
多忙なため、ブログの更新時間が制限されていて、申し訳ないけれど、今日も過去エントリーからです。21日からまた新作でいきます。
ただ、文面は、かなり校正しています。
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樋口一葉といえば「たけくらべ」で有名な明治の女流作家です。
以前は五千円札にも顔が載っていた。
明治28(1985)年当時、めっちゃ売れっ子作家だった樋口一葉は、東京・渋谷に住んでいたそうです。
その頃の渋谷というのは、いまのような繁華街ではありません。
東京市のはずれにある、さびしい土地で、貧乏長屋がそこにはあった。
樋口一葉は、その渋谷の貧乏長屋に住んでいて、明治を代表する売れっ子作家だったけれど、とにかく貧しい。
着る者も1枚しかなくて、その服を洗濯して乾すと、他に着るものがないから、腰巻き1枚ですごしていたそうです。
その頃の長屋といえば、土間+1部屋の平屋です。
入口の障子をあけると、裏庭まで見通せる。
そんな長屋で、若い樋口一葉は、裸に腰巻ひとつで、たけくらべを執筆していたわけです。
それが普通だったし、明治の日本の庶民の暮らしは、それほどまでに貧しかった。
そんな明治日本は、日清・日露の戦争を立派に戦います。
明治政府は、軍艦も、鉄砲も大砲も、基本、ぜんぶ日本国内で製造した。
そのための大量の雇用も促進した。
戦費の足らない分は、海外から資金調達したのだけれど、日露戦争のときに、世界中が、絶対に日本は負けると見ていた中で、積極的に日本にお金を貸してくれたのが、一昨年倒産したリーマン・ブラザースでした。
さて話が脱線しましたが、ともあれ明治政府は、富国強兵を柱として、日本国内で軍需産業の育成を図った。雇用の確保を図った。
鉄砲や軍艦を作った。
軍隊にも人を雇い入れた。
そのために多くの人が職を得て、消費が活気づいた。
その消費が、文壇にもまわり、日本は漱石や一葉など、世界に誇る文豪を輩出しています。
お金が、世間に流通することで、日本は少しづつ豊かになっていったのです。
昨今、民主党などが、しきりに政府の歳費の切り詰めや、公務員のクビキリ、給与のカットなどを主張しています。
しかし、公務員の給与カットや、大がかりなクビキリなどを実際に行うと、上に書いた明治という国家が力をつけ、経済力と国力を増していったことの、正反対の効果が起こります。
雇用が減り、国内に流通するお金も減ります。
つまり、日本は、ますます貧しくなる方向に拍車がかかる。
民間が四苦八苦しているのに、公務員がいい給料をもらうのは許せない、というご意見は多いけれど、政府が公務員を粗末にしたら、国内景気はますますひっ迫する。
粗末にされた公務員は庶民を粗末にする。
官が、質素になれば、庶民生活はもっと質素になる。
いいことなんてないです。
もっとも、日教組に所属している教師などの給料を半分にカットしたり、彼らをクビにすることには大いに賛成です。
話がますます逸れました。
えっと、樋口一葉です。
一葉が、大ヒット作「たけくらべ」を書いたのは、そんな日露戦争開戦の9年前。
まだまだ日本が貧しかった時代のことでした。
この時代、長屋に住む多くの人の着物といえば、一張羅。
一張羅というと、いまではたくさん持っている衣類の中の、特別な被服くらいに思われていますが、この時代の一張羅は、いま着ている、その着物、一枚しか着るものがない。
まさに一張羅だった。
一葉に限らず、男性なども、着ている着物と褌(ふんどし)を、を井戸端で洗濯したら、他に着るものがないので、素っ裸で、疎チンも丸出しのまま、干した着物が乾くのを待った。
なにせ乾くまで他に着る者がない。
全国の人と富が集中する東京ですら、そんなだった。
これが地方にいくと、もっと貧しかった。
樋口一葉が、ちょうど「たけくらべ」の執筆をしていたころ、秋田県鹿角市(かずのし)の武士の家に生まれた、和井内貞行(わいないさだゆき)氏は、同じく秋田県小坂町にあった小坂鉱山に勤務します。
で、十和田湖のほとりに住みます。
十和田湖は、青森県にある湖です。
面積は61.1平方キロメートル。
日本で12番目の面積規模です。

現在、十和田湖は、年間200万人近い客が訪れる東北有数の観光地です。
十和田湖で有名なのが、ヒメマスです。
ヒメマスの漁獲高では、十和田湖が日本屈指です。
ところが、和井内貞行が、十和田湖に住んだ頃には、十和田湖に魚は一匹もいなかったのです。
鉱山技師だった和井内貞行は、「この十和田湖に魚がいたら、このあたりの人たちは新鮮な魚を食べられる。食うに困らなくなるのではないか」と考えます。
そこでいろいろな人に相談をして、十和田湖に魚を放してみた。
貞行、26歳のときのことです。
貞行は、はるか遠くの港まで買い付けにいって、最初は鯉(コイ)を600匹放します。
どっかから資金が出たわけではありません。
全部、自腹です。
貯金をはたいて鯉を買い、それを山道をわざわざ十和田まで運んで放したのです。
ところが、地元には、古くからの言い伝えがあります。
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十和田湖の神様は魚が嫌い。
だから十和田には魚は住まねえ
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というものです。
伝説を信じる土地の人々から、貞行はボロクソに悪口を言われる。
バチがあたる。
たたりがあるぞ、等々です。
5年がたちます。
鯉は十和田湖で大きく育ってくれます。
悪口を言っていた土地の人たちは、大喜びして、みんなで鯉を獲り、腹いっぱい食べます。
ところが、あまりにみんなが喜んで鯉を収穫したので、肝心の鯉が、湖からいなくなってしまった。
ひどい話です。
十和田湖は、再び、魚のいない湖に戻ります。

最初の鯉に、貯金をはたいた貞行には、もうお金がありません。
それでも貞行は、少しづつ給料を貯めては、いろいろな種類の魚を仕入れ、湖に放し続けます。しかし、どの魚も育たない。
それから12年後、38歳になった貞行は、貞行は小坂鉱山をやめ、退職金で、十和田湖で魚を育てることだけに取り組むことにします。
自分の財産を遣って、毎年のように、いろいろな種類の魚を十和田湖に放します。
カワマス
日光マス・・・etc...
