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日清戦争平壌攻撃戦
日清戦争平壌攻撃戦

日清戦争(明治27(1894)年8月~明治28(1895)年3月)のお話をしてみようと思います。
日清戦争のきっかけは、日本と清国の対立というよりも、朝鮮半島内の混乱にあります。
そう書くと「日本による朝鮮侵略か!」などとわけのわからないことを言い出す人がいますが、それは違います。
日清戦争の時点では、日本は朝鮮半島には、なんの利権も持っていない。
お話の発端として、明治20年ごろからの朝鮮半島の様子を見てみたいと思います。


約400年続いた李氏朝鮮は、冊法体制(さくほうたいせい)といって、中国の臣下の国です。ひらたくいえばChinaの属国です。
属国ですから、国主は「国王」です。「皇帝」を名乗ることはできません。
この李氏朝鮮末期の国王が高宗です。
高宗は、色事好きで、政務をほったらかしで、もっぱら多数の宮女や妓生の漁色と酒におぼれています。
大事な政務があっても、高宗では話にならない。
このため次第に政治の実権が、王妃の閔妃(みんぴ)に移ります。
ちなみに閔妃(みんぴ)のことを「明成皇后」などと言う人がいるが、国王の妻は王妃であって皇后ではない。
閔妃は、政治の実権者として、彼女の一族を積極的に重職に登用します。
また、明治維新をなしとげ、開国して国力を充実しつつある日本との間で、積極的な開国政策をとり、明治9(1876)年には、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結します。
また日本から軍事顧問を招き、朝鮮の軍隊の近代化を図る。
とまあ、ここまではいいのですが、ここから先の閔妃の振る舞いが、実にコリアンらしい。
近代化した日本式の軍隊(新式軍隊)は、実に勇壮で頼もしい。
このため閔妃の関心は、もっぱら日本式の新式軍隊に移ってしまいます。
おかげで従来からあった清式の旧式軍隊はほったらかしで、旧式軍隊の兵士たちへの給料も払わなくなり、食事の配給もしなくなってしまった。
日本式新式軍隊には、豊富な食料と給料。
清式の旧式軍隊には、飢えと苦しみ。。。
こんなことをしたらあたりまえのことですが、旧軍隊内には、新式軍隊に対する不満が募ります。
明治15(1882)年、旧式軍隊は、閔妃暗殺をもくろんで反乱をおこします(壬午軍乱)。
このとき、多くの閔妃派要人と数十名の日本人が殺された。
日本大使館も焼き討ちに遭っています。
事件を察知した閔妃は、侍女を身代わりにして、いち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱のもとに逃げ込んだ。
身代わりとなった侍女が、どのような目に遭ったかは、想像に難くないです。
かわいそうというより、あまりに酷い。
そしてこのとき閔妃が、清国の派遣軍側に逃げ込んだことが、問題を一層ややこしくします。
李氏朝鮮国内で反乱を起こしたのは、清の指導を受けている清式旧軍隊です。
日本は、朝鮮に頼まれて新式軍隊の指導をしているだけのことです。
問題はあくまで李氏朝鮮内の内乱であって、本来なら旧式軍隊が反乱を起こしたのだから、新式軍隊で鎮圧すれば良いのです。
けれど問題の閔妃は、清国の派遣軍側に逃げ込んだ。
そもそも李氏朝鮮は、清の属国なのです。
当然のことながら日本は、清軍に反乱の鎮圧を委ねた。
あたりまえのことです。
清は李氏朝鮮を支配する国であり、その李氏朝鮮の実質的支配者である閔妃が清の派遣軍に逃げ込んだのです。
日本は李氏朝鮮の新式軍隊の指導をしているが、朝鮮半島内の内乱に責任を負っているわけではない。
新式軍隊をもって旧式軍隊の反乱を鎮圧するなら、それはそれで朝鮮側から正式な命令がなければ、動ける話ではありません。
ところが、こうした理屈を重視する日本に対し、閔妃は「私が困っているのにどうして日本は新式軍隊で鎧袖一触、旧軍の鎮圧をしてくれないのっ!」と不信感を持ってしまう。
そして、理屈抜きで軍の「力」にモノを言わせる清のほうが、日本よりはるかに頼もしいと勝手に思い込んでしまう。
閔妃は、さっさと親日開化政策を、親清復古政策に転換してしまいます。
まぁ、勝手なものです。
この事件で、日本は、大使館を焼かれただけでなく、請われて派遣していた日本の軍の指導官らや、その配偶者、子どもたちを無残に殺されています。
どんな風に殺害されたかの詳細は、いまではほとんどわかりません。
