
久松五勇士(ひさまつごゆうし)について、お話してみようかと思います。
戦前は教科書に載り、誰もが知っていたお話です。
日露戦争における日本海海戦で、日本海軍がロシアの誇る世界最強艦隊であるバルチック艦隊を撃破殲滅したことは、みなさまご存知のことと思います。
このとき、ロシア・バルチック艦隊が、ロシアのウラジオストクにあるロシア太平洋艦隊と合流してしまったら、日本海軍に勝利はなくなります。
日本海軍が日本海の制海権を失うと、大陸にいる日本陸軍は孤立し、ロシア陸軍の完全に餌食となってしまう。
まさに乾坤一擲の大勝負とはこのことで、日本海軍は、なんとしてもバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、これを叩かなければならなかった。
ところが、はるばる喜望峰を超えてやってきたバルチック艦隊を、日本はフィリピンのバシー海峡あたりで見失ってしまう。
バルチック艦隊はどこに行った!?
もしかするともうすでにウラジオストクに到着したのではないか。
太平洋を迂回するのではないか。
日本海を直進するのではないか。
さまざまな憶測が乱れ飛びます。
レーダーなどない時代です。
敵艦は、目で見て発見しなければなりません。
当時の日本海軍には、八方に手をまわして警戒、防衛、迎撃体制をとるだけの余裕なんてありません。
敵、バルチック艦隊を殲滅しなければ、日本に日露戦争の勝利はない。
そのバルチック艦隊を殲滅するためには、日本海軍の戦力を集結させなければならない。
集結させるということは、つまり一か所に集結するわけで、その集結している場所以外のところをバルチック艦隊が通過したら、もはや日本に勝機はないのです。
日本中が固唾を飲んでバルチック艦隊の行方を心配していた明治38(1905)年5月23日、宮古島の沖合で漁業をしていた奥浜牛という青年が、バルチック艦隊を目撃します。
奥浜牛の乗った帆かけ船の小さな漁船の近くを、バルチック艦隊が通過したのです。
バルチック艦隊も、彼の乗った船を目撃します。
しかし、たままた彼の乗った船が龍の絵柄の大漁旗を掲げ、沖縄の海人独特の長髪をしていた。
このため幸いなことに、艦隊側では彼を中国人と誤認し放置してくれたのです。
奥浜青年は、バルチック艦隊の通過を見届けると、即座に網をあげ、宮古島の漲水港(現・平良港)に、報告のために駆け込みます。
それが、5月26日の午前10時頃のことだった。
そして、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさま駐在所の警察官と一緒に、宮古島の役場に駆け込みます。
宮古島役場は、大騒ぎとなります。
いま、日本海軍が躍起になって探しているバルチック艦隊を発見したのです。
すぐさま日本海軍に報告しなければならない。
ところが、当時の宮古島には、通信施設がないのです。
無線も電話もない。
役場の重役たちは、島の長老達と会議をひらき、すぐさま石垣島にこの情報を知らせようと決意します。
石垣島には郵便局があり、そこからなら無線電報で日本海軍に知らせることができるのです。
しかし宮古島から石垣島までは、170キロの距離があります。
当時は、モーターボートも飛行機もヘリもありません。
あるのは、サバニと呼ばれる手漕ぎボートだけです。
サバニというのは、全長9メートル足らずの丸木舟です。
長老たちは、宮古島の島民の青年から、屈強な若者5人を選抜します。
選ばれたのは、松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、久貝原村の与那覇蒲の5人です。
5人は、すぐに宮古島を出港します。
そしてなんと、15時間、ぶっとおしで丸木舟を漕ぎに漕ぎ、ようやく石垣島の東海岸に到着します。
ところが、せっかく石垣島に着いたのに、折からの干潮のために港に入ることができない。
やむをえず彼らは、潮が満ちるのを待って、ようやく港に船を付けます。
到着した時には、さすがに全身の骨が砕けるかと思うほど、5人ともくたくたに疲れ切っていた。
そこで港の住民に、郵便局はどこあるかと聞くと、なんと港からは険しい山を越えた反対側に局はある。
電話のある時代ではないのです。
車があるわけでもない。
5人は、疲れた体にムチ打って、30キロの山道を5時間かけて、走って峠越えをし、ようやく27日午前4時に、八重山郵便局に到着します。
局員は、5人から文書を受け取り、電信を那覇の郵便局本局へ打ちます。
電信はそこから沖縄県庁に打たれ、そこから東京の大本営へと伝えられた。
そのときの電文です。
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五月ニ八日午前七時十分 八重山局発
五月ニ八日午前十時 本部着
発信者 宮古島司、同警察署長
受信者 海軍部
本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、
柱、二、三、
煙突二、三、
船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、
内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。
但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。
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実際には、同じく28日午前4時45分に、海軍に徴発されていた日本郵船の貨客船「信濃丸」が、「敵艦見ユ」の文句で有名な、
「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電し、これが海軍軍令部が確認した最初のバルチック艦隊発見の報告となりました。
久松五勇士の報告が軍令部に着いたのは、午前10時なので、約4時間遅れです。
けれど、いまどきの「自分さえよければ」という考えからは、絶対に、絶対にこんなにたいへんな久松五勇士のような行動はできないです。
彼らが15時間もかけて、荒海を手漕ぎ船で乗り越え、さらに陸にあがって5時間も駆けに駈けたのは、彼らがたとえ本土から遠く離れた島の漁師であったとしても、公に奉じるという国家意識を明確に持っていたからであると断言できます。
戦前は、彼ら久松五勇士の物語は学校の教科書に掲載され、日本本土だけでなく、満州や台湾、パラオ、フィリピン、インドネシアなど、日本が統治した諸国の教科書でも広く紹介されました。
ところが久松五勇士に関する記述は、戦後GHQによる干渉がはじまると、すぐに教科書に、真っ黒に墨を塗られ、以後、教科書から完全に姿を消してしまいます。
でもね、みなさん。
やっぱり、久松五勇士って、絶対に「英雄」だと思うのですが、みなさんはいかがですか?

上の写真は、もと海上自衛官の方が宮古島を訪れた際に撮影された、久松五勇士の舟形の顕彰碑です。
この方は、この顕彰碑を見て、次のように語られています。
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フネを支える5本の柱の一本一本が5勇士なのです。
この碑を見た時、私は船乗りとはフネに乗っている者ではなく、この舟形を支える柱のように、フネを海に浮かべ続け、海のを乗り切るためにフネを支え続ける者たちなのだと思ったものです。
雨、風、波の中でフネの中に入って来る水(船乗りはアカと呼びます。)をひっきりなしに汲み出さねばフネは沈んでしまいます。
また海の上では浮かんでいるだけでは到底目的地に到達できません。
潮流、風波の影響を考慮しつつ目に見えぬ目的地を思いつつそこへの修正針路を取らねばなりません。
久松5勇士はそのような意味に於いても、勇敢かつ稀有なる船乗りであり、宮古の人たちだけでなく、日本人が一様に誇りとできる勇者達です。
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