しかし、何年かかっても魚は育ってくれません。
和井内貞行は、ついに自分の金をつかいはたしてしまいます。
それでも貞行はあきらめない。
借金までして魚を放します。
ただでさえ苦しい生活です。
それでも、貞行はあきらめない。
貞行44歳のときのことです。
貞行は、ヒメマスの稚魚を買い、十和田湖に放します。
ヒメマスは3年たつと、放した場所に大きくなってもどってくるという、噂を耳にしたのです。
この頃の貞行は、近所からは変人扱いされ、生活も乞食同然。家族はおかゆをすすり、家族全員が、一張羅の、ボロボロの服・・・それが服と呼べればだけど・・・を着ていたといわれています。
もう、あとに続く資金はありません。
このヒメマスの稚魚が彼にとって最後のチャンスです。
3年が経ちました。
貞行47歳です。
ある秋の日です。
貞行は、今日はヒメマスたちは帰ってくるか、明日は帰ってくるかと、毎日、湖畔に立っていたのです。
でも、昨日まで、ヒメマスの姿はない。
今日もだめかな、と思ったそのときです。
水面の下で何かが動いた。
まさか・・・・
のぞいてみると、なんとそこには、あの3年前に放したヒメマスの稚魚たちが、大きく育って帰ってきてくれていた。
このとき、貞行は、呆然と立ちすくみ、声も出なかったそうです。
ただ何も言わず、滂沱の涙を流した。
貞行が、ようやく十和田湖に魚を育てるという夢をかなえた瞬間でした。
最初の鯉(恋ではありません)に失敗してから、なんと22年が経っています。
貞行は、魚を育てただけでなく、美しい十和田湖を全国に紹介もしています。
そして、十和田には、自然とおいしいヒメマス料理を求めて、多くの人が訪れるようになった。
和井内貞行は、自分を犠牲にしながら、人々の飢えから救うために、魚の棲まない十和田湖で魚を育て、十和田湖の観光の基礎を作った人です。
戦前の日本には、そういう「他人のために、あるいは公のために自分の人生のすべてを捧げる」という生き方が、たしかに存在しています。
自分が豊かになるという選択ではなく、多くの人の役に立つ生き方というところに、日本人としての美意識が働いていた。
売れっ子作家になりながら、樋口一葉の短い生涯(享年25歳)の人生は、貧しさの中にあった。
彼女は、作家として得たお金を、実家に送金するとともに、貧しい暮らしをしている多くの人に寄付をしています。
和井内貞行は、経済的にはとても貧しい人でした。
けれど、彼は多くの人に愛され、没後百年以上経ったいまでも、地域の人たちに愛され続けている。
いまの日本では、お金だけが「豊かさ」の象徴のように言われます。
けれど、経済的豊かさだけが「豊か」であることにはならない。
経済的には貧しくても、高貴な生き方というものも、人にはあるのだ、と思うのです。
まして、政治権力欲しさに、中共や韓国にわざわざ出かけて行って、日本政府にカネを出させるからと、献金をおねだりし、カネを彼らの国にある金融機関の自分名義の口座に振り込ませ、これを日本国内の銀行から引き出す。
それでも、巨額の資金を隠しきれず、あろうかとか死亡者の名前まで使って個人献金を受けたことにし、「あれは自分のカネだった」とあつかましい発言してみたり、カネのために国民を裏切っても平気な政治家など、言語道断です。
昨今、世の中なんでもかんでもカネカネカネと、カネゴンじゃあるまいし、もっと大切な生き方というものが、あるだろう、と思ったりすのです。
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