
「老兵の繰り言」というブログがあります。
元、特攻隊員の永末千里さんが書かれているブログです。
http://blogs.yahoo.co.jp/senri0220
永末さんは、昭和2年のお生まれです。今年で84歳になられます。
永末さんは、昭和18(1923)年、満16歳で海軍甲種飛行予科練習生として、鹿児島海軍航空隊(予科練)に入隊されました。
そして昭和19(1924)年3月、予科練を卒業し、飛行術練習生となられ、同年11月に、海軍二等飛行兵曹に任命されます。
下にあるのは、その任官祝いのときの写真なのだそうです。
全国から集まった、健康で明るく輝く笑顔の若者たちです。

二飛曹に任官するとすぐに、この写真の若者たちに特別攻撃隊への編成が命ぜられます。
全員ではありません。
希望者を募っての編成です。
全員が、特攻隊を志願します。
永末さんも志願した。
けれども永末さんは、艦攻分隊長の砂原大尉に呼ばれ、
「貴様は長男だから 駄目だ!」と一喝されて、転属準備を言い渡されてしまいます。
これにはすこし解説がいるかもしれません。
当時の日本は、長子相続制です。
いまでは日本は、相続財産はたとえば子供が5人いたら、5等分されることになっています。
けれど、戦前までの日本は、長男が全財産を相続したのです。
これには理由があります。
たとえば、田んぼが5反(1500坪)あったとします。
これは相当な財産です。
けれど、子供が5人いて、この田を5等分したら、ひとりの割り当ては1反(=300坪)になります。
これでは、自家用に食べていくことも、米を出荷してお金に換えて生活することもできません。
こうして、この数だけ田んぼを分けてしまうことを、「田分け」といいます。
そうです。「たわけものめっ!」のたわけです。
実は、鎌倉幕府が、この等分相続方式を採用していたのです。
このため、武士たちの農地がこの数だけ年々小さくなり、結果、幕府そのものが崩壊してしまった。
いまどきの学校では、鎌倉幕府は、元寇のときの恩賞が払えなくて崩壊したなんて教えているけれど、元寇から鎌倉幕府崩壊までは、約60年も経過しているのです。
これは引き金にならない。
一方、田が寄り集まると「田寄り」です。頼りになる。
だから、「頼り」は、みんなで力をあわせるの意です。
話しが脱線しましたが、要するに家庭というものが、国家の最小単位になっていた時代、家庭の財産は、長男が相続することで、家を守り、家族の生活を守ってきたのが、足利幕府以来、700年来の日本の基本的カタチだったわけです。
戦後の日本は、GHQによって改造された民法の均分相続を、何も知らずにありがたがっているけれど、これは国家を崩壊させる稀代の悪法です。
さて、上の写真にあるような快活な笑顔の若者たちを部下に持つ砂原分隊長は、上からの命令で、特攻隊志願を募った。
志願したものは、死ぬわけです。
誰だってかわいい部下を死なせたくなどないです。
だから、「コイツは長男だから」というのは、「家」中心単位で動いていた戦前の日本では、ある意味、上に対して「できません」といえる格好の材料だったわけです。
だから砂原分隊長は「駄目だっ!」と一喝した。
心がやさしいから、大声をあげて「一喝」したのです。
大声で永末さんを一喝しながら、こいつは助けれやることができたという思いを、同時に抱いている。上司というのは、そういうものです。
さて、どこへ転属させられるのだろうかと思っている永末さんは、再度呼び出されてしまいます。
「部隊の編成上、もう一機必要になった」というのです。
このとき砂原大尉は「強制はしないがどうだ」と言った。
このときの大尉のつらい胸の内がわかるのが、当時の優秀な日本人です。
情を惻隠するという。
いまの実証主義、証拠主義とか言っている反日左翼の曲学阿世の徒には、未来永劫わからない心なのかもしれません。
大尉の苦しい胸の内をよそに、まだ若かった永末さんは、喜んで特攻隊を志願します。
しかし、それも志願時点のことです。
実際に特攻隊員となったとき、当人たちには様々な葛藤が生まれる。
何日後かには、「死ぬ」と決まったのです。
父や母の顔、弟や妹の顔、親しかった田舎の友達の顔、大好きだった片思いの彼女の顔、顔、顔。。。。
特攻隊員だって人間です。
そこには様々な、心の葛藤が生まれる。
昨今の反日左翼系の学者の中には、特攻隊員というのは、一種の狂信教信者に他ならない、などとわけのわからないことを書いているものがいるけれど、そういう文章を書いている方が、戦後反日左翼教という狂信教に洗脳されたバカたれに違いないとボクは思う。
これについて、永末さんが実に感慨深い文章を寄せられています。
引用します。
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【特攻隊員の死に対する考え方】
「特攻隊員」を命じられた場合、覚悟が決まるというか、決心がつくというのか、死に対する気持ちの整理ができるのに、2~3日かかるのが普通です。
中には1週間程度も悩み続ける者もいます。
そして、1週間が過ぎても、なお決心がつかなければ脱落するしかないのです。
では、特攻隊員は如何にして、死に対する自分の気持を整理し覚悟を決めたのでしょうか。
まず一般的に死を解決する要素として考えられるのは、宗教です。
私の家庭は真宗の信者でした。
子供のころから、仏壇に向かう母親の後に座り「正信偈」その他のお経を読
む程度の関心は持っていました。
また法要などで「夫レ人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ観ズルニ・・・」に始まる蓮如上人の「白骨の御文章(おふみ)」に無常を感じたり、説教師の法話を聞いて感銘を受けることもしばしばでした。
しかし、いくら「極楽浄土」を信じていても、敵とはいえ「殺生」に変わりはありません。
だから、「極楽」ではなく「地獄」に落ちるのではないのか?