けれど、通州事件や、尼港事件、和夫一家殺害事件などの例にあきらかなように、コリアンが武器を持って集団となったとき、どういうことをしでかすかは、その後の歴史を見ても明らかです。
日本は当然、李氏朝鮮に対して、日本人被害者への補償、大使館の損害等への補償を要求します。
同時に、以後の日本大使館の警備のために、若干の日本軍の漢城駐留などを朝鮮と交渉して取り決めた、
あたりまえのことです。
それだけひどいめにあわされたのです。
このため朝鮮国内には、少数の日本軍と、袁世凱率いる清の大軍の両方が軍を駐屯することになった。
一方、朝鮮の民衆の暮らしはあいかわらず貧困のどん底にあります。
その朝鮮の隣には、どんどん近代化をすすめ、進歩し、国民が豊かになっていく日本という国がある。
福澤諭吉(慶応大学創始者)や、大隈重信(早稲田大学創始者)らとの親交を深めた朝鮮の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら、理想に燃える韓国人は、このままではいけないという思いを深くします。
彼らは、閔氏一族が贅沢三昧をして国政を壟断する中、むしろ能はないけれど権威だけはある国王高宗を立てることで、国政を改善しようとする。
国王の高宗も、閔氏一族や清に実権を握られて、何一つ思い通りにいかないことが内心では面白くない。
朝鮮国王高宗は、金玉均らの理想に燃えた近代化政策の実行を快諾します。
明治17(1884)年12月、金玉均らは、クーデターを起こします。
金玉均らは「郵政局」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところで放火を行います。
すわっ火災だ!と混乱する中、金玉均らは祝賀パーティ会場から逃げ出す閔妃一派の政府高官らを殺害し、一瞬にして閔妃一派を一掃することを計画します。
けれど、クーデターが成功しても、閔妃一派は、清国との関係が深いのです。
放置すれば清国の大軍が介入し、クーデターは鎮圧されてしまう。
そこで金玉均らは、クーデターと同時に、朝鮮国王高宗を経由して、日本に自国の保護を依頼することを計画します。
日本に軍を派遣してもらい、朝鮮国王を保護するとともに、開化派による新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする清国から独立した立憲君主制国家をうちたてる。
そうすることで、朝鮮は、日本の助力のもとで近代国家への道を突き進もう、と計画したのです。
そして金玉均らは、計画を実行する。
放火は失敗したけれど、計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害した。
金玉均・朴泳孝・徐載弼ら新政府樹立を宣言した。
そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置くと表明し、その日のうちに、
(1) 朝鮮国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主とする。
(2) 清国に対して朝貢の礼を廃止する。
(3) 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃止する。
(4) 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる。
などの 革命政策を発表した。
もしこの新政権が、順調に滑り出していれば、その後の東亜の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
けれどこのクーデターは、袁世凱率いる清の大軍にによって、もろくも崩壊してしまいます。
袁世凱は、クーデター派のたてこもる王宮を攻撃したのです。
これによって、クーデター一派は、壊滅する。
からくも危機を脱した金玉均らは日本へ亡命します。
ところが主犯の国外逃亡を知った袁世凱ら清軍は、金玉均らクーデター派の家族を三親等まで全員逮捕し、いかにもシナ・朝鮮風の残虐な方法で、全員を殺害します。
さらに閔妃らは、日本に亡命した金玉均らに対して刺客を差し向けて命を狙う。
金玉均らは、日本各地を転々と逃げ回り、最後には上海に渡るのだけど、結局、暗殺されてしまう。
朝鮮に移送された金玉均らの遺体は、見せしめのために群集の前で五体を引き裂かれ、身体の各部を各地で腐るまで晒された。
残酷な話です。
