかり復興支援のために汗びっしょりになって働く自衛隊員のポケットを勝手にまさぐった。
隊員たちが唯一の楽しみにしていた数少ない缶ビールを見つけると、「こんなものを隠してた」とのたまい、ビールを勝手に飲んでしまった。
阪神大震災のときには、災害支援のボランティアと称して2トン車に荷物を満載して現地にはいったけれど、そのトラックの荷台から出てきたのは、印刷機とチラシです。
チラシには「災害時でも自衛隊の活動を許してはならない」と書いてあった。
要するに自分勝手な思い込みだけで、まじめに働く自衛隊員を批判し、断罪する。
これこそが思い上がりというものです。
その思い上がり議員が、このたびの東日本大震災では、なんとボランティア担当大臣になった。
理由はボランティアの経験が豊富だからなのだそうで、もしその「豊富」というのがピースボートのことを指しているなら、とんだ茶番です。
口蹄疫事件、宮崎ー鹿児島の新燃岳噴火事件、このたびの東日本大震災。
立て続けに起こった事件に対し、現下の民主党政権の対応で共通しているのは、常に責任者が現地に行かず、責任逃れに終始していることです。
チームでスポーツをしたり、仕事をした経験のある方なら、どなたでもおわかりいただけると思うけれど、現場というのは、判断の連続です。
具体的にジャッジをする人がいなければ、現場は混乱し、みんなの動きがばらばらになる。
このとき、リーダーに求められる最大の課題は、「泥をかぶる」ということです。
批判をするのは誰にでもできる。
けれど、実際にコトを進めようとすれば、いろいろな意見が出て議論は百出します。
「そのときに、責任は俺がとる」というリーダーが、現場にいなければ、何の判断もできない。
細井平洲は、これを「先施の心」と言っています。
「先施」というのは、先にほどこす、ということです。
人が何かをしてくれるのを待つのではなく、まず自分から働きかけよ、ということです。
自分から働きかければ、当然、そこには批判の声もでます。
世の中というのは、あちらたてればこちらたたず。彼を是とすれば、彼は非となる。そういうものです。
およそ、左翼というのは、戦後ずっとそうだけれど、つまり自民党が何か具体的な政策を打ち出すと、きまってそれにケチをつけることを常道としてきた。
たとえば「高速道路を1000円均一に」といえば、「いや、無料にしろ!」という。
「景気対策のために赤字国債を!」といえば、国の借金を増やすのはけしからん!と、異を唱える。
要するに無責任に批判をしているだけで、実がない。
で、自分たちが政権をとってみれば、能書きだけで何もしない。何もできない。
上杉鷹山は、19歳で米沢藩主となりました。
そのとき、これからどのようにしたらよいかと教えを請うた鷹山に、平洲は次のように答えています。
~~~~~~~~~~
勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや
~~~~~~~~~~
大切なことは、勇気をもって行う、ということです。
そのためには、覚悟が大切です。
民主がやろうと自民、たちあがれがやろうと、政治家なんて所詮、同じじゃないの?という人がいました。ボクは言いました。
「覚悟が違うんです」
そういうことだと思います。
さて、今日のお題は、細井平洲です。
細井平洲は、愛知県東海市荒尾町の農家の次男坊として生まれました。
享保13(1728)年のことです。
幼いころは、地元の観音寺の義観和尚について学んだのですが、しょっちゅう寺の木に登っては、和尚さんに木に吊るされて叱られたそうです。
きかん気が強くて、ものすごくワンパクな子供だった。
そういえば、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」という古いマンガがあるのですが、その主人公の戸川万吉が、幼いころお寺の木に登って、和尚さんから叱られるシーンがあります。
ひょっとすると、このシーンのモデルが、実は細井平洲かもしれない。
元文2(1737)年、平洲は若干10歳で名古屋に出て学び、15歳で京都に遊学しました。
ところが、高名な先生方は、みんな江戸に出ていて、当時の京都にはいない。
そこで翌年には、名古屋に帰って中西淡淵に師事します。
平洲16歳のときです。
中西淡淵は、平洲に長崎遊学を進めます。
17歳で長崎に遊学した平洲は、中国人の教師につき、漢学を学んだ。
十分な知識を身に付けた平洲は、学んだことを学問のために実践に役立てようと、24歳で江戸に出て、長屋で「嚶鳴館」という塾を開きます。
ところが塾を開いたまではよかったのですが、世の中はそうそう甘いものではありません。
なにせ若すぎる学者です。弟子がつかないのです。
塾は、生徒がいなければ収入がありません。
ようやく生徒になってくれた人も、なにせ長屋くらしの貧乏な人々です。
お金はない。
それでも近所の長屋の住人や子供たちを相手に、平洲は誠実に学問を説き続けます。
人というのは、良いものはわかるものです。
誠実に学問を説く平洲のもとには、次第に多くの人が集まりだした。
中には、れっきとした藩の若侍たちなども、平洲の教えを求めて集いだします。
次第に平洲の「嚶鳴館」は、江戸で有名な私塾となってゆく。
けれど、授業料の督促をしない平洲は、相変わらず貧乏なままです。
ところがこうなると世間というものは、本人の努力を差し置いて、平気で誹謗したり中傷したりするヤカラがあらわれます。
平洲は、いくら長崎まで行って学問をおさめたとはいっても、もともとは農民の子です。