などと考え始めると、ますます混乱します。
「そうだ! 狙うのは敵艦であって敵兵ではない!」
そう心に決めることで、自ら安らぎを求めていたのです。
当時の年齢や人生経験から、信心といっても程度が知れています。
それに比較して、解決すべき問題があまりにも大き過ぎたのです。
だから、宗教によって死を肯定する心境までには至りませんでした。
次に「悠久の大義に生きる」という国家神道の教えです。
当時の精神教育は、この一点に集約されていました。
だが、前述の宗教と同じように、真にこれを理解し、これで自分の死を納得することは出来ませんでした。
日ごろ同僚との会話の中で、
「俺たちは、戦死すれば軍神となって靖国神社に祀ってもらえるんだなあ…」
「そうだよ、靖国神社にも先任後任があるんだ、俺が先に行って待っている。遅れて来た奴は食卓番だぞー」
「そらつくなよ、軍神が食卓番なんかするものか。毎日が上げ膳据え膳で、 お神酒は飲み放題だ!」
「そうだー、俺たちは軍神なんだ。だからお神酒だけは今から供えて欲しいなあー」
「なに言ってる。お前さんの供えてもらいたいのは、おふくろさんのオッパイだろう」
などとふざけ合っていました。
しかし、本心から、軍神になることや靖国神社に祀られることでこの問題を解決できた者は、恐らく一人もいなかったと思います。
人間はどうせ一度は死ぬのです。
それなら多少とも、後世に名を遺したいという見栄があります。
そして、軍神や靖国神社は生前に想定できる唯一の死後の姿でした。
地獄や極楽など、単なる幻想の世界ではなかったのです。
立派に戦って戦死すれば、靖国神社に軍神として祀られることは約束された現実でした。
しかし、初めからそれを目的として考えるのは、神に対する冒涜だと思います。
私たちは、国家神道を観念的には理解していましたが、それは、戦死後の姿を想定する手段としてであって、死を解決するには、別の何かを求めざるを得なかったのです。
次に運命として諦観する方法があります。
確かに人の運命には予測できない面があります。
それは、過去の戦闘や飛行機事故などの例で、生死は紙一重であることを痛感していました。
だから、これに運命的なものを感じていたとしても不思議ではありません。
だが、これは結果として云えることで、運命そのもで死を解決するのは、単に諦らめの理論です。
諦らめ切れないから悩むのです。
だから、これが死を解決の手段にはなりませんでした。
要は理屈で解決するのでなく、感情的に納得できる何かを求めていたのです。
私が死を意識して、真っ先に考えたことは、最も身近な者のことでした。
即ち、両親や姉など肉親のことでした。
自分が犠牲になることで、国家が存続し両親や姉達が無事に暮らす事ができるのであればという、切羽詰まった考え方でこの問題に対応したのです。
恐らく、 私以外の者の考え方も大同小異であったと思います。
この問題を解決するには、肉親に対する深い愛情があったと信じています。
年齢によってはその対象者が妻子であり、また約束を交わした最愛の女性であった者もいたに違いありません。
この肉親に対する愛情が、わが身を犠牲にして顧みない、重大な決意を可能にしたのです。
また立場を変えて、親の側からこれをみるとき、親もまた複雑な思いに駆られていたに違いありません。
親想う 心に勝る 親心
今日のおとずれ 何と聞くらむ
吉田松陰の辞世を、現実に体験することになったのです。
いかに国のためとは云っても、わが子の無事を願わない親はいません。
お互いの愛情と信頼が「特攻」という常軌を逸した行動の原動力になったとすれば真に非情です。
今日は人の身、明日はわが身、いつ出撃命令が出るか分からない状態で、更に死ぬための訓練が続けられました。
一度は死を決意したものの、夜半ふと目覚めて故郷に思いを走らせることがあります。
そして、まだ死にたくない、何とか生き延びる方法はないかと、生への執着に悩まされることも度々でした。
特攻隊が編成された当初は、皆一様に無口になり、決意を胸に秘めている様子でした。