このクーデターのとき、高宗国王から依頼をうけて王宮の警備指導にあたっていた日本軍30名(わずか30名です)は、袁世凱率いる清軍によって全員殺害されています。
それもかなり酷い殺され方をしている。
亡くなられた将兵の方々は靖国神社に祀られています。
翌、明治18(1885)年4月、伊藤博文全権大使とする日本は、この問題の解決のために、中国・天津で、清の李鴻章と会談します。
日本側は、李氏朝鮮に頼まれて派遣していた日本人将兵30名を、きわめて残虐な方法で殺害されているのです。
本来ならこれだけでも報復戦争をするか、あるいは巨額の損害賠償請求をしてもいいくらいのできごとです。
けれど戦争をすれば、ふたたび多くの血が流れる。
伊藤博文は、殺された日本の将兵に対する賠償さえも放棄するから、お互いもう朝鮮半島から撤兵しようではないか、と李鴻章にもちかけた。
一方的な被害者の側が、今回のことで、賠償請求も武力をもってコトを構えることもしないから、全部水に流そうではないか、ともちかけたのです。
そしてさらに伊藤博文は、今回のように朝鮮のことで清国と日本が互いにひっかきまわされるのはおかしな話だから、日本も朝鮮から兵を退くから、清国も一緒に兵を退かないかともちかけた。
難しい交渉になると苦り切っていた清の李鴻章にしてみれば、日本の申出はまさに願ったりかなったりです。
ふたつ返事で伊藤博文の提案を飲んだ。
この天津会談の結果、日清両国は、朝鮮から兵をまるごと全部、引き上げます。
そしてなんと、この後10年もの間、朝鮮には、外国軍隊の駐留がなくなった。
平和を手にした朝鮮の民間人たちは、日本人の民間人によるボランティアなども得て、産業を大幅に活性化します。
1890年代になると、なんと朝鮮から日本への輸出は、当時の朝鮮の輸出総額の90%以上、日本からの物品の輸入が50%を占めるようになる。
つまり、朝鮮の対日貿易収支が、大幅な黒字になったのです。
400年、死んだように眠っていた韓国経済は、これによっていっきに成長する。
けれど、急激な経済成長は、かつての日本がそうであったように、物価を高騰させ、貧富の差を増大させます。
米や大豆の値段が高騰し、貧しい朝鮮庶民の生活は圧迫される。
一方、李氏朝鮮の閔妃です。
閔妃は、贅沢三昧の生活を送りながら、もっと贅沢をしようと企みます。
そして満州を勢力下におこうと南下する大国ロシアに、朝鮮半島ある鍾城・鏡源の鉱山採掘権や、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などを次々に売り渡します。
そりゃあ、閔妃の一族は大儲けです。
基本的な世の中の仕組みですが、売ってはならないものを売り渡せば、大儲けができるというのが世の習いです。
日本を特アに売り渡す政治家、麻薬を売買する暴力団、みな同じです。
逆に大切なものを守ろうとする行動は、基本的に儲からない。
いまの日本の保守活動など、その典型です。
こういう事態を招いたのも、閔妃一派が政治を私物化し国民生活をかえりみないせいだ。
朝鮮半島内に当時広がっていた東学教という宗教団体が中心となり、明治27(1894)年5月、東学教団のた全琫準を指導者とする甲午農民戦争(東学党の乱)が起こります。
東学教団が、民生の改善を求めて、農民一揆をおこしたのです。
そして5月末までには、羅道全州を占領してしまった。
こういうことが起こると、自国の軍や警察で鎮圧にあたろうとせず、すぐに他国の手を借りようとするのが、李氏朝鮮の時代の両班(ヤンパン)の特徴です。
明治27(1894)年6月1日、李氏朝鮮、閔妃政権は、清に派兵を要請した。
日本との約束があって、10年間朝鮮半島に入り込めなかった清は、待ってましたとばかり大軍をもって朝鮮半島内に侵攻し、東学教一派を片端から虐殺していきます。
一方、当時の朝鮮半島内には、多くの日本人民間ボランティアの人たちがいる。
以前、朝鮮国内では、日本人は婦女子たちまで虐殺され、なぶり殺されたという事実もある。
日本も、朝鮮半島内にいる日本人の安全をなによりも優先して確保しなければなりません。
やむなく日本は、6月10日になって、海軍陸戦隊400名(たった400名です)と大鳥圭介公使を漢城に派遣しました。
6月11日、清軍と閔妃政権は、一揆軍の弊政改革案を受け入れ、暴動を鎮圧させます。
ところが暴動は鎮圧されたはずなのに、翌12日に、清は牙山に陸軍を上陸させてしまいます。
これは約束が違う。
朝鮮半島内に有事だから一時的に清と日本は派兵をしたのです。
事態が収まれば、当然、もともとの約束通り、撤兵するのが道理というものです。