「たかが農民風情に学問など語る資格はない」
「所詮は学者もどきの青二才であろう」
「古今の漢書を集めただけの寄せ集め、いいとこどりの俗説にすぎない」
「学問を金もうけに利用しようとしている不届き者」等々、好き勝手なことをいう。
平洲自身も悩みます。
自分は、はたしてこのままで良いのだろうか。
数える弟子もけっして多くはない。
授業料を払える者も少ない。
貧乏しながらこのまま江戸にいて、自分は将来一体どうなるのだろうか。
けれど平洲は思います。
死んだ母は、決して楽ではない生活の中で、幼い平洲のために、学費や遊学の費用を出してくれた。
「おまえは世のため、人のために役立つ、立派な学者に必ずなれる」と信じてくれた。
母の恩に報いるためにも、ここでくじけてはいけない。
学問で身を立て、世の中の役に立とうということは、他の誰でもない。自分で決めたことです。
ならば、明日を信じて、日々前進するしかない。
どんなに苦しくても辛くても、この道を進もう。
そうした姿勢で日々を送る平洲の名は、次第に有名なものになっていきます。
そして西条藩(愛媛県)、人吉藩(熊本県)、紀州藩(和歌山県)、郡山藩(奈良県)などから、藩の賓師として迎えられるようになっていく。
ところが次第に名声を得ても、平洲という男は、どこまでも謙虚です。
塾生が来ると、まず自分から進んで生徒たちに声をかける。
はたからみていたら、どちらが生徒でどちらが先生かわからないくらいです。
平洲は、上の者が「下の者から働き掛けてくるべきだ」などと思っていたら、お互いがにらみ合っているような状態で、下の者は寄り付けない。
寄り付く心がないと、親しみを持てず、間を隔だたる。
これが結局は仲たがいのもとになる、と説きます。
そして自ら率先して、生徒たちに声をかけた。
加えて平洲は、名声がどんなに高まっても、身近な町民から身分の高い武士に至るまで、分け隔てなく学問を説いています。
けっして偉ぶるというところがなかった。
こうした平洲の姿勢に、心を打たれた武士がいました。
宝暦13(1763)年、平洲が35歳になった頃のことです。
その武士が、米沢藩の家臣だった。
彼は、米沢藩の藩邸に帰ると、そこで周囲の者に平洲のすばらしさを語ります。
「平洲先生の教えは、実学を重んじるものです。
経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的としている。
世の中に真に役立つ学者がいるとすれば、それは平洲先生のことだと思う」
その話が、藩公の元に届きます。
そしてそれほどまでに立派な先生なら、次の殿様になる治憲(はるのり)公(のちの上杉鷹山)の先生になってもらおうではないか、ということになった。
これには藩の事情もあります。
米沢藩は、上杉家です。
言わずと知れた上杉謙信の家系です。
上杉家の米沢における石高は15万石(実高30万石)です。
そこに会津藩120万石時代の家臣6000人を連れて転封されてきていたのです。
当然、家計は苦しい。
やりくりをするために借財を重ねた結果、すでに藩の借金は20万両に達している。
要するに藩には、高邁な学者を招くだけの経済的余裕がない。
けれど、そこそこ高名で立派な学者を招かなければ、藩の名にも傷がつきます。
その点、平洲先生は貧乏塾長であり、そのくせ各藩に招かれて教師を務めた実績もある。
現実問題として平洲は、上杉家にとってもちょうどいい存在であったわけです。
こうして細井平洲は、米沢藩江戸藩邸のお抱え文学師範となり、当時14歳になる上杉治憲公(のちの鷹山)の教師となります。
平洲は、治憲公に「學思行相須つ(がくしこうあいまつ)」と説きます。
学び、考え、実行 することの三つが揃って、初めて学んだことになる。
そして、藩を立て直すためには、まず、殿ご自身が手本を示せと説いた。
すぐれた人材を育てよ、とも説いています。
鷹山は、この教えの通り、新藩主に就任するとすぐに民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)、財政に明るい莅戸善政を登用し、江戸藩邸における藩主の給料もそれまでの1500両から、いっきに209両に削減。
藩内に漆や桑の木を植えて、米沢の特産物を増やし、これによって藩の財政を潤すとともに、浅間山の噴火による天明の大飢饉に際しては、非常食を普及し、自らも粥をすすって倹約に努めています。
また、藩士たちの給料の減少分については、武士といえども、自ら畑を耕しし、植林する等、藩をあげての財政再建に取り組んだ。
寛政8(1796)年、鷹山と出会ってから、32年目のこの年、平洲は、はるばる江戸から米沢を訪ねます。
このとき、鷹山公は、わざわざ城から10キロも離れた普門院というお寺まで、平洲を出迎えに出ています。
そして鷹山の治世50年の間に、藩の借財を全額返済し、藩の財政の健全化を実現した。
後年、安永9(1780)年、平洲は53歳で、徳川御三家筆頭の尾張藩に招かれます。
そして藩校明倫堂(現、愛知県立明和高等学校)の学長になった。
それでも平洲は、請われればどこにでもでかけて行き、身分の差なく、百姓町人たちにも、わけへだてなく学問の素晴らしさ、学び、考え、実行することの大切さを説き続けます。
享和元(1801)年、細井平洲は、73歳でこの世を去ります。
いま、平洲の墓は、米沢市の松岬神社に、上杉鷹山とともに祀られています。
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