
以下は「草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN」で紹介されたものの引用です。
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-3410.html
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【日本に生まれ、自衛官の娘に生まれて良かったです】
~お父さんを誇りに思います~
初めて敬語でメールを送ってきた娘
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一体どこから来るのか
自衛隊員の半端ではない使命感
(3.22)桜林美佐
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「自分が行きます!」
全ての隊員が口を揃えた。
福島第一原発に放水をするため、陸上自衛隊のヘリコプター「CH-47」が出動することになった時のことだ。
「任せろ、これくらい大したことはないさ」
「今、無理しなくてどうする」
被曝覚悟の作戦にもかかわらず、そんな声があちこちから聞こえてくる。
同原発では、3月14日に3号機で放水作業中に水素爆発が起き、4名のけが人も出た。
その中には、中央特殊武器防護隊長もいた。
事故に遭った隊員は後送されるのが通常だが、隊長は下がることを強く拒んだという。
「あの、温和なアイツがそんなことを・・・」
同期の幹部自衛官が絶句した。
とても、そんな無理をするタイプに見えなかったが、何が彼にそう言わせたのだろうか。
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車座になって涙を流す隊員たち
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原発への放水作業だけではない、被災現場での救援でも厳しい状況は同様だ。
氷点下の気温の中で作業を続けるが、燃料を使うわけにはいかないと、暖をとることもない。
持っていた隊員用の携帯糧食を、迷うことなく被災者に渡す隊員ばかりだという。
空腹の中で作業を終え、ドロドロになった戦闘服を脱ぎ、翌日、またその同じ服を着て出ていく。
それは「昨日の記憶を背負いながら行く」ことでもある。
目を瞑ると、目の当たりにした遺体の残像が浮かんでくる。
それは阪神・淡路大震災の時も同じだった。
当時、若かった隊員が、現在は曹長などリーダーになっており、その経験からか、誰が命令したわけでもなく、夜は5~6人の作業部隊が車座になるのだという。
つらかった光景、ひどく悲しかったことなど、黙々と作業をし続けたその日の全てのことを声を出して吐き出し、そして泣く。
やがて、明日も任務を精一杯やろうと誓い合って、一日を終えるのである。
東北の隊員は、全国から派遣されている部隊を気遣い、申し訳ないという気持ちと、自分たちは、一層頑張らねばならないという思いがある。
しかし、彼らは被災者でもある。
家族や肉親を失っていたり、今なお、愛する人が行方不明となっている隊員も多い。
遺体を発見した時に、
「自分の家族では」
という思いが頭をよぎっても、任務に私情は挟めない。
「今、行かなければ一生、後悔する」
救援活動の中心となる隊員は、19歳から25歳くらいの若者ばかりである。
中には地元で知られる「ワル」だったり、不良グループのリーダーをしていたような隊員もいる。
それを40~50代の、いわば「オヤジ」たちベテランが支えている。
「人生経験も未熟で感受性豊かな世代が、人の生き死にを目の前にして、まして肉親の所在も分からないままなのに、感情を抑え続けて、心が折れないはずがありません。
彼らは制服を脱げば普通の若者です。
気持ちを打ち明ける時間をつくることは、大事なんです」
収容した全ての遺体に手を合わせ、遺体安置所まで運ぶことが自衛隊の任務だ。
彼らは安置所に入り、自分の家族を探すことはできない。
入り口で、運び込んだ遺体の冥福を祈り、また現場に戻っていく。
また、多くの隊員が妻や子を残して出動している。
残された家族はさぞかし心細いだろうが、
「この国難に弱音は吐けない」と、気丈に家を守っている。
自衛官の死亡・行方不明者は計3名。
空自・松島基地の隊員1名が死亡し、
陸自・多賀城駐屯地(第22普通科連隊)所属の陸曹の死亡が確認された。
行方不明の隊員もいる。
最後まで避難誘導し、津波に飲み込まれるのを住民が見ている。
仲間や家族の死に直面しても、今日も活動は続いている。
すでに生存可能な時期を過ぎ、遺体を安置所に運ぶことが続くが、担架なども不足しているため、おぶって運んでいるという。
予備自衛官も投入されることになった。
「今、行かなければ一生、後悔する」と言う息子に、母親は、
「家のことは私たちがなんとかするから」と言って送り出したという話も聞いた。
阪神・淡路大震災を経験した自衛官は言う。
「日頃、いろいろと問題を起こすヤツもいますが、国難にあたってはすさまじい使命感でやっています。
かつて、この国を守るために特攻隊で散華したのも若者たちでしたが、今、被災地で活動している彼らに重なります。
彼らと同じ制服を着ていることを誇りに思います」
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初めて敬語でメールを送ってきた娘
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地震発生以来、東京・市ヶ谷の防衛省では、陸海空の自衛官が戦闘服姿になり、臨戦態勢でそれぞれの任務に当たっている。
多くが一度も帰宅していない。
労をねぎらうと、
「現場はもっと大変ですから」と言い、すぐにでも現場に行き、共に活動したいと口を揃える。
19階建ての庁舎では、節電のために皆さんが階段を上り下りする姿が目立つ。
慌しくすれ違った叩き上げのベテラン自衛官が、ふと立ち止まり、振り返って言った。
「そういえば、娘から初めて敬語でメールが来ましたよ」
とちょっと恥ずかしそうに言った。
その内容は、
「日本に生まれ、自衛官の娘に生まれて良かったです。
お父さんを誇りに思います」
とのことであった。
「明日から、現場に行ってきますよ」
そう言って、すぐに階段を駆け上がっていった。
復興に向けて、自衛隊の戦いはまだまだ続く。
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