日本は、6月15日、大島公使が清に対し、半島の平和のために、両軍が半島から撤兵すること、ならびに、朝鮮の内政改革については、日清共同で平和りに進めたらどうかと、進言します。
しかし朝鮮を属国扱いしている清は、この日本の提案に、なかなかウンといわない。
そこで大鳥行使は6月20日、朝鮮王である高宗に、
「朝鮮から、清も日本も撤退してほしいと交渉したらどうか」と、申し向けます。
こうして日本が日本と清の撤兵を推進しようとしている矢先、7月にはいると、牙山の清軍は、ますます増強され、7月20日には、さらに4千人の清国陸戦隊が上陸してしまう。
さらに7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦「秋津洲」「吉野」と「浪速」が、会合予定だった巡洋艦「武蔵」と「八重山」を捜していたところ、突然、海上にあらわれた清国巡洋艦の「済遠」と「広乙」から、21センチ砲で、砲撃を受けた。
清の軍艦が、突然、何の警告もなく一方的に撃ってきたのです。
こうなると日本も反撃しないわけにはいかない。
これはあきらかな正当防衛行為です。
日本の巡洋艦が応戦をはじめると、「済遠」と「広乙」はいきなり逃亡を始めます。
一方的に撃ってきといて、反撃したらスタコラサッサと逃げ出すとは何事か。
日本海軍は「秋津洲」で、清の「広乙」を、
「吉野」と「浪速」で、大きいほうの「済遠」を追った。
「広乙」は追い詰められて座礁。
「吉野」と「浪速」は「済遠」を追ったのだけど、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図るなんてことを繰り返した。
そして海上にあった清国軍艦「操江」と「高陞」(英国商船旗を掲揚)のもとに逃げ込んでしまいます。
「浪速」は、一時攻撃と追跡をやめ、清国軍艦「操江」らと押し問答をするのだけど、その隙に、「済遠」はさっさと逃走してしまう。
「吉野」の最高速度は23ノットです。
「済遠」は15ノット。
ですから日本の巡洋艦「吉野」のほうが、断然、船足が速い。
ところが「済遠」は逃げながら2門の21センチ砲をバンバン撃つ。
「吉野」はジグザグ航法で、敵の弾を避けながら、これを追跡する。
「吉野」の砲門は15センチですが、狙いは正確です。
「吉野」は、「済遠」を2500メートルまで追い詰めた。
すると「済遠」は面舵をとって船を浅瀬へと船を向かわせます。
「済遠」はドイツ製巡洋艦で2300トンで、喫水は4.67メートルです。。
「吉野」はイギリス製の4216トンで、喫水は5.18メートルです。
浅瀬に逃げられたらどうしようもない。
「吉野」は、追撃を中止し、「済遠」は逃げてしまいます。
一方、「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞」に停船を命じ、臨検を行おうとするのだけれど、「高陞」は停戦命令に従わない。
やむなく「浪速」は、「高陞号」を撃沈したうえで、「高陞」に乗っていた英国人船員ら3人と、清国兵50名を救助し、捕虜とした。
この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無です。
他方、清は「広乙」が座礁、「高陞」が撃沈された。
ちなみに「吉野」が追撃を中止した「済遠」は、なぜか清の発表では「大破」とされています。
そして、日本によって一方的に攻撃されたと発表する。
この海戦は、いまから117年前の日清戦争の直前に起こった出来事です。
けれども、いまも昔も、Chinaという国は何も変わらない。
彼らにとっては、その場その場の「都合」がすべてであり、物事の道理や筋道とかは、いっさい眼中にない。
そして自分たちに都合のいいように事実をねじまげる。
この戦いのとき、清国の軍艦「高陞」は、英国商船旗を掲揚していました。
英国商船旗を掲げた「高陞」が撃沈されたことで、英国内では、日本に対する反感が沸き起こる。
れいによって、Chinaの宣伝工作です。
けれど、日本の「高陞」攻撃は、完全に国際法に沿ったものです。
そもそも一方的に撃ってきたから、撃ち返したのです。
当時の日本政府によって、その正しい事実が報道されると、英国世論は、沈静化する。
あたりまえのことです。
いまどきの日本政府は、Chinaに南京大虐殺とか、韓国の従軍慰安夫人、あるいは尖閣諸島、あるいは竹島問題について、外務省のHPでネット上でちまちまと反論する程度で、必要な事実関係のステートメントをきちんと説明しない。