ところが、日が経つにつれて、今度は以前にも増して快活になってきました。
皆それぞれ自分の死を納得したのでしょうか。
それとも、表面の快活さは、心中の悩みを隠すための手段なのかも知れません。
心を許し合った同期生の間でも、直接この問題に触れて話し合うことはありませんでした。
それは、他人の介在を許さない、自分自身で解決すべき問題だったからです。
そうは言っても、人生経験の浅い18歳の若者に、このような解答を出させるとは非情です。
だが、内心の葛藤とは裏腹に、飛行機を操縦している時だけは、緊張のため雑念も涌かず、死ぬための訓練でありながら、超低空飛行を行っても怖いというよりもむしろ爽快な気分を味わうことさえありました。
訓練は続き技量は上達しても、死に対する不安や恐怖は消えるどころか益々強くなってきました。
この生への執着は、出撃命令を受けて最後の離陸の時までは、恐らく断ち切る
ことは出来ないであろうと感じていました。
誰でも、一時の感情に激して死を選ぶ事は可能かも知れません。
しかし、理性的に自分の死を是認し、この心境を一定期間持続することが、われわれ凡人にとって、いかに大変なことであるか、経験しない者には想像も出来ないことでしょう。
日ごろ大言壮語していた者が、「特攻隊」の編成に際して、仮病を使ってまで逃げ隠れした事例からも判断できると思います。
見方を変えれば、あれが人間本来の正直な姿であったのかも知れません。
当時のような「全機特攻」の重苦しい雰囲気の中で、なお死から逃れようと努力する者には、それ相当の勇気が必要だったと思うからです。
他人の心を計り知ることはできません。
だが、意識して皆んなの話の輪に加わり、他愛ない話題に興じて、 無理に快活に振る舞っている自分の姿を彼らはどう見ているのだろう。
彼らもまた、私と同じような心理であったのかも知れません。
皆と一緒に談笑の輪の中にいながら、ふと脳裏を掠める不安に戦(おのの)く事も度々でした。
昼間は同僚との語らいで気を散らす事もできます。
だが、夜中は自分だけの時間です。
眠れぬままに、古里の思い出に浸り、死後の未知の世界を想像することも再々でした。
際限なく次々と頭に浮かぶ雑念を振り払いながら、 儚い人生につかの間の安らぎを求めようと、焦燥する日々が続いていたのです。
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ボクは、上の文章にある葛藤こそが、真実の声だと思います。
文中にもありますが、「一時の感情に激して死を選ぶ事は可能かも知れません。しかし、理性的に自分の死を是認し、この心境を一定期間持続することが、われわれ凡人にとって、いかに大変なことであるか」
熱狂的な宗教的熱気の中で、一種のトランス状態になって出撃したとかいうのなら、まさに狂信者集団であったといえるかもしれません。
けれど、実際に特攻をなし、出撃して行った若者たちは、全員が、ひとりひとりが、命令を受けて、実際に出撃するまで、何週間も、ときに何か月も間が空いています。
そして飛行場を飛び立ってもなお、敵艦隊に突入するまでには、数時間、機内にひとりでいる。
人間というのは、煩悩のかたまりです。
しかも、特公平に採用になる予科練生というのは、とびきり成績優秀、身体頑健な若者たちです。
常人以上の思考力がある。
その彼らは、出撃の日まで、日々悩み抜いて、最後に自らの死を受け入れることができたのが、
「わが身を犠牲にして顧みない、肉親に対する愛情」だった。
彼らは、その愛情のために、わが身を肉弾にして、敵艦に突入していったのです。
彼らが、悩みに悩みぬいて、最後の最後にたどり着いた結論が、自らの命よりたいせつな肉親だった。
その肉親の子供たちや孫たちが、現代日本を生きている私たちです。
私たちは、彼らの尊い犠牲の上に、この「生」をいただいている。
そのことを、私たちは、もういちど心の中に確認していくべきなのではないかと思います。
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