だから、工作に嵌められいいように日本が貶められるのだ、とよく言われています。
けれど当時、日本が「高陞」を攻撃した事実は、単にステートメントを発表しただけでなく、嘘だと思うなら、腕で来い!という軍事力に裏付けられた力がそこにあった。
要するに、真っ向から意見が対立しているとき、単に平手で「話し合いを」というだけでは物事は解決しないのです。
魏の曹操は、呉を攻めたとき、降伏を勧告する一片の文書を送るだけでなく、それがお嫌ならまた別なご挨拶をもってといえる「実力」を、水陸から100万の大軍をもって呉に向けて進発させた。
「いかなる外交も、その外交辞令の手元に、これがお嫌ならまた別なご挨拶をもってといえる「実力」がいる」
という言葉は、吉川英二の三国志に出てくる一文ですが、けだし正論だと思います。
いまの日本政府、あるいは日本国民には、その「実力」に対する意識があまりに欠如している。
さて、話を戻します。
この海戦の2日後の7月25日のことです。
朝鮮の閔妃政権から、大鳥圭介公使に対し「牙山に上陸した清国軍を撃退してほしい」という要請が出されます。
やらなければ、半島にいる日本人に危害を加えるという。
やむなく日本は、翌7月29日、第9歩兵旅団によって牙城に立てこもる清軍の攻撃に向かいます。
現地に到着した午前2時、清国兵の襲撃によって松崎直臣陸軍歩兵大尉が戦死する。
これが日本側で初の戦死者となります。
日本はこれを受けて攻撃を開始し、午前7時には、敵陣地を完全に制圧する。
この戦いで、日本側の死傷者は82名です。
これに対し、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器を放棄して平壌に逃走してしまいます。
なお、この戦いで、第21連隊の木口小平二等兵が、死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残っています。実に立派です。
翌々日、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士とあわせて、合計1万2千人の大軍を平壌に集結させます。
日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続しますが、清はこれに応じない。
やむなく日本は、けじめとして、8月1日に清国に宣戦布告文を発します。
朝鮮の意思を尊重し、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という詔です。
この日清戦争の宣戦布告分について、ウィキペディアの「日清戦争」をたまたま開いたら、この「詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、自国権益の拡大を目的にした戦争」と書いてある。
どこのだれが書いた文章かしらないけれど、日本が国家として戦争を行う上で、明治大帝の名で出された詔勅に対し、「名目にすぎず」と書くのは、あまりにもご不敬です。
悔しいので、日清戦争開戦の詔勅の全文を掲載します。
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【清国ニ対スル宣戦ノ詔勅】
(しんこくにたいするせんせんのしょうちょく)
【原文】
天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ、忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。
朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス。
朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ、陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。
苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年、文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ搆フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ。何ソ料ラム。
清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ。
朝鮮ハ、帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。
而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
朕ハ明治十五年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ、以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ、清国ハ翻テ種々ノ辞柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ。
帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ、更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ。
則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ、以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス。
熟々其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス。
事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス
御名御璽
明治二十七年八月一日
【口語訳】
天佑を保全し、万世一系の皇位を受け継いだ大日本帝国の皇帝は、 忠実にして勇武なる汝ら、国民に示す。
朕は、ここに、清国に対して宣戦を布告する。
朕の政府関係者・官僚・役人のすべて は、よろしく朕の意を体し、陸上にあっても海上にあっても、清国に対して交戦に従事し、それをもって国家の目的を達成するよう努力すせよ。
いやしくも 国際法に抵触しない限り、各員、その立場と能力に応じて、あらゆる手段をつくして 漏れ落ちるところの無いように心を定めよ。
朕が深く考えるに、朕の即位以来、二十有余年の間、文明開化を平和な治世のうち に求め、外国と事を構えることは、極めてあってはならないことと信じ、政府に対し て、常に友好国と友好関係を強くするよう努力させてきた。
さいわいに、諸国との 交際は、年をおうごとに親密さを加えてきた。
にもかかわらず清国が、朝鮮事件によって日本に対し、日本側の隠すところのない友好関係にそむき、信義を失なわせる挙に出ようとは、どうして予測できたであろう。
朝鮮は、日本が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国である。
しかし清国は、ことあるごとに自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮 に内政干渉し、そこに内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で朝鮮に対し出兵した。
朕は、明治15年の済物浦条約により、朝鮮に兵を出して事変に備えさせ、更に朝鮮から戦乱を永久になくし、将来にわたって治安を保ち、それをもって東洋全域の平和を維持しようと欲し、まず清国に(朝鮮に関しては)協同で事にあたろうと告げたのだが、清国は態度を変え続け、さまざまないい訳をもうけて、この提案を拒んだ。
日本は、そのような情勢下で、朝鮮に対して、その悪政を改革し、国内では治安の 基盤を堅くし、対外的には独立国の権利と義務を全うすることを勧め、朝鮮は、既に その勧めを肯定し受諾したのにもかかわらず、清国は終始、裏にいて、あらゆる方面 から、その目的を妨害し、それどころか言を左右にしながら口実をもうけて、時間をかせぐ一方、清国の水陸の軍備を整え、それが整うや、ただちに その戦力をもって、(朝鮮征服の)欲望を達成しようとし、更に大軍を朝鮮半島に 派兵し、我が海軍の艦を黄海に要撃し、ほとんど 壊滅の極となった。
すなわち、清国の計略は、あきらかに朝鮮国の治安の責務をになうものとしての日本を否定し、日本が率先して、独立諸国の列に加えた朝鮮の地位を、それらを明記した「天津条約」と共に、めくらましとごまかしの中に埋没させ、帝国の権利、利益 に損害を与え、東洋の永続的な平和を保障できなくすることにある。
これは疑いよう がない。よくよく清国の為す所に関して、そのたくらみごとのありかを深く洞察するならば、実に最初から清国は、朝鮮はじめ東洋の平和を犠牲にしてでも、その非情な野望を遂げようとしていると言わざるをえない。
事は既に、ここまできてしまった。
朕は、平和であることに終始し、もって帝国の栄光を国内外にはっきりと顕現させることに専念しているけれど、その一方で、公式に宣戦布告する。
汝ら、国民の忠実さと勇武さに寄り頼み、すみやかに、この戦争に勝って、以前と同じ平和を恒久的に 取り戻し、帝国の栄光を全うすることを決意する。
~~~~~~~~~~~~
日本は、朝鮮を独立国として遇し、日本と同様に庶民生活が向上するよう朝鮮に協力してきたが、清は、条約によって朝鮮の独立を認めた後も、なお朝鮮を属国扱いし、日本との間で、「派兵はしない」と取り決めまであったのに、これを「蒙晦ニ付シ(いいかげんな目くらましとごまかし)」で無視して派兵をしてきた。
だから日本は、公式に清国に宣戦布告する、と述べているのです。
これこそが真実です。
宣戦布告は、8月1日です。
けれど日本は、その後もなんとか外交努力で事態を鎮静化しようと努力します。
ところが事態は一向に改善しない。
やむなく日本は、1ヵ月半後の9月15日、平壌の清軍基地へ攻撃を開始します。
そして同日午後4時40分、清軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。
ところが、清国軍は、約束を違えて逃亡してしまいます。
そして、同日夜に日本軍が入城する。
日本の大勝利です。
2日後、9月17日12時50分、黄海上で、日清両艦隊が遭遇します。
先に攻撃してきたのはこんどもまた、清です。
日本側は、初代連合艦隊司令長官伊東祐亨(いとうゆうこう)率いる旗艦「松島」以下12隻。
清国艦隊は、18隻。
敵戦力の方が大きかったのですが、日本艦隊は、果敢に戦い、清国艦5隻を撃沈、5隻を大中破、2隻を擱座させて、大勝利します。
この海戦によって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を完全に確保します。
さらに10月25日には、山形有朋率いる第一軍が鴨緑江渡河作戦で清国陸軍に大勝利する。
10月24日には、大山巌率いる第二軍が旅順を制圧。
そして日本は、明治28(1895)年4月の日清講和条約まで、清軍を相手に連戦連勝しています。
日本は、「約束」を「都合」に優先させる民族といえます。
朝、出勤するときに、前日どんなに疲れていても、なんとかして時間に間に合うように出勤しようとする。
朝「眠い」という自己都合より、あらかじめ決められた約束事、「朝何時出社」という約束事をきちんと守ろうとする。
そうした国民一人一人の積み重ねが、電車の時間通りの運航や、会社の勤務時間、あるいは待ち合わせなど、大きなことから身の回りの小さなことにまで、日本社会に浸透し、日本というきわめて効率性の高い社会を形作っています。
これに対し、閔妃や、当時の清国、あるいは昨今の日本の政界の民主党や奸内閣などは、国民や他国との約束事より、自分の都合を優先する。
自己の利益ばかりを追う。
約束しながら、それを平気で無視して都合よく兵をすすめたり、多勢に無勢をいいことに虐殺の限りをつくす不条理に対して、明治から昭和にかけての日本は、我慢に我慢をかさねて、それでも平和的解決の道を模索し続けてきました。
このことは、日清・日露、第一次大戦、大東亜戦争と、日本が一貫して貫いてきていることです。
そして戦後の日本にしても、約束は守る。依頼された仕事は完璧に仕上げる、そういう哲学をバカ正直に実践し、国際的信用を勝ち得、経済の復興を図った。
日本の伝統的文化は、約束を守ること・・・つまり相互信頼にその根本があります。
約束を守り、平和を愛し、信頼を築き、互いに成長できるように気遣う日本。そして一朝事あれば、正々堂々と果敢に戦い、連戦連勝の勝利を果たす日本。
これに対し、大言壮語するけれど、いざとなったら逃げ出してしまう。
嘘八百を並べ立てる。
自己の金儲けだけしか考えない。
多勢に無勢で相手より絶対に強い立場にあると思ったら、ありとあらゆる非道を平気で行う。
日清戦争は、信頼を重んじ、必死に努力して富を得た日本と、干渉ばかりして努力をせずに事大主義に凝り固まった清国との戦争です。
そして結果は、最後に明らかとなった。
もちろん日本の勝利です。
正しい者が、最後は勝つのです。
明日は、初代連合艦隊司令長官伊東祐亨(いとうゆうこう)について書きます